コンテニュー
翌朝。
ダリアは見慣れた、通いなれた建物の前で立ち止まっていた。
初めは右も左もわからぬ新人として。
あるときは次の世代を背負う期待の若手として。
またあるときは才能の枯れたベテランとして。
そして今は、どこの誰とも知れぬ、身分なき男として。
「何してるの?」
隣からアリアの声がした。
「いや、ちょっとな」
「入らないの?」
「入るよ」
「じゃあ、さっさと入りなさいよ」
「わかってるよ」
もう一度だけギルドの看板を見上げ、扉を開く。
何度も開いた、普通の家屋と比べて少しだけ大きいサイズの扉。
中をのぞけば、以前と何も変わらない喧噪、ギルド付きの食堂から漂う朝食の香り、殺到する冒険者たちを鮮やかにさばいていく受付。
変わっているところを探すほうが難しい。
だが、その中にダリアの姿はない。
「あんまり落ち着き払ってるとそれはそれで不審に思われないかしら?」
「これでも結構緊張はしてるんだけどな」
二人は事務と小さな札のかかっている受付へ並ぶ、冒険者で事務が必要になることはそう多くはない。
順番はすぐに回ってきた。
机の向こうにいたのは、三十代ほどに見える女性だった。
少なくともダリアの見知った顔ではない。
「おはようございます。どのようなご用件でいらしましたか?」
「冒険者の新規登録をしに来たんだが」
「なるほど、新規登録ですね。では、右手に見えるカウンターのほうにいらしてください」
受付嬢は交代を呼ぶ。交代に現れた四十手前ほどの男性は、何事もなかったかのようにダリアの後ろに並ぶ冒険者たちの案内を始める。
「冒険者登録を行うのは初めてですか?ほかの国や地域で登録などをされていたりしますか?」
「・・・まあ、そういうことになる」
ダリアは少しだけ躊躇してから答えた
「?」
受付の女性は少しだけ顔を上げる。
「あんまり気にしないでやってください。こういう話し方が癖なんです」
アリアが割り込んでフォローに入る。
ダリアは下手に口を滑らすまいと黙っていることにした。
「じゃあ、名前と証明できる実績があれば教えてください」
「名前はダリア。証明できる実績は.....今のところ無いな」
女性の手が一瞬止まり、改めてダリアの顔を見つめる。
「ダリア?」
「ああ、そうだ」
今、この町でその名前を聞けば当然引っかかるはずだ。
「失礼しました。苗字などは持っておられますか?」
「いや、持っていない」
少なくともこの国で苗字を持っていないことは珍しい事ではない。受付嬢も特に不審がる様子はなかった。
「念のため伺いたいのですが、あなたの他にダリアという名前の冒険者の話を聞いた覚えはありますか?」
一瞬知らないと答えるべきかと迷ったが、下手にうそをつくのもまずいと思い返す。
嘘にならないように返事を考えてから答えた。
「まあ、嫌でも耳に入ってくる名前だな」
アリアが横から肘で小突いてくる。
「ちょっと、あんま変な態度とらないでよ。」
「仕方ないだろ、覚悟してても少しはドキッとするもんなんだよ」
受付嬢は少しだけ待ってから話を続ける。
「登録には特に問題はありません。こちらの紙に必要事項を記入していただけますか?文字が書けないようであれば口頭でも構いません」
そういって新しい紙を差し出される。
年齢
これは問題ない
出身地
これも嘘をつく理由はない
現在の住所
一瞬迷った後、アリアの家の住所を記入する
アリアは横で何か言いたそうな顔をしていたが敢えて無視することにした。
基本的な事項の記入を終えて紙を渡す。この先は職員が記入する欄のようだった。
「実務経験について伺いたいのですが、戦闘経験はありますか?」
「ある」
「簡単にで構いません。どの程度ですか?」
「あー.....」
これは困った。
ダリアは新人冒険者として登録しに来たのだ。十年以上冒険者として活動していた。などといえるわけもない。
かといって、経験を過少に申告しすぎればこの後の実技試験で不審に思われる可能性もある。
「うーん、そこそこ位?ってところなのか?」
「それ、一番困る答えよね」
「そうだよなぁ」
受付嬢は少し困った顔をする。
「では、武器を扱うこと自体はできるということでいいですか?」
「そうだな。それなら問題ないと思う」
「では、魔法は使えますか?」
ダリアはまた一瞬考えた末
「よくあるやつなら、火とか、水とか」
答えになっていない。
だが、どう答えたらいいのかわからないのもまた事実だった。自分でもどこまで魔法が使えるかよくわからないのだ。
なんとも間抜けな状態だが、これが今把握できている現状だった。
「書類の登録後、正式な登録の前に簡単な実技試験があります。強さの確認というよりは何をどこまでできるのか?を把握するための物です。」
どうやら詳しく聞き出すことはあきらめたようで、話が先に進んでいく。
そこで正式な登録についての簡単な説明を受ける。
初回登録は実力に関係なく全員G級から始まること。
受けられる依頼は監督付きの仕事か、上位冒険者の補助が中心であること。
正式にダンジョンへ入ることが許されるのはE級からであること。
そして、昇級には規定の講習を受ける必要があること。
「何か不明点はありますか?」
ダリアは概ね自分の知識と一致していることに安堵していた。どうやら大きく制度が変わったということは無いようだ。
少しだけ昔のことを思い出した。
まだ駆け出しだった頃のことだ。
あまりにも硬い椅子。
まるで呪文のように眠くなる講義。
隣ですでに意識を失っている同期。
実技試験では武器を握るだけで手の皮が剥ける。
泥まみれになりながら全部同じに見える植物を探し、雑草をむしってきてしまった。
簡単な罠で捕まえられる角ウサギにへっぴり腰で向き合い、解体ではその匂いに鼻をつまんだ。
すべて、一度通ってきた道だ。
「まさか、もう一回やることになるとはな.....」
「もう一回?」
「いや、なんでもない。気にしないでくれ」
受付嬢は怪訝そうな顔をする。
アリアはその様子を少しだけ優しく見守っていた。
◇
受付での手続きを終えると、ダリアたちはギルドの裏手へと案内された。
表の喧噪と違い、そこには土を固めただけの広い訓練場がある。
壁際には木剣や槍、盾といった訓練用の装備。
少し離れた場所には、魔法の試射に使うためだろう人の背丈ほどの的がいくつも並んでいる。
何人かの冒険者が訓練をしていたが、朝の時間ということもあってそれほど混んではいなかった。
「新規登録の実技確認です」
案内してきた受付嬢が、訓練場にいた男へ紙を渡す。
年齢は四十を少し過ぎたくらいだろう。
短く刈った髪に、使い込まれた革鎧。
腰には真剣ではなく木剣が下げられている。
男は渡された書類を一通り確認した後、ダリアへ目を向ける。
「ダリアだな」
「ああ」
「扱える武器は剣でいいか?」
「そうだ」
「じゃあ、あそこから適当に一本選べ」
言われた通り、壁際に立てかけられている木剣へ向かう。
何本か手に取り、重さを確かめる。
当然ではあるが、普段使っていた剣とは違う。
少し軽い。
重心も前に寄りすぎている。
訓練用としては別に問題ないだろう。
「これでいい」
「なら構えろ」
ダリアは男から少し距離を取り、木剣を構える。
その瞬間。
男の表情がわずかに変わった。
「……誰かに習ったことは?」
「まあ、ある」
「どのくらい?」
「またそれ聞くのか?」
ダリアは困ったように頭をかいた。
どうやら『そこそこ』では逃げられそうにない。
「長いこと触ってはいるよ」
「曖昧だな」
「奇遇だな、俺もそう思う」
男はそれ以上聞かず、自分も木剣を構えた。
「打ってこい」
「いいのか?」
「そのための試験だ」
「そうだよな、じゃあ遠慮なく」
一歩。
力強く踏み込み、上段から、しかし大振りになりすぎない程度で振り下ろす。
試験官は受ける。
木と木のぶつかる乾いた音が響く。
無理に押し込もうとせず、すぐに引く。
次は横。
これも受けられる。
返ってきた剣を受ける。
二歩下がって距離をとる。
試験官が踏み込んでくる。
剣の衝撃を真正面から受けないよう、軌道をずらすように受け流す。
一瞬隙があるように見えたが、それを突くには自分も無防備な態勢にならなくてはいけない。
焦らずに距離をとり、構えなおす。
数合。
本当にそれだけだった。
「止め」
男が剣を下ろす。
ダリアも構えを解いた。
「もういいのか?」
「ああ」
男は書類へ何かを書き込んでいく。
「ずいぶん慎重だな」
「そうか?」
「隙があっても無理に取りに来ない。正面から受けない、というより正面から打ち込まれないように立ち回る。攻めた後は必ず距離を取る」
「怪我したくないからな」
「訓練だぞ」
「訓練で怪我したらもっと馬鹿らしいだろ」
男は一瞬黙った後、鼻で笑った。
「それもそうだ」
また何かを書き込む。
「剣は問題なし。少なくとも握り方から教える必要はない」
「そりゃよかった」
「ただ」
男はダリアを見る。
「新人の動きじゃない」
鋭い眼光だった。言い逃れをさせてくれそうにない迫力があった。
「……まあ」
「傭兵か?」
「違う」
「兵士」
「それも違うな」
「護衛でもやってたか?」
「あー……」
また答えに困る。
正直に冒険者だったと言ってしまってもいいのかもしれない。
だが、そうすれば当然どこのギルドで登録していたのか、何級だったのかという話になる。
そしてこの町には、現在行方不明になっている同名のC級冒険者がいる。
「いろいろあったんだよ」
結局そう答えた。
男が呆れたような顔をする。
「便利な言葉だな」
「俺も今そう思った」
訓練場の端で見ていたアリアが小さくため息をついた。
「次。魔法は使えるんだったな」
「ああ」
「得意なのは?」
「得意ってほどのものは……」
ダリアはそこで一度言葉を止める。
以前なら答えられた。
多少得意不得意はあっても、自分が使える術式くらいは分かっている。
今は違う。
使おうと思えば、何が起こるのか。
それを自分でも完全には理解していない。
「火と水なら使える」
先ほどと同じように答える。
男は少し離れた的を指差した。
「じゃあ火から。あの的に当てろ。威力は抑えていい」
「分かった」
ダリアは的へ身体を向ける。
少しだけ緊張する。
キマイラと戦った時のことを思い出さないようにする。
巨大な氷。
砕けた牙。
喉を貫いた槍。
あれを再現する必要はない。
昔から使っていた、ごく普通の術式。
それだけを思い浮かべる。
短い詠唱。
手の先に小さな火球が生まれた。
放つ。
火球はまっすぐ飛び、的の中央付近へ当たって消える。
「次、水」
今度は地面に置かれた空の桶を示された。
ダリアは同じように術式を組み、水を生み出す。
勢いも量も、ごく普通。
桶の底へ水が溜まっていく。
「そこまで」
男が止める。
ダリアは少しだけ肩の力を抜いた。
特に何も起きない。
頭痛もない。
余計な魔法が発動することもなかった。
横を見る。
アリアと目が合う。
何も言わない。
だが、先ほどまでより少しだけ安心した顔をしているように見えた。
「複数属性か」
男が書類へ記入しながら言う。
「初歩的なものだ。珍しいことじゃないだろう。」
「まあな。ただ、新規登録者にしては器用だ」
「そうか」
「威力は普通だな」
「まあ、そうだな」
それでいい。
むしろ、そう言ってもらうためにやったようなものだった。
「最後にいくつか聞く」
男は木剣を壁へ戻しながら質問を続ける。
「野営経験」
「ある」
「地図は読めるか」
「問題ない」
「怪我人の応急処置」
「最低限なら」
「毒」
「ものによるな」
男の手が止まった。
「どういう意味だ?」
「何でも同じ処置したらまずいだろ。吐かせた方がいい毒もあれば、動かさない方がいいやつもある」
「……そうだな」
また紙に書かれる。
「魔物の解体」
「できる」
「採取」
「ものによる」
「またそれか」
「知らない草まで分かるって言ったら嘘になるだろ」
男は何も言わず、書類へ目を落とす。
少し考えているようだった。
「ダンジョンに入った経験は?」
とうとう来た。
ダリアはほんの少し迷った後。
「ある」
と答える。
男が顔を上げる。
「あるのか?」
「ああ」
「どの等級だ?」
「……それは」
答えようとしてやめる。
D級。
C級。
そして、今まさに大騒ぎになっている新領域。
下手なことを言えば後戻りができない。
「覚えてないってのは無理があるか」
「無理だな」
「だよなぁ」
ダリアは頭をかく。
「悪い。今は詳しく言いたくない」
「そうか」
意外にも、男は深く追及しなかった。
「実技確認は身元を調べるためのものじゃない。嘘をつかれるよりはましだ」
「助かる」
男は最後に何かを書き込み、紙を閉じた。
「少なくとも、武器の扱いに心配はない。初心者向けの基礎訓練は飛ばしてもよさそうだ」
「じゃあ、講習も――」
期待した目をしていることがはたから見てもわかるほど露骨だった。
「それは受けろ」
即答された。
「やっぱり駄目か」
「実技ができることと、ギルドの規則を知ってることは別だ」
「まあ、そうなるよな」
「それに制度は変わる。昔どこかで活動していたとしても、今の規則を知ってるとは限らん」
その言葉に、ダリアは少しだけ納得する。
実際、受付で聞いた内容にも記憶と細かく違うところがあった。
「G級の実地訓練についても十分な知識と経験があると判断されれば一部省略できる。正式な判断は上がする」
「一応聞くけど、それでいきなり等級が上がったりは?」
「しない」
「だよな」
「初回登録は全員G級だ」
男は書類をダリアへ渡す。
「経験があるなら、その分早く実績を作ればいい」
「簡単に言ってくれるな」
「簡単だろ。できるならな」
ダリアは少しだけ笑った。
「まあ、やってみるよ」
書類を受け取り、訓練場を離れる。
その途中。
アリアが横へ並んだ。
「普通だったわね」
「何が?」
「魔法」
「ああ」
ダリアは自分の手を見る。
「俺もちょっと安心した」
「ちょっと?」
「かなり」
「でしょうね」
アリアは小さく笑った。
「それにしても」
「何だ?」
「新人として登録しに来て、『ダンジョン経験はあるけど詳しくは言えません』って」
「仕方ないだろ」
「怪しすぎるわよ」
「俺もそう思うよ」
ダリアはため息をつく。
まだ正式な冒険者証すら受け取っていない。
それなのに。
どうやら普通の新人を装うのは、思っていたより難しいらしい。
◇
ダリアが試験官と格闘していた時から少し時間が流れる。
B級冒険者ローデンは小鬼の住処の新領域内部にいた。
壁へ打ち込まれた調査杭を確認し、ミレアが地図へ線を書き足す。
「間違いない」
彼女が言った。
「昨日と同じ順番で来られた」
一つ目の大部屋。
右。
二つ目。
正面。
三つ目。
左。
そして、キマイラの死骸が横たわる大部屋。
少なくとも、この経路は今日も再現できた。
死骸の周囲には、昨日置かれた目印がそのまま残っている。
「戻りは?」
ローデンが聞く。
「今のところ、同じ経路で帰れるはず」
「はず、ね」
「ここで断言なんてできないわよ」
「それもそうだ」
ローデンは運びきれずに残された死骸を見て、初めに発見した時の状態を思い出す。
双頭の狼。
片方の頭は口からのどへ大きく損傷している。
もう片方は眼窩を深く破壊され、稲妻のように電流の走った跡が残っていた。
名も知れぬ男がこれを一人でやったといった。
正確には。
一人だ、と。
「隊長」
ミレアが声をかける。
「ちょっと、こっちを見て」
死骸の少し手前。
ミレアは床へしゃがみ込み、薄く積もった埃を指で示していた。
そこにはいくつもの靴跡が残っている。
新しいものではない。
踏み荒らされて形が崩れているものも多いが、キマイラの死骸を囲むように、あちこちへ同じ大きさの跡が続いていた。
「人間の足跡か?」
「ええ。少なくとも、私が見つけたのは全部同じもの」
ローデンもしゃがみ込む。
前へ踏み込んだ跡。
大きく後ろへ下がった跡。
横へ回り込んだ跡。
一つ一つは不鮮明だが、並べて見れば戦闘中に付いたものだということくらいは分かる。
「ほかの足跡は?」
「ないわね」
ミレアは周囲へ視線を走らせる。
「調査隊が入る前からあった人間の足跡は、今のところこれだけ」
ローデンはキマイラの死骸を見る。
口から喉へ続く大きな損傷。
片方の潰された眼窩。
周辺へ残った電撃の痕跡。
そして、その周囲を何度も動き回った一人分の足跡。
「複数で囲んで戦ったようには見えないな」
「私もそう思う」
ミレアが答える。
「誰かが後ろから援護してた可能性までは否定できないけど、少なくともこの部屋でキマイラと直接やり合ってた人間は一人」
一人。
ローデンの頭に、昨日の二十七番の声がよみがえる。
――一人だ。
あの時は、なぜそう言い切れるのかが分からなかった。
だが、現場に残った痕跡は、その言葉と矛盾していない。
「それと」
ミレアが立ち上がり、数歩移動する。
死骸から少し離れた床。
そこには、人ひとりが横たわっていたような跡が残っていた。
埃が大きく乱れ、その中央には黒ずんだ染みがある。
ローデンも近づく。
「血か?」
「たぶん。ただ、時間が経ちすぎてる。今は断定できない」
ミレアは染みの脇へしゃがむ。
「形を見る限り、ここで誰かが倒れた可能性は高いと思う」
「戦っていた奴か」
「足跡はここまで続いてる」
ミレアが指で追う。
キマイラの側から。
数歩。
そして、この場所で終わっている。
ローデンはその先へ視線を移した。
「そこからは?」
「ないのよ」
「別の出口へ向かった跡も?」
「見つからない」
「引きずられた跡は」
「それもなし」
「誰かに担がれたなら」
「担いだ側の足跡が残るはず」
ローデンは黙った。
部屋には三つの出口がある。
右。
左。
正面。
だが、そのどこへ向かっても、この場所から続く人間の足跡はない。
ミレアがもう一度、床の染みを見る。
「ここでキマイラと戦った人間が一人いる」
指先が、戦闘痕を追う。
「そいつはたぶん、この辺りで倒れた」
次に、三つの出口を見る。
「でも、そこからこの部屋を出た痕跡がない」
ローデンはしばらく何も言わなかった。
戦った者が死んだのなら、遺体がない。
自力で起き上がったのなら、足跡がない。
誰かが運んだのなら、その誰かの痕跡がない。
「……消えた、とでも言いたいのか?」
「そこまでは言ってないわよ」
ミレアは肩をすくめる。
「私が言えるのは、残ってる跡だけ」
ローデンはもう一度、部屋を見渡す。
キマイラ。
一人分の戦闘痕。
倒れた形跡。
そして、存在しない帰還の痕跡。
「今日はここまでだ」
「奥は見ないの?」
「今日の目的は、この部屋までの経路が再現できることと、安全に戻れることの確認だ」
ローデンは三つの通路へ目を向ける。
「予定外のものを見つけたからといって、予定外の場所まで進む理由にはならん」
「了解」
ミレアはすぐに立ち上がった。
ローデンはその場に残り、もう一度だけ床の痕跡を見る。
――一人だ。
二十七番は、迷わずそう言った。
「戻ったら、昨日の二十七番の記録を出せ」
ミレアが振り返る。
「やっぱり気になる?」
「使える情報かどうか、もう一度確認したい」
昨日までよりは、あの男の言葉を無視できなくなっていた。
「本人は?」
ローデンは少し考えた。
「今日は、臨時作業員には来ていないそうだ」
「そう」
ミレアは興味なさげに反応する。
「だが」
ローデンは通路の奥から目を離した。
「出発前に拠点へ連絡が来ていた。二十七番とよく似た男が、今朝ギルドで新規登録したらしい」
ミレアが一瞬目を見開く。
「名前は?」
「さあな」
新領域の奥から、風が流れてきた。
ローデンはその暗闇を見つめる。
「本人に直接聞いてみればいい」




