二十七番
魔法の検査をしてから、二日後。
ダリアは、アリア宛てに届いた書類の中へ挟まれていた一枚の紙に目を奪われていた。
『小鬼の住処・新領域調査に伴う臨時作業員募集』
机の上へ紙を広げ、もう一度、初めから読み直す。
募集しているのは、調査用物資の運搬、地上拠点の整備、器具の清掃、食料や飲み水の補給を行う作業員。
契約は一日ごと。
報酬は、その日の作業終了時に支払われる。
身元を証明するものは必要ない。
ただし、所持品の検査、作業番号による管理、指定された範囲から出ないことなど、調査隊が定める制限に従う必要がある。
そこまでは、ダンジョン調査で時折見かける日雇い募集と大差ない。
問題は、その下に書かれている一文だった。
『本調査は、新領域内における未帰還者の捜索を兼ねる』
その下には、捜索対象者の名前が記されている。
未帰還者。
C級冒険者ダリア。
自分を捜す仕事に、自分が応募する。
どう考えても、まともな話ではない。
だが、紙の上に書かれた名前から目を離せなかった。
腹が減れば食事をし、疲れれば眠る。
幼馴染に命令されれば掃除もするし、昨日は一日中、魔法の実験台にもされた。
それでも、世間にとってのC級冒険者ダリアは、今も小鬼の住処から帰ってきていない。
「……臨時作業員、か」
「駄目よ」
背後から、間髪を入れずに声が飛んできた。
ダリアは紙から顔を上げないまま答える。
「まだ何も言ってないだろ」
「その紙、さっきから何回読んでると思ってるのよ」
アリアは寝室から出てくると、大きなあくびをした。
髪は乱れ、目元には寝不足の跡が残っている。
昨日の魔法検査を終えた後も、夜遅くまで記録を整理していたのだろう。
ダリアが眠るために二階へ上がった時にも、階下からペンを走らせる音が聞こえていた。
その反動なのか、今日は珍しくダリアよりも遅く起きたらしい。
「それ、私宛ての書類と一緒に届いてたものなんだけど」
「封は開いてたぞ」
「募集要項なんだから、開いてるに決まってるでしょう。だからって、勝手に応募しようとしないで」
「だから、まだ応募するとは言ってないって」
「じゃあ置きなさい」
ダリアは紙を持ったまま、アリアを見る。
アリアも目をそらさない。
しばらく無言のにらみ合いが続いた。
先に折れたのは、アリアだった。
「……何が知りたいの?」
「急に人を集めてる理由だな」
「紙に書いてあるでしょう。物資の運搬と拠点の整備」
「それなら、なんで今なんだ?」
アリアは近くの椅子を引き寄せ、乱暴に腰を下ろした。
「調査が長引いてるからよ」
「長引いてる?」
「元々は、新領域を確認して危険度を再判定するだけの予定だったの。でも、実際の新領域は、いくつもの大部屋が複雑につながってた」
アリアは机の上の紙を指先で叩く。
「正しい順番で道を選ばないと、最初の大部屋へ戻される。奥へ進む経路も、まだ完全には特定できてない」
ダリアは黙って話を聞く。
それは、ダリアが二度目に新領域へ入った時の構造と同じだった。
光る川も、崖もなかった。
大部屋がいくつもつながり、正しい道を選ばなければ最初へ戻される。
その途中で、ダリアはキマイラと遭遇した。
「俺の仲間は?」
「救助されてるわ」
「信号石のところにいた四人か」
「ええ。救助隊が見つけて、全員外へ出した。信号石も回収されてるはずよ」
「じゃあ、俺が一人で進んだ先を探してるのか」
「そういうこと」
アリアは椅子へ深く腰を沈める。
「あんたの仲間たちが話せるのは、あんたと別れたところまで。その後、あんたがどの道へ進んだのかは誰も見てない」
「今の新領域を探しても、見つからない?」
「少なくとも、あんたから聞いた光る川や崖へ続く道は見つかってないわ」
「鉱石も?」
「それもよ」
アリアは小さく息を吐いた。
「だから、新領域の調査と一緒に、あんたの捜索も私たちへ引き継がれたの」
「それで、人手が足りないと」
「冒険者は護衛と捜索。学者は新領域の構造や出土物の調査。それ以外にも、記録、連絡、物資の管理、拠点の維持。必要な仕事が増えすぎたのよ」
「戦える奴に、水汲みや荷運びをさせてる余裕がなくなったわけか」
「そういうこと」
調査隊に所属する者たちの多くは、それぞれ専門の仕事を持っている。
魔獣が出れば前へ出る冒険者。
新領域の構造を調べる研究者。
採取した物質を分析する技師。
周辺の地形を記録する測量士。
彼らを水汲みや荷車引きに回せば、その分だけ調査も捜索も遅れる。
だから、専門知識の必要がない作業を任せるため、現地で臨時の人手を集めることになったのだろう。
「身元がなくても雇うんだな」
「そこが気になったの?」
「ああ」
「別に珍しくないわ。日雇い仕事へ来るのなんて、近所の農家の次男坊ばかりじゃないもの。流れ者や季節労働者、故郷を失った人、身分証を持ってない人だっている」
「怪しい奴も紛れ込むだろ」
「だから信用しないのよ」
アリアは平然と答えた。
「信用しなくても任せられる仕事しかさせない。作業員は番号で管理。所持品は毎朝検査。持ち込める刃物は作業用の小刀まで。必ず複数人で動かして、指定された場所から出さない」
「調査資料には近づけない?」
「もちろん。試料の保管場所も立入禁止。契約は一日ごとで、問題を起こせばその場で終わり」
「なるほどな」
身元不明者を、調査隊の仲間として迎え入れるわけではない。
監視できる範囲で、一日分の労働力を買う。
初めから信頼を必要としない仕組みにしているのだ。
募集要項を読む限り、臨時作業員が新領域の奥まで入ることもない。
地上拠点と、せいぜい入口付近まで。
未帰還者の捜索へ直接参加するわけでもなかった。
「なら、俺でも行けるだろ」
「行けないわ」
「なんでだよ」
「調査対象だから」
「募集要項に、調査対象は応募不可なんて書いてないぞ」
「あんたみたいなのが応募してくるなんて、誰も想定してないからよ!」
アリアが机を叩いた。
「あんた、知らない魔法を使った後に頭痛が出たばかりでしょう。毒の後遺症だって、完全には否定できてない。そもそも、今のあんたがどういう状態なのかすら分かってないのよ」
「今日は何ともないぞ」
「今日ないから、明日もないとは限らない」
「じゃあ、家に座ってたら何か分かるのか?」
アリアの口が止まった。
「俺に何が起きたのか、その原因はあの新領域にあるんだろ」
「可能性が高いってだけ」
「なら、なおさら見に行きたい」
「調査結果なら私が持ってくるわ」
「それだけじゃ、ちょっとな」
ダリアは募集要項を机へ戻した。
「俺が歩いた場所だ。調査隊がどこまで進んでるのか、自分でも見ておきたい」
「臨時作業員に調査内容なんて教えないわよ」
「分かってるよ。それでも、家にいるよりはましだろ」
どれほどの人数が動いているのか。
捜索がどこまで進んでいるのか。
最初に自分が歩いた場所は見つかったのか。
光る川の痕跡はあるのか。
自分以外にも、同じ異常が起きているのか。
何も知らず、アリアが持ち帰る言葉だけを待ち続けることは、ダリアにはできそうになかった。
「それに、いつまでもお前に食わせてもらうわけにもいかない」
「食費くらい気にしなくていいわよ」
「俺が気になるんだよ」
「研究に協力してるんだから、報酬だと思えばいいでしょう」
「一日中座って、飯作って、掃除するために冒険者になったわけじゃないからな」
「最後の二つは、これからもやってもらうわよ」
「そこは譲らないのか」
「家事をする人が必要だもの」
「俺を何だと思ってるんだよ……」
アリアはそう言ってから、深く息を吐いた。
完全に止めるのは難しいと悟ったらしい。
「仮に応募するとして、名前はどうするつもり?」
ダリアはすぐには答えなかった。
予想していた質問だった。
「今、調査隊は未帰還者のダリアを捜してる。その募集に、同じ名前を名乗る身元不明の男が来るのよ」
「そうなるな」
「少し前には、ダリアを名乗る人型の異常存在まで確認されてる」
「それも俺だ」
「分かってるわよ。でも、ほかの人は知らないでしょう」
今のダリアは、顔と声を取り戻している。
しかし、それは以前のダリアの顔でも声でもない。
宿の人間やギルド職員が見ても、行方不明のC級冒険者と同一人物だとは判断しないだろう。
それでも時期が悪すぎる。
ダリアが消息を絶った直後に、ダリアを名乗る得体の知れない存在が現れた。
さらに顔の異なる身元不明者が、同じ名前で調査隊へ近づいてくる。
事情を知らなければ、怪しまない方がおかしい。
「別の名前を使いなさい」
アリアが言った。
「嫌だ」
ダリアは即答した。
「子どもの頃のあだ名でも、母親の旧姓でも何でもいいのよ。今だけなら――」
「嫌だって」
「……そこまで?」
「ああ」
顔が変わった。
声も変わった。
今の身体が、以前のものと同じなのかさえ分からない。
ギルドに残されたC級冒険者ダリアの記録も、今の自分とは結びつかない。
以前の仲間に出会ったとしても、何の説明もなく信じてもらえるとは思えなかった。
「名前まで変えるのは、ちょっとな」
それだけ言って、ダリアは机の上に置いた自分の手を見る。
以前の手がどんな形をしていたのか、細部までは思い出せない。
指の長さ。
手のひらの線。
爪の形。
長年剣を握ってできたはずの硬い部分。
今の手に、それらがどれほど残っているのかも分からない。
自分が以前のダリアと同じ存在なのか。
それとも、ダリアの記憶を持っているだけの何かなのか。
その答えを、ダリア自身も持っていない。
「……俺は、ダリアでいい」
短い言葉だった。
だが、アリアはそれ以上、別の名前を勧めなかった。
しばらく黙った後、募集要項を引き寄せる。
「臨時作業員は、作業番号で管理されるわ」
紙面の一部を指差した。
「受付で呼び名を聞かれることはあるけど、本名を登録する必要はない。名乗りたくなければ、番号で通せる」
「別の名前を使わなくてもいいのか?」
「ええ。聞かれたら、番号で呼べと言いなさい」
「それならいい」
「ただし」
アリアの指が、ダリアの目の前へ突きつけられる。
「作業区域から勝手に離れない。魔法は使わない。身体に少しでも異常があったら、その場で作業をやめる。新領域には入らない。私が止めろと言ったら、理由を聞く前に止まる」
「最後のは、お前が近くにいないと無理だろ」
「屁理屈を言わない」
「分かったよ」
「本当に?」
「多分」
「今すぐ、その紙を燃やそうかしら」
「冗談だって」
「それから、私はあんたの保証人にはならない」
「別に必要ないんだろ?」
「必要ない。一般の身元不明者として、普通に応募しなさい。私の名前を出したら余計に目立つから」
「お前は一緒に来ないのか?」
「私は調査班の研究員として先に行く。現場では別行動。私たちは、昨日会ったばかりの他人よ」
「それは無理がないか?」
「何が?」
「お前、絶対こっちを見るだろ」
「見ないわよ」
「今、目をそらしたな」
「見ないったら見ない!」
◇
翌朝。
調査隊の臨時作業員受付は、町のギルドではなく、小鬼の住処へ向かう荷馬車の発着場に設けられていた。
受付用の天幕がいくつも並び、その周囲には調査拠点へ向かう荷車が待機している。
既に三十人ほどが列を作っていた。
仕事を求めてきた町の若者。
農作業の合間に日銭を稼ぎに来たらしい男。
大きな荷物を背負った旅人。
服装も出身もばらばらである。
明らかに身元を持たない流れ者らしい者もいたが、受付側が追い返す様子はなかった。
代わりに、全員が荷物を開けさせられている。
武器になりそうな物は受付へ預け、現在の体調を確認され、契約条件を読み上げられる。
過去を問い詰める代わりに、今ここで何を持ち、何をするつもりなのかを調べている。
アリアの言った通りだった。
ダリアは列の最後尾へ並ぶ。
借り物ではない新しい服を着て町を歩くのは、今日が初めてだった。
昨日、アリアに連れられて買った安物の上着と、丈夫なズボン。
冒険者らしい防具はない。
自宅に残した装備は、今の姿では取り戻すことができなかった。
キマイラとの戦いを生き延びた剣も、今日はアリアの家へ置いてきている。
臨時作業員に武器の持ち込みは認められていないからだ。
腰の重さが足りない。
剣がないだけで、身体の片側が空洞になったように感じる。
「次」
受付から声がかかった。
ダリアは天幕の中へ入る。
机の向こうに座っていたのは、疲れた顔をした中年の男だった。
横には、作業番号の刻まれた木札が並べられている。
「身元証は?」
「ない」
「今日預ける荷物は?」
「何も持ってない」
「刃物も?」
「ああ」
受付の男は少しだけ顔を上げ、ダリアの腰を見る。
武器を持っていないことを確認すると、再び書類へ目を落とした。
「今、発熱、吐き気、眩暈は?」
「ない」
「最近、毒を受けたことは?」
「数日前にな。今は症状はない」
「治療は?」
「診てもらってる。働いて問題ないとは言われた」
厳密には、アリアは働いて問題ないとは言っていない。
むしろ、つい昨日まで止めていた。
ただ、現在の症状に問題がないことは何度も確認されている。
受付の男は少し迷った後、書類の端へ印をつけた。
「重い荷物は運べるか?」
「問題ない」
「ダンジョン周辺で働いた経験は?」
「ある」
「冒険者か?」
ダリアは一拍置いた。
「あー……今は違う」
受付の男は深く追及しなかった。
身元を証明できない者の中には、ギルドを追われた者や、他国の傭兵だった者もいるのだろう。
過去を問い詰めるより、今日の働きを見るのが臨時雇いの方針らしい。
「呼び名は?」
「番号でいい」
「仮名でも構わんぞ」
「別の名前は使わない」
受付の男が、初めてダリアの顔をまっすぐ見た。
怪しまれたかと思ったが、すぐに興味を失ったように肩をすくめる。
「なら、二十七番だ」
机の上から木札を取り、ダリアへ差し出す。
木札には、大きく二七と刻まれていた。
「今日は運搬三班。青い腕章を受け取って、北側の荷車へ行け。勝手に持ち場を離れるな。発見物には触るな。拾った物は、石ころ一つでも監督へ渡せ」
「分かった」
「契約内容に異議は?」
「ない」
「木札をなくすな。夕方、それと引き換えに日当を渡す」
「ああ」
名前は記録されない。
C級という等級もない。
これまで受けた依頼も、倒した魔獣も、誰かを助けた記録もない。
臨時作業員、二十七番。
それが今日のダリアだった。
◇
運搬三班へ割り当てられたのは、ダリアを含めて八人だった。
仕事は、調査拠点へ向かう荷車二台へ付き添い、荷物の運搬を手伝うこと。
水の入った樽。
保存食。
予備の天幕。
縄。
杭。
測定用の器具が入った木箱。
物資の中には壊れやすい物もあるらしく、いくつかの箱には赤い布が巻かれていた。
「赤布の箱は横倒しにするな。落とした時は、勝手に触らず俺を呼べ」
班を取り仕切る男が言った。
年齢は四十を越えているだろう。
片足を少し引きずっているが、腕や肩には相当な筋肉がついている。
名前はハーグ。
作業員の配置と、物資の運搬を任されている現場監督だった。
「荷車一台に四人。前に二人、後ろに二人。休憩は指示を出してからだ。勝手に隊列を離れるな」
作業員たちが二台へ分かれていく。
ダリアは後方の荷車へ回った。
荷台には水樽が二つと、食料箱が積まれている。
荷物を見た瞬間、わずかな違和感を覚えた。
左側へ重量が偏っている。
水樽の位置も悪い。
道中で車輪が石を踏めば、固定している縄の片側へ負担が集中する。
「積み直した方がいい」
隣にいた若い男が、怪訝そうに振り向いた。
「何を?」
「左が重い。樽を一つ右へ移して、箱を真ん中に寄せる」
「倉庫の奴が積んだんだろ。勝手に動かしたら怒られるぞ」
「だから、監督に聞く」
ダリアはハーグへ声をかけた。
「荷台、見てもらえるか」
「何だ」
「左に寄りすぎてる。この道を下るなら、積み直した方がいい」
ハーグは面倒そうな顔をしたが、すぐに荷車へ近づいた。
固定縄を手で引き、左右を確認する。
続いて、樽と箱の位置を見る。
「……誰だ、これを積んだのは」
小さく悪態をつく。
「積み直す。全員手伝え」
若い男が、驚いたようにダリアを見る。
ダリアは何も言わず、水樽へ手をかけた。
八人で荷物を降ろし、位置を調整する。
それほど長い作業ではなかった。
それでも出発予定は少し遅れた。
ほかの作業員から不満の声が上がったが、ハーグは取り合わない。
「二十七」
「何だ?」
「荷運びに慣れてるのか」
「冒険者だった頃に、まあ何度か」
過去形で答えることには、まだ慣れなかった。
ハーグはそれ以上、何も聞かなかった。
「気づいたことがあったら、勝手に触らず俺へ言え」
「ああ。分かった」
荷車が動き出す。
作業員たちは、前後に分かれて荷車を押した。
疲れれば荷台の端へ腰を下ろすこともできるが、坂道では全員が降り、車体を支えなければならない。
小鬼の住処へ向かう街道は、以前にも何度も通った道だった。
ただし、その時のダリアは剣を持ち、防具を身につけ、仲間と並んで歩いていた。
今日は荷車の後ろで取っ手を握り、二十七と刻まれた札を首から下げている。
街道の左右に生える草。
遠くに見える岩山。
風に混じる土の匂い。
どれも以前と変わらない。
変わったのは、自分の方だった。
道が緩やかな下りへ入る。
荷車が徐々に重くなる。
前方の二人が速度を抑え、後方のダリアたちは車体を支える。
先ほど積み直した水樽は左右へ均等に置かれ、荷車は大きく傾くことなく進んでいた。
それでも、車輪が石を踏むたびに乾いた音が混じる。
ダリアは音を聞きながら歩く。
右の車輪。
左の車輪。
荷台。
軸。
一定の間隔で、擦れるような音がする。
荷物を縛った縄ではない。
車輪の留め具だ。
「止めろ!」
ダリアが声を上げた。
ハーグが手を挙げ、二台の荷車を止める。
「今度は何だ」
「左の車輪を見る」
「またかよ」
隣の若い男が不満そうに言う。
ダリアは返事をせず、荷車の横へしゃがみ込んだ。
車輪を軸へ留めている木栓。
表面に亀裂が入り、少しずつ外へずれている。
「抜けかけてる」
ハーグの顔が険しくなる。
「予備の栓を持ってこい」
交換用の木栓が取り出される。
古い栓を抜いた瞬間、中心近くまで割れていることが分かった。
あのまま坂道を進んでいれば、遠からず車輪が外れていただろう。
水樽を積んだ荷車が下り坂で横倒しになれば、作業員が巻き込まれる可能性もある。
「よく分かったな」
ハーグが言った。
「音が違ってた」
「俺には聞こえなかったぞ」
「後ろにいたからな。それに、こういうのは何度か見てる」
「どんな仕事してたんだよ」
若い男が笑う。
「荷車がよく壊れる仕事だよ」
ダリアも少しだけ笑った。
C級になるまで、派手な活躍ばかりしてきたわけではない。
むしろ、荷物を運び、装備を手入れし、道を確認し、小さな失敗を重ねた時間の方が長かった。
才能があると評価されたことはない。
剣の腕も魔法も、冒険者としては人並みか、それを少し上回る程度。
それでも死なずにC級まで上がれたのは、こうした小さな違和感を見逃さないようにしてきたからだ。
新しい身体が与えたものではない。
以前のダリアが、時間をかけて積み上げたものだった。
交換を終え、荷車は再び進み始める。
今度は若い男も、時折車輪の音を気にしながら歩いていた。
◇
小鬼の住処の入口周辺は、以前とはまるで違う場所になっていた。
かつては、冒険者が数組集まれば窮屈に感じる程度の空き地だった。
今は大小の天幕が並び、荷車が行き交い、調査員や冒険者が絶えず動き回っている。
入口近くには木製の柵。
少し離れた場所には治療用の天幕。
その隣には、採取物を保管するための倉庫。
さらに奥には、地図や調査記録を集めた指揮所らしき大型天幕があった。
臨時作業員が入れるのは、外周の作業区域まで。
ダリアたちの荷車も、入口から離れた物資置き場へ誘導された。
「水樽は青い天幕。食料は隣だ。赤布の箱は、担当者が来るまで降ろすな」
ハーグの指示で、作業員たちが動き始める。
ダリアが水樽を運んでいると、視界の端に見覚えのある姿が映った。
アリアである。
調査員らしい外套を身につけ、数人の研究者と話しながら、大型天幕へ向かっている。
こちらを見ないと言っていた。
実際、顔は正面へ向いたままだった。
ただし、目だけが不自然なほど横を向いている。
(見てるじゃないか)
ダリアが視線を返すと、アリアは慌てたように顔ごと反対側へ向けた。
あれで他人のふりをしているつもりらしい。
むしろ怪しい。
声をかけるわけにもいかず、ダリアは水樽を運び続けた。
昼を過ぎた頃。
ダンジョン入口の方で、帰還を知らせる鐘が鳴った。
続いて、治療用の天幕から数人が飛び出していく。
「負傷者だ! 通路を空けろ!」
声が飛ぶ。
柵の向こうから、捜索班が姿を現した。
先頭の二人は自分で歩いている。
後ろでは、冒険者たちが簡易担架を運んでいた。
担架の上には、脚を固定された男が横たわっている。
意識はある。
血も大量には出ていない。
それでも、担架を揺らさず治療用天幕へ運ばなければならない。
「道を空けろ!」
作業員や研究者が左右へ退く。
その進路上に、食料箱が積まれていた。
朝から置かれていた物ではない。
先ほど別の荷車から降ろされた箱が、一時的に通路の端へ寄せられたらしい。
人一人なら通れる。
だが、四人で担架を運ぶには狭い。
箱は荷台代わりの板へ載せられ、全体を縄でまとめられていた。
一つずつ降ろしている時間はない。
「そこの箱をどけろ!」
ハーグが声を上げる。
近くにいた作業員たちが箱へ手をかけるが、食料が詰まっているため簡単には動かない。
ダリアは持っていた水桶を地面へ置いた。
「一個ずつ降ろすな。板ごと寄せるぞ」
「こんな重い物、動くのか?」
「持ち上げなくていい。端だけ浮かせろ」
ダリアは板の片側へしゃがみ込む。
「二人でこっちを上げる。残りは縄を持って引け。腕だけで引くな。身体ごと後ろへ倒せ」
ハーグも状況を見るなり、すぐに指示を引き継いだ。
「二十七の言う通りにしろ! 担架が来る前に通路から出すぞ!」
二人が板の端を浮かせる。
残る者たちが縄を持ち、掛け声に合わせて身体を倒した。
板が地面をこすりながら、少しずつ動く。
「もう一回!」
再び引く。
箱が通路の外へ寄せられた。
「空いたぞ!」
担架を運ぶ冒険者たちが、その横を通り抜ける。
負傷者は大きく揺らされることなく、治療用の天幕へ運び込まれた。
騒ぎが落ち着くと、ハーグは食料箱を見ながら苦い顔をした。
「これを置いたのは誰だ」
倉庫係の一人が、気まずそうに手を挙げる。
「荷車を空けるために、少しだけ……」
「少しでも、担架の通り道には置くな。次から荷下ろし場所を決めておけ」
「すみません」
ハーグは箱を、通路から十分離れた場所へ移すよう指示した。
その後、ダリアのところへ来る。
「二十七」
「何だ?」
「お前、本当に臨時作業員か」
「今日からな」
「そういう意味じゃない」
ハーグは、ダリアの立ち方や手元を観察するように見た。
「荷物の積み方。車輪の音。今の動かし方。何度も現場を経験してないと出てこない」
「昔、似たようなことをしてた」
「冒険者だったと言ったな」
「ああ」
「等級は?」
ダリアは一瞬迷った。
C級だった。
そう答えるのは簡単だ。
だが、今のダリアには、それを証明する物がない。
「……今は関係ないだろ」
ハーグはしばらくダリアを見た後、鼻を鳴らした。
「まあいい。過去を調べる仕事じゃない」
それから、顎で運搬班の方を示す。
「明日も来るなら、受付で二十七番だと言え」
「また雇うのか?」
「今日の連中よりは使える」
「褒め方が雑だな」
「褒めてない。明日も同じ班へ回すだけだ」
「はいはい。分かったよ」
ハーグはそれだけ言って、別の作業員へ指示を出しに行った。
役職が与えられたわけではない。
ほかの作業員へ命令する権限ができたわけでもない。
日当が上がったわけでもなかった。
ただ、明日も同じ仕事へ呼ぶ。
それだけである。
C級冒険者として積み上げた実績も、信頼も、今の自分にはない。
今日の朝までは、本当に何もなかった。
それでも一日働き、明日も雇っていいと思う者が一人増えた。
かつて持っていたものと比べれば、何もないに等しい。
だが、ゼロではなくなった。
◇
夕方。
作業札を返却し、日当を受け取る。
受付の男は名簿の二十七番へ、小さな印を加えた。
「明日も働くのか?」
「ああ。そのつもりだ」
「なら、朝ここへ来い。同じ番号を渡す」
手のひらへ硬貨が落とされる。
冒険者として受け取っていた依頼報酬と比べれば、少ない金額だった。
それでも、今の姿になってから、初めて自分で稼いだ金である。
町へ戻る荷車が出るのは翌朝だった。
続けて働く者は、拠点にある作業員用の天幕で夜を明かす。
ダリアが夕食を受け取り、天幕へ向かおうとすると、少し離れた場所でアリアが待っていた。
調査員としての外套は脱いでいない。
まだ周囲には、研究員や冒険者が行き交っている。
アリアは人目の少ない拠点の端へ歩いていく。
ダリアも、少し間を空けて後を追った。
天幕の陰まで来ると、アリアが振り返る。
「見てなかったんじゃなかったのか?」
ダリアが先に言った。
「何の話?」
「ずっとこっち見てただろ」
「見てないわよ。作業員全体を確認してただけ」
「俺が荷車を止めた時、ものすごい勢いで立ち上がってたぞ」
「気のせいね」
「担架が戻った時も、こっちへ来ようとしてた」
アリアの顔が引きつる。
「……誰から聞いたの?」
「見えてた」
「作業中によそ見しないでよ!」
「ちゃんと働いてたよ」
「初日から、ずいぶん目立ったそうね」
「別に目立とうとしたわけじゃない」
「荷車を二回止めて、帰還班の前で作業員に指示を出したんでしょう」
「ハーグも指示してただろ」
「最初に言い出したのはあんたでしょう」
「放っておけなかったんだよ」
アリアは何か言い返そうとしたが、途中で諦めたように息を吐いた。
「頭痛は?」
「ない」
「吐き気」
「ない」
「視界の異常」
「ない」
「魔法は使った?」
「使ってない」
「身体に、変な感じは?」
「ただの疲れならある」
「本当に、それだけ?」
「ああ。荷物運んだ分は疲れた。それだけだ」
アリアはダリアの顔と腕をしばらく確認した後、ようやく少しだけ力を抜いた。
「明日も働くつもり?」
「また来いって言われた」
「初日で?」
「同じ班へ回すってさ」
「……見る目はあるのね、ハーグ」
「褒めてるのは俺じゃないのか?」
「ハーグよ」
「俺も少しくらい褒めてくれていいだろ」
「無事だったことだけは褒めてあげる」
「そりゃどうも」
二人は、少し離れた場所にある丸太へ腰を下ろした。
遠くには、小鬼の住処の入口が見える。
柵の向こうには明かりが置かれ、見張りの冒険者が立っていた。
その奥では、今も未帰還者ダリアの捜索が続いている。
「今日、怪我人が戻ってきただろ」
ダリアが言った。
「ええ。脚を痛めたけど、命に別状はないわ」
「どこまで行ったんだ?」
「三つ目の大部屋まで」
「そこから先は?」
「進む道を間違えて、最初の大部屋へ戻されたそうよ。その後、別の経路を試したところで負傷者が出たから撤退した」
「今の新領域は、俺が二度目に入った時と同じなんだな」
「報告を聞く限りではね」
いくつもの大部屋がつながっている。
進む道を誤れば、最初の部屋へ戻される。
それは、ダリアがキマイラと遭遇した時の新領域と、ほぼ同じ状態だった。
「じゃあ、最初に俺が歩いたところは?」
「まだ見つかってない」
「光る川も?」
「ないわ」
「崖は?」
「ない」
「川辺の鉱石も?」
「それもよ」
「そうか……」
ダリアは遠くの入口を見る。
初めて新領域へ入り、仲間たちと別れた後。
空間のつながり方が突然変わった。
振り返れば、それまで歩いていた道は消えていた。
光る川を見つけた。
川辺には、同じような光を放つ見たこともない鉱石があった。
形さえ認識できない存在に追い立てられ、崖から川へ落ちた。
顔も声も失った。
その後、再び新領域へ入った時には、既に様子が変わっていた。
光る川も、岩場も、崖もない。
あったのは、いくつもの大部屋がつながり、正しい道を選ばなければ最初へ戻される構造だった。
そこでキマイラと戦い、ナニカに出会った。
そして現在、調査隊が調べているのも、二度目と同じ新領域である。
最初に迷い込んだ場所だけが、どこにもない。
自分が経験したことは、確かに現実だった。
顔も声も失った。
今の身体と魔法が、その証拠である。
それでも、場所そのものは誰にも見つけられない。
まるで世界から、自分が通った道だけを切り取られたようだった。
「だから言ったでしょう」
アリアが静かに言う。
「あんたが家で待ってても、私たちだけで簡単に答えへ辿り着ける問題じゃない」
「じゃあ、働くのは認めるのか?」
「認めたわけじゃないわ」
「明日は止める?」
「止めても行くでしょう、あんた」
「まあな」
「昔から、そういうところだけは変わらないわね」
アリアは呆れたように言う。
「ただし、約束は守りなさい。今のあんたは、以前より強いかもしれない。でも、何ができるか分からないってことは、何が起きるかも分からないってことよ」
「ああ」
「経験があるからって、一人で何でも決めない」
「分かってるよ」
「本当に?」
「多分」
「明日の受付に、辞めるって伝えてこようかしら」
「冗談だって」
「今の返事のどこが冗談なのよ」
アリアの声が、夕暮れの調査拠点に響く。
その日。
C級冒険者ダリアは、依然として未帰還者のまま、捜索続行と記録された。
一方で、臨時作業員二十七番は、調査拠点での一日目の勤務を終えた。
名前も、等級も、過去の実績も記録されてはいない。
ただ一つ。
翌日も雇う価値がある。
その小さな評価だけが、新しく名簿へ書き加えられていた。
◇
少し表現やキャラクター名を調整しました!




