観測される男
自分の姿がぼやけてしまった挙句、研究暴走機関車に体よく捕まってしまったC級冒険者ダリア。
日数にすれば、ほんの数日ぶり。
けれどダリアには、それがひどく懐かしいことのように感じられた。
そう。彼は今、風呂に入っていた。
この世界では、入浴の習慣は庶民の家庭にまで広く普及している。
昔から、ダンジョンへ入ったあとは身体を洗った方がいいとされてきた。
ダンジョンという未知を、かつての人々はケガレやオソレに近いものとして捉えていた。そこから帰った者には、目には見えない何かがまとわりついている。だから水で身体を清め、家へ持ち込まないようにする。
誰かがそう定めたわけでも、守らなければ罰を受けるわけでもない。
それでも、ダンジョン帰りの者が身体を洗わずにいると、周囲の人間はなんとなく落ち着かない。本人もまた、風呂へ入らなければ探索が終わったような気がしない。
そんなぼんやりとした感覚が、長い年月をかけて習慣として根づいていた。
後になって、身体を清潔に保つ者ほど病気になりにくいことが経験的に知られるようになり、かつての国が公衆浴場や各家庭への浴室の設置を推し進めた。
今となっては、ケガレや厄を本気で信じている者はそれほど多くない。
けれど、ダンジョンから帰ったらまず風呂へ入る。
その習慣だけは、当たり前のものとして人々の暮らしに残っている。
アリアは現在、家を空けていた。
長く使われていなかった家なので、浴室や井戸はそのまま使えたものの、飲み水の汲み置きも食料もない。調査隊の宿から夜食と最低限の日用品を調達するため、彼女は一度外へ出ていた。
その間に、ダリアは風呂へ入ることになった。
ダンジョンへ二度も潜り、その間には森で野宿までしている。家にも戻れなかったのだから、まともに身体を洗えているはずがない。
「とりあえずあんた、風呂に入ってその身体を洗ってきなさい。汚れすぎてて検査をする気にもならないわ。ついでに、風呂を出たらこの家の掃除もよろしくね」
ばっちいもの扱いされた上に、掃除まで命令された。
しかし、ダリアに拒否権はない。
それに、元々きれい好きだったダリアは、言われなくても掃除をするつもりだった。なにより、久しぶりに風呂へ入れることが純粋にうれしかった。
◇
「さて、帰ったわよー。掃除はどのくらいまで進んで――」
アリアの口が止まった。
思わず悲鳴を上げそうになったが、目の前の光景がどうして生まれたのかを考え、なんとか飲み込む。
この家は、つい先ほど再び使うことが決まったばかりの空き家である。
アリアの両親が王都へ移る際、衣服や日用品の類はほとんど運び出されていた。家に残っているのは、動かすのが面倒だった机や椅子、古いベッド、それにいくつかのランプくらいのものだ。
当然、清潔なタオルもなければ、男性用の衣服などあるはずもない。
風呂場に残されていた小さな手拭いでは、身体を拭くことはできても腰に巻くことまではできなかったらしい。
つまり、全裸である。
雑巾代わりのぼろきれを片手に、一糸まとわぬ姿で床を磨いている男性型異常存在は、アリアの姿を見るなり硬直した。
「す、すまない。よく考えたら替えの服なんて持っているわけもなくてな。でも、今まで着ていた服はかなり汚れていて、とても着直せる状態じゃなかったんだ。扉の前に気配を感じたら声をかけようと思ってたんだが、その、掃除に集中していて……決して全裸でいたかったわけではなくて、俺も一応、何か着られるものがないか探してはみたんだが、見事に何もなくてだな……」
しどろもどろもいいところである。
さすがのダリアも、同年代の女性、それも幼馴染にこの姿を見られるのは恥ずかしかった。
「いいわ。着替えがないことに気づかなかった私も間抜けだった。適当な下着と服を調達してくるから、もう少しだけそのまま待ってなさい」
「そのまま待つのか……?」
「動き回られるよりましよ!」
◇
「さて。聞き取りとか調査とか、それ以前の問題については、とりあえず片付いたわね」
調査隊の宿から借りてきた大きめの部屋着に身を包み、ダリアはようやく人心地ついていた。
「すまない。本当に助かった」
「いいのよ。別人だと思われるにしても、あんたはまだ自由に外を出歩かない方がいい身だしね」
「ところで、この服はどこで手に入れてきたんだ? この時間に服屋なんて開いてないだろ」
「調査隊の宿に戻って、ゆったりした服が必要だから、大きめの部屋着を貸してくれって頼んできたのよ。夜食もそこの厨房から包んでもらったわ。その服はいずれ返さないといけないから、明日にでもまともな服を買いに行きましょ」
一拍置いてから、アリアは続けた。
「とりあえず今日は、あんたの健康状態だけ確認して寝る!」
「本格的な調査はしないのか?」
「相当疲労も溜まってるでしょうし、ダンジョンの魔獣から毒も受けたんでしょ? そんな状態で魔法まで使わせたら、何を調べているのか分からなくなるわ」
そう言うと、アリアは慣れた手つきでダリアの体調を調べ始めた。
「体温は普通。脈もある。受けた傷は完全には治っていないけど、命に関わるようなものではなさそうね。疲労も感じていたって話だし、毒を受けた直後には視界がかすんだのよね?」
「ああ。まともに目を開けていられないくらいだった」
アリアがぐいっとダリアの顔へ近づき、目をのぞき込む。
爛々と輝くその目に、ダリアは若干の恐怖を覚えた。
研究者の目である。
下手に視線をそらせば、何か新しい異常を発見したと勘違いされかねない。そう思い、ダリアは意識して目をそらさないようにした。
「今、視界におかしなところはある? 焦点が合わないとか、色が違って見えるとか。視界以外でもいいわ。顔や、毒を浴びた辺りに違和感は?」
「いや、特にはないな。いたって普通だ。いつも通りって感じだな」
「そう。今のところ後遺症らしいものはなさそうね。少なくとも即死性でも、体内に長く残る種類でもなかったみたい」
「それなら、もう心配はないのか?」
「断定はできないわ。獲物の動きを一時的に鈍らせるための毒だった可能性が高いけど、キマイラの毒は種類が多すぎるのよ。後から症状が出るものだってあるし、しばらくは様子を見る必要があるわね」
「キマイラ? それは俺があのダンジョンで出会った魔獣のことか?」
「そうよ。キメラとも呼ばれるけど、複数の動物の特徴が混じった魔獣の総称ね。大抵は、もっと弱い生き物の特徴が雑に混ざってるだけで、大した脅威じゃないわ。でも、何が混じっているかによっては、ものすごく凶悪になる」
「俺はあんなのを見たことも聞いたこともなかった。もっと上位のダンジョンだと、よく出るのか?」
「あのダンジョンが今も本当にD級なのかは置いておいて、キマイラ自体はC級上位くらいから目撃例が出始めるわね」
「なら、そこまで珍しい魔獣じゃないんだな」
「存在自体はね。でも、あんたが見た個体は別」
アリアは指を一本立てた。
「狼の頭が二つ、獅子の胴体に蛇の尾だったのよね?」
「ああ。蛇の尾から毒も吐いた」
「キマイラは複数の動物が混じっていても、普通は一つの生物を核にして形作られるの。だから頭部まで複数ある個体は珍しい。二つ首に蛇の尾を持つ魔獣の記録自体は深層でいくつか見つかってるけど、狼の双頭に獅子の胴体、それもD級ダンジョンで出たなんて話は、私も聞いたことがないわ」
「じゃあ、あいつは相当珍しい個体だったのか」
「そうよ。目撃証言だけでも、専門の調査隊が組まれておかしくないレベルね」
「またあそこに行けば、同じようなやつがいるのか?」
「それは分からないわ」
アリアは冷静に答えた後、目を細めた。
「でも、死にかけるほどの経験をして、せっかく助かったのに、また確かめに行こうとするのは、よっぽどのおばかさんだと思うわよ?」
ダリアはぐうの音も出なかった。
元々、彼は慎重派の男だったはずである。
それなのに短期間に濃すぎる経験を重ねたせいか、慎重という言葉がどこかへ行ってしまっていたらしい。
アリアに指摘されて初めて、自分の心がまだ地に足のついていない状態なのだと悟った。
「さて、今日はここまで。本格的な調査は明日からやるわ。調査隊の方には、私はいつもの気まぐれを起こしたってことで押し通しておくから」
「それ、本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫よ。それで押し通せるだけの実績が私にはあるの」
言い切ると、アリアは立ち上がった。
「じゃ、おやすみなさい」
一方的に会話を打ち切ると、彼女も疲れていたのだろう。まっすぐ寝室へ向かっていく。
扉を開ける直前、何かを思い出したように振り返った。
「ああ、そうだ。あんたは二階のベッドを使いなさい。どの部屋でもかまわないわ」
「分かった。おやすみ」
アリアが部屋へ消えていく。
(強引なのは、昔から変わってないんだな)
少しだけ懐かしい気持ちになりながら、ダリアも二階へ向かった。
◇
翌朝、ダリアは階下から響く金属音で目を覚ました。
何かが床へ落ちる音。
続いて、重たい物を引きずる音。
最後に、聞き覚えのある女の小さな悪態。
窓から差し込む光を見る限り、まだ朝も早い。
昨夜は横になった途端、意識を失うように眠りへ落ちた。魔獣との戦闘や野宿で溜まった疲労を考えれば、もう少し長く眠っていてもおかしくなかったはずだ。
その眠りを破るほどの物音が、下から続いている。
(昨日、あいつも疲れてたはずだよな?)
嫌な予感を覚えながら階段を下りる。
そして、居間の光景を見た瞬間、ダリアは階段の途中で足を止めた。
昨夜まで机と椅子くらいしかなかった部屋が、見知らぬ器具で埋め尽くされている。
水の入った大小の容器。
金属製の輪。
透明な板。
細い針の並んだ箱。
魔石らしきものがいくつもはめ込まれた筒。
何に使うのか想像もつかない器具が、床にも机にも所狭しと並べられていた。
壁際には何十枚もの記録用紙が積まれ、その横には、昨日まで存在しなかった黒板まで立てかけられている。
その中心で、アリアは満足そうに腕を組んでいた。
「おはよう。ちょうどよかったわ。準備が終わったところよ」
「……それ、全部どこから持ってきたんだ?」
「調査隊から借りてきたわ」
「気まぐれで押し通すんじゃなかったのか?」
「ええ。気まぐれで借りてきたのよ」
押し通せているのか、それは。
問いただしたところで、返ってくる答えは目に見えている。ダリアは諦めて階段を下りた。
「夜中に運んだのか?」
「朝よ。あんたが寝てる間に、一度調査隊の宿へ戻ってきたの」
「何時に起きたんだ?」
「寝てないわ」
「寝ろ」
「久しぶりに面白い研究対象が目の前にいるのに、眠れるわけないでしょう?」
「研究対象本人の前で言うことじゃないだろ……」
アリアは気にした様子もなく、記録用紙を一枚手に取った。
「まずは昨日の続き。安静状態での魔力量と、体内の魔力循環を調べるわ。それから既知魔法の出力測定。次に無詠唱発動の再現。その後に――」
ぐう、と音がした。
室内に、妙に大きく響いた。
アリアの説明が止まる。
ダリアは腹を押さえながら、気まずそうに視線をそらした。
「その前に飯にしてくれないか?」
「……そういえば昨日、夜食を食べてから何も口にしてないわね」
「それ以前に、ここ数日はまともな物を食べてない」
「駄目じゃない」
「誰のせいで朝から検査が始まりそうになってると思ってるんだ」
アリアは少し考えた後、手元の用紙へ何かを書き込んだ。
「空腹感あり。消化器官は正常に機能している可能性が高い、と」
「今のも検査だったのか?」
「何でも記録しておいて損はないわ」
「俺が腹を空かせてることまで研究成果にするな」
「とにかく、先に朝食にしましょう。空腹状態で測定したら、平常時の数値にならないもの」
結局、ダリアが朝食を許可された理由は、身体を気遣われたからではなく、正確な数値を取るためだったらしい。
◇
朝食は、昨日アリアが調査隊の宿から持ち帰った黒パンと干し肉、それに野菜の入ったスープだった。
豪華とはいえないが、数日ぶりに屋根の下で食べる温かい食事である。
ダリアにとっては、それだけで十分だった。
「味は?」
「普通にうまい」
「舌にしびれは?」
「ない」
「飲み込みにくさは?」
「ない」
「食べた物が胃へ落ちていく感覚は?」
ダリアはスプーンを置いた。
「頼むから飯くらい静かに食わせてくれ」
「大事な確認よ。今のあんたが見た目だけ人間で、中身がどうなっているかは分からないんだから」
「昨夜、脈も体温も普通だったんだろ」
「それは循環器官らしきものが動いているってだけ。食べ物を消化して、自分の身体へ変換できるかは別問題よ」
「食べたものが腹の中から消える可能性まで考えてたのか?」
「可能性としてはね」
「嫌な可能性を食事中に並べるな」
アリアは悪びれることなく、再び記録用紙へ文字を書きつけた。
ダリアはそれ以上抵抗することを諦め、残りのスープを飲み干した。
食事を終え、しばらく休憩を挟む。
アリア曰く、食べた直後では数値が不安定になる可能性があるらしい。
待っている間にも、彼女は器具の位置を何度も調整し、記録用紙を種類ごとに分け、黒板へ見慣れない図を書き込んでいく。
その様子を眺めながら、ダリアは改めて思った。
幼い頃から、何かに夢中になると周囲が見えなくなる女だった。
昔はそれが、物置小屋の奥から見つけた壊れた魔道具だったり、森で拾った妙な形の石だったりした。
対象が自分になっただけで、何も変わっていない。
そう考えると少し安心するような、まったく安心できないような、複雑な気分だった。
「そろそろ始めるわよ」
「何をすればいい?」
「まずは座って。何も考えず、魔力も動かさないようにして」
「何も考えるなって言われると、逆に難しいな」
「それなら今日の昼食についてでも考えてなさい。ただし、魔法については考えないこと」
ダリアが椅子へ腰かけると、アリアは両手首に細い金属製の輪を取り付けた。
輪から伸びた糸のような線が、机の上に置かれた測定器へつながっている。
続いて胸元、首の後ろ、こめかみに薄い板を貼りつけられた。
「痛くはない?」
「ああ。ただ、ものすごく落ち着かない」
「我慢して」
アリアが測定器の中央へ魔石をはめ込む。
淡い光が灯り、器具の中にある細い針がゆっくりと動き始めた。
彼女は針の動きを追いながら、数値を書き留めていく。
初めのうちは無言だった。
やがて眉を寄せ、測定器を軽く叩く。
もう一度数字を確認し、別の器具へ交換する。
同じ手順を繰り返す。
「壊れてるのか?」
「壊れてないわ」
「じゃあ、何がおかしいんだ?」
「おかしくないのがおかしいのよ」
アリアは測定器から目を離さないまま答えた。
「本人の感覚では以前より増えている可能性はある。でも、測定値だけならせいぜいC級冒険者として平均より上って程度、人間離れした量じゃない」
「いいことじゃないか、異常なしってことだろ?」
「どこがよ。あんたが作った氷の塊と大槍を、この魔力量で説明できるわけがないでしょう」
「実は、俺が思ってたより大した魔法じゃなかったとか」
「獅子の胴体を持つ魔獣の牙を砕いて喉を貫く魔法が、大したことないわけないでしょうが」
「だよな」
アリアは今度は、ダリアの背中へ細い棒のような器具を当てた。
首の付け根から背骨に沿ってゆっくり下ろし、腰まで来ると、今度は腕へ移る。
「少しだけ魔力を右手へ流して」
「魔法は使わなくていいんだな?」
「流すだけ。外へ出さないで」
ダリアが言われた通りに意識すると、体内を巡っていた魔力が右腕へ集まっていく。
測定器の針が跳ねた。
アリアの手が止まる。
「もう一度。今度は左手」
針が動く。
「次は右足」
同じように動く。
「頭」
ダリアは一瞬迷った。
「頭に魔力を集めるって、どうやるんだ?」
「普段、詠唱を思い出す時の感覚でいいわ」
言われた通りに意識する。
今度は測定器の針が、先ほどまでより大きく振れた。
アリアは目を細めた。
「……流れが滑らかすぎる」
「悪いのか?」
「普通、人間の体内を魔力が移動する時には、必ずわずかな抵抗があるの。血液が血管を流れる時に摩擦があるのと同じ。魔力の通り道にも個人差があるし、流しにくい場所もある」
アリアはダリアの腕へ当てていた棒を持ち上げた。
「でも、あんたにはそれがほとんどない。身体のどこへでも、同じように魔力を流せる」
「便利になったってことか?」
「これくらいの特徴なら、普通の人間にも確認された記録はあるはずよ。生まれつき魔法の才能が極めて高かった、いわゆる天才ってやつね」
アリアは記録へ目を落とす。
「あんた、魔法の天才だなんてもてはやされたことはないでしょう? でも今は、魔力があんたの体内を移動する時の損失も、外へ放出する直前の漏れも、ほとんど確認できない」
「前は違ったのか?」
「少なくとも、これだけ派手な検査結果が出るなら、冒険者としてすぐに目をつけられてるわ」
室内に、短い沈黙が落ちる。
ダリアは自分の右手を見た。
見た目は、何も変わらない。
指を動かせば、以前と同じように動く。
傷があれば痛み、疲れれば眠くなり、腹も減る。
それでも、その内側では以前とは違う何かが起きている。
「次へ進むわよ」
アリアの声に、ダリアは顔を上げた。
彼女はすでに次の器具を準備している。
考え込む暇すら与えてくれない強引さが、今はありがたかった。
◇
机の上に、水を入れた同じ形の器が三つ並べられた。
その下には、床を濡らさないための厚い布が敷かれている。
「最初は、あんたが以前から使えた冷凍魔法。詠唱も、使い方も、できる限り昔と同じにして」
「どのくらい凍らせればいい?」
「水面に薄い氷を張るだけ。容器全体を凍らせないように」
「分かった」
ダリアは一つ目の器へ手をかざす。
見慣れた水面。
見慣れた詠唱。
これまで何度も使ってきた魔法だった。
狩った獲物を保存するため。
採取した薬草を冷やすため。
飲み水を少し冷たくするため。
戦闘で使うことはほとんどなかったが、冒険者としては便利な魔法だった。
ダリアが詠唱を終え、以前と同じ感覚で魔力を流す。
ぱきん、と乾いた音がした。
水面から白い霜が一気に広がる。
次の瞬間、器の中の水が底まで凍りついた。
それだけでは終わらない。
器の外側を霜が覆い、置かれていた布まで硬く凍りつく。
「……薄い氷って言ったわよね?」
「そのつもりだった」
アリアが凍りついた器へ触れる。
すぐに手を離し、温度を測る器具らしきものを押し当てた。
「魔力の消費は?」
「前に水面を凍らせた時と、同じくらいだと思う」
「疲れは?」
「ないな」
「頭痛や吐き気は?」
「特には」
アリアは測定器を確認する。
しばらく無言で数字を追い、やがて低く唸った。
「やっぱり、流した魔力自体が多いわけじゃない」
「じゃあ、なんで全部凍ったんだ?」
「魔力が現象になるまでの損失が少なすぎるのよ。普通の魔法なら、体外へ放出して、術式を通して、現象になるまでにかなりの魔力が失われる」
アリアは紙の端へ簡単な図を書いた。
「普通なら、これだけ魔力を流しても、実際の現象になるのはこのくらい」
最初に大きな丸を描き、その先に小さな丸を書く。
「でも、あんたの場合は――」
今度は、大きな丸とほぼ同じ大きさの丸を書く。
「流した分が、ほとんどそのまま現象になってる可能性がある」
「それなら、次から少なくすればいいだけか?」
「理屈の上ではね。やってみましょう」
二つ目の器が前へ出される。
「今度は、さっき流した魔力の十分の一くらいを意識して」
「十分の一って言われてもな」
「感覚でいいわ。さっきよりずっと弱く」
ダリアは再び詠唱する。
今度は、体内を巡る魔力をできる限り細く絞る。
水面の一部だけへ、薄い膜を作る。
そう意識して魔力を流した。
水面の中央に、小さな氷が浮かび上がった。
指先ほどの大きさ。
厚みは少しあるが、先ほどのように器ごと凍りつくことはない。
「できたな」
「一度で調整した……」
アリアは氷を見ながら、何やら書き込んでいる。
「そんなに珍しいのか?」
「術者として成長するにつれて魔力の変換効率がよくなって出力が上がることは知ってるでしょ?何らかの原因で急激に成長してしまった術者はもっと調整に苦労するものよ。何度も試して、自分の感覚と実際の威力を合わせていく。でも、あんたは一度結果を見ただけで、かなり正確に修正した」
「昔から、この魔法はよく使ってたからな」
「それだけかしらね」
アリアは三つ目の器を指す。
「次。同じ詠唱で、水面の中央だけを丸く凍らせなさい。今作ったものより大きく、でも器の縁には触れないように」
「同じことじゃないのか?」
「今のは、弱く使った結果たまたま小さくなった可能性がある。今度は最初から形と範囲を指定するの」
ダリアは頷く。
水面の中央へ、丸い氷を作る。
大きさは手のひらほど。
縁からは指二本分離す。
頭の中で完成した形を思い浮かべ、同じ冷凍魔法を詠唱する。
魔力を流す。
水面の中央だけが白く曇り、そのまま円形に凍りついた。
縁には触れていない。
大きさも、ほぼイメージした通りだった。
「……どうだ?」
アリアは返事をしなかった。
器の周囲を回り込み、上から、横から、角度を変えて氷を確認している。
「アリア?」
「詠唱は、いつもと同じだったのよね?」
「ああ」
「今の詠唱には、円形に凍らせるなんて指定は含まれてない」
「そうなのか?」
「そうよ。対象を指定して冷却することができるだけの、ごく一般的な術式。多少の範囲調整はできても、こんなに明確な形状指定をするようには作られてない」
「じゃあ、何でできたんだ?」
「それを調べてるのよ」
アリアは容器を睨みながら、しばらく考え込んだ。
やがて、何かを決めたように顔を上げる。
「詠唱なしでやってみましょう」
「急だな」
「昨日の話だと、魔獣を倒した時は詠唱を使ってなかったのよね?」
「使ってないというか、知らなかった」
「なら、今の魔法を詠唱なしで再現して」
「そんな簡単に言うな。あの時は死にかけてたんだぞ」
「なら、今から死にかければいいのよね?」
「普通にやる」
アリアは空になった別の器へ水を注いだ。
「まずは小さくていいわ。水面に、指先ほどの氷を一つ」
ダリアは器へ手をかざした。
詠唱を口にしないというだけで、いつもの魔法がまるで別物に感じられる。
何をすればいいのか分からない。
氷を作る。
ただ、それだけを考える。
水面の一部を冷やし、凍らせる。
指先ほどの白い氷が浮かぶ様子を、できる限り具体的に思い浮かべる。
体内で魔力が動く、詠唱を使った時とは違う。
普段なら、詠唱によって作られた道へ魔力を流す感覚がある。
今回は道がない。
それなのに魔力は迷わず腕を通り、手のひらから水面へ向かっていく。
ぱきり、と小さな音がすると水面に小さな氷が浮かんでいた。
ダリアはしばらくそれを見つめた。
「……できた」
「そうね」
アリアの声は、思ったより冷静だった。
「驚かないのか?」
「この程度の現象なら、魔塔にだって使える術者は存在するわ」
「無詠唱って珍しいんじゃなかったのか?」
「同じ魔法を何度も何度も使い込んで、詠唱を意識しなくても魔法を発動できるまでなじませれば可能よ。正確には省略詠唱って呼ぶんだけど、今は違いだけ分かってればいいわ」
「俺は少なくともそこまで使い込んだ覚えはないぞ」
「知ってるわ。あんたが冷凍魔法を覚えたのは、保存用に便利だからって理由だったでしょう。理論を勉強するような性格でもなかったし」
「よく覚えてるな」
「幼馴染を馬鹿にするんじゃないわよ」
アリアは水面の氷へ視線を戻す。
「これだけなら、異常に早く術式を内在化したとも考えられる。でも、氷の大槍は違う。あんたは、あの魔法を知らなかった」
「ああ」
「だから次は、あんたが知らない形を作ってもらう」
アリアは細い木の棒を一本取り出した。
それを器の中央へ立て、金属製の台で固定する。
「この棒の周りに、氷の輪を作りなさい」
「輪?」
「棒を中心にして、周囲の水だけを凍らせる。ただし、氷を棒へ触れさせないこと。棒との間には隙間を残して、完全な輪にする」
ダリアは器を覗き込んだ。
水の中央に棒が立っている。
その周囲へ、触れないように氷の輪を作る。
「そんな細かい魔法、俺は知らないぞ」
「だからやるのよ」
「失敗して器が割れても知らないからな」
「予備はあるわ」
用意がいい。
ダリアは諦めて手をかざした。
棒の周囲に氷の輪。
中央には空間を残す。
棒には触れない。
輪の太さは指一本ほど。
器の底まで凍らせず、水面だけで形を保つ。
先ほどよりも、考えることが多い。
完成した形を保とうとすると、頭の中で何かが引っかかるような感覚があった。
それでも集中を続ける。
魔力が動き始める。
詠唱はない。
術式も知らない。
だが、魔力は再び形を持とうとしていた。
水面が白く曇る。
棒の周囲へ、細い氷が伸びていく。
やがて両端がつながり、輪になった。
「できた……のか?」
形は輪になっている。
ただし、左側だけが少し厚い。
内側の一部が棒へ接触し、薄い霜が木の表面へ張りついていた。
「完全ではないわね」
アリアが即座に答えた。
「左側が厚すぎる。棒にも触れてる」
「初めてなんだから、これくらいは許してくれ」
「もう一度」
「休憩は?」
「必要?」
ダリアは自分の身体を確かめる。
魔力を大きく消費した感覚はない。
疲労も、先ほどまでと変わらない。
ただ、頭の奥にわずかな重さがあった。
目を使いすぎた時に似た、鈍い感覚。
「少し頭が重いかもしれない」
アリアの表情が変わる。
「どの辺り?」
「額の奥というか、頭の中心というか。痛いってほどじゃない」
「吐き気は?」
「ない」
「視界は?」
「普通だ」
アリアは素早く記録する。
「一度休む?」
「もう一回くらいなら大丈夫だ」
「無理はしないで。異常があったらすぐ止めること」
「分かった」
新しい器が用意される。
同じように木の棒が中央へ固定された。
ダリアは先ほどの結果を思い出す。
左側が厚かった。
棒へ触れた。
なら、内側の空間をもう少し広く。
氷の太さを一定に。
一周すべてを同じ高さでつなぐ。
完成形を、先ほどより明確に思い浮かべる。
魔力が流れる。
今度は先ほどより滑らかだった。
水面を霜が走り、棒の周囲に白い円を描く。
一周。
完全につながる。
棒との間には、均一な隙間が残っていた。
輪の太さも、ほとんど変わらない。
「……できたぞ」
アリアは氷の輪を確認する。
棒を抜く。
氷は崩れず、水面に浮かんだままだった。
「今、どうやった?」
「どうって?」
「どの術式を使ったの?」
「術式なんて知らない」
「魔力をどこから流して、どの順番で冷却した? 最初に外側を固定したの? それとも内側から? 棒を除外するための指定はどう組んだ?」
「何の話をしてるんだ?」
「なら、何を考えたの?」
「さっきより、きれいな輪にしようとしただけだ」
「それだけ?」
「それだけだ」
アリアは黙り込んだ。
氷の輪。
ダリア。
記録用紙。
測定器。
順番に視線を移していく。
やがて、もう一度同じ質問をした。
「本当に、魔力の流し方は分からないの?」
「ああ。詠唱を使った時みたいな道がある感覚はなかった。ただ、輪を作ろうとしたら、勝手に魔力が動いた」
「棒を避ける方法も?」
「知らない」
「氷の厚さを均一にする方法も?」
「分からない。最初の結果を見て、次は同じ太さにしようと思っただけだ」
アリアの顔から、先ほどまでの研究者らしい興奮が消えていた。
代わりに浮かんでいるのは、理解できないものを前にした慎重さだった。
「……違う」
小さく呟く。
「何が?」
「あんたは、術式を省略してるんじゃない」
アリアは氷の輪を指差した。
「無詠唱魔法っていうのは、さっき話した省略詠唱からさらに進んだ技法よ。本来は詠唱に任せる術式の組み立てを、術者自身が頭の中で行うの。声に出していないだけで、術者本人は何をどう組み上げているのか理解してる」
「俺は理解してないな」
「ええ。だから違う」
アリアは記録用紙へ視線を落とした。
そこには、ダリアには理解できない数値や図がびっしりと書き込まれている。
「知らない術式を使ったんじゃない」
ペンを持つ手が止まる。
「知らないはずの術式を、その場で作ってる?」
室内が静まり返った。
窓の外から、町のざわめきが聞こえてくる。
通りを歩く人々の足音。
遠くで鳴る鐘。
どこかの家から漂う、昼食を作る匂い。
いつの間にか、朝はとっくに終わっていたらしい。
ダリアは椅子へ深く座り直した。
「それは、どのくらいおかしいことなんだ?」
「少なくとも、私の知っている魔術理論では説明できない」
「お前でも?」
「私でもよ」
アリアは椅子へ腰を下ろさず、氷の輪の周囲を歩き始めた。
考えがまとまらない時の癖だった。
「魔力を現象へ変えるには術式が必要。詠唱は、その術式を集合的な魔法の型から呼び出すためのもの。無詠唱で使うなら、自分で術式を理解して組み上げなければならない」
一歩。
「でも、あんたは術式を知らない」
もう一歩。
「完成した形を思い浮かべただけで、必要な処理が勝手に組み上がった。本来なら理論を学んで、何度も試行錯誤して完成させるはずの術式を、あんたは完成形を思い浮かべただけで組み上げてる」
そこで足を止める。
「あの氷の槍も同じだったとすれば、あんたの魔法は、必要な結果から手順を逆算してる……?」
「......」
「まだ仮説よ。断定はできない」
そう言いながら、アリアの目は再び爛々と輝き始めていた。
「次は、どこまで複雑な形を作れるか調べる必要があるわ。属性を変えた場合の違いも見たい。雷撃魔法と比較して、既知術式の影響を――」
「待て」
「それから、同じ結果を別の方法で実現するように指定した場合、身体がどちらを選ぶか――」
「アリア」
「治癒術式にも適用できる可能性が――」
「腹が減った」
アリアの動きが止まる。
「さっき食べたでしょう?」
「さっきって、何時間前だと思ってるんだ」
アリアが窓を見る。
太陽はすでに、空の一番高い位置を過ぎていた。
「……まだ昼過ぎじゃない」
「朝から何時間、座らされてると思ってる」
「研究中に時間を気にする方が悪いわ」
「俺は研究者じゃなくて研究対象なんだよ」
「なおさら時間を気にする必要はないでしょう?」
「あるわ!」
大きな声を出したせいか、頭の奥の重さが少し強くなった。
ダリアが額を押さえると、アリアの表情がすぐに引き締まる。
「頭痛が強くなった?」
「ほんの少しな。叫んだからかもしれない」
「今日はここまでにしましょう」
先ほどまで次の実験を並べ立てていた人物とは思えないほど、判断は早かった。
アリアは測定器の魔石を外し、ダリアの手首につけていた輪を取り外していく。
「魔力自体は、まだかなり残ってる。でも、未習得の魔法を作った後だけ頭痛が出た。魔力の消費とは別に、何か負担がかかってる可能性があるわ」
「魔法を考えたせいで頭を使いすぎたとか?」
「その可能性もある。でも、あんた自身は術式を考えていない。なら、どこでその処理が行われているのかを調べないと」
「明日でいいだろ」
「もちろん」
アリアは答えながら、すでに別の記録用紙を取り出していた。
「今日は午後から、得られた結果を整理するだけにするわ」
「俺は?」
「食事を作って」
「俺が?」
「研究対象にも、それ以外の時間は働いてもらわないと。昨日掃除しきれなかった場所も残ってるでしょう?」
「頭痛があるんだが」
「軽いんでしょう?」
「さっきまで心配してたのは何だったんだ」
「魔法の使用は禁止。でも料理と掃除なら問題ないわ」
「俺の扱い、研究対象と家政夫の間を行ったり来たりしてないか?」
「住居と食事を提供されるんだから、むしろ好待遇よ」
「俺が作るんだろ、その食事」
アリアは聞こえなかったふりをして記録用紙へ向き直った。
ダリアは深いため息をつく。
それでも、立ち上がろうとした時には、頭の重さは少しだけ薄れていた。
窓から差し込む昼の光。
台所から漂う、昨日持ち帰った食材の匂い。
床へ広がる、見慣れない研究器具。
その中心で、アリアは氷の輪を何度も眺めながら、紙へ文字を書き続けている。
何もかもが変わってしまった。
自分の顔も。
声も。
身体も。
使える魔法さえも。
それでも、幼馴染に振り回されながら、腹を空かせ、昼食の支度を押しつけられている今だけは、以前とそれほど変わらないようにも思えた。
(まあ、少なくとも今すぐ化け物になるわけじゃなさそうだな)
確証はない。
けれど、今はそれでいい。
ダリアは台所へ向かい、昼食に使えそうな食材を探し始めた。
その背後で、アリアが小さく呟く。
「結果から、手順を逆算する……」
ペン先が紙の上を走る。
「いかな無詠唱といえど、膨大な知識があってこそ成り立つ。天性の才能を持つ術者でさえ、座学なしではその才を活かしきれなかった」
アリアは紙へ書き込んだ言葉を見つめ、わずかに眉を寄せる。
「なら、座学もしていないあんたは一体何を参考にしているの?」




