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柳村:木を隠すなら森の中(中編)

※柳村が異性と付き合うシーンがあります

※同性に告白されるシーンもあります


 犀佳少年は、連絡場(聖域)にて、部長から口付けという最も背徳的な行為を受けた。


 彼も思春期の真っ只中にいる少年ではあるので、年上女性からの甘美的な触れ合いにすっかり夢中になって──いる筈もなく、やはりこの魔性の顔面が誰も彼もを誘惑してしまうのだと嫌気が差していた。


 生まれてこの方、他人からの好意という名の重圧を無差別に浴び続けてきた犀佳にとって、恋愛などという生々しい感情は、もはや忌避すべきノイズでしかなかった。


 年相応に浮かれるどころか、すっかりやさぐれてしまった犀佳だが、麗しの相貌を持っている彼には、どうしたって恋愛イベントがついて回ってくる。


 初夏の突然の雨は、更なる台風を呼び込んだ。




「私、サイが好きなの!」


 昼休みが終わったばかりの授業中に受信したメールは、急な結からの呼び出しだった。


『放課後 中庭に来て』という結らしくない簡素な一文に、妙な胸騒ぎを覚える。


 だが、2人しかいない幼馴染のお願いを無碍(むげ)には出来なかった。


 ホームルームが終わるなり、中庭に向かった犀佳を出迎えたのは、校舎の壁を背にして立っている、硬い表情の結だ。


 戦う前の武将の如き、悲壮な覚悟を滲ませている彼女を前にして、一体どんな相談事をされるのだろうかと犀佳は身構える。


 だが、実際に色つきのリップクリームが塗られた口から飛び出したのは、まさかの愛の告白だった。


 予想外の出来事に、犀佳も「え?」と聞き返すような声を上げる。


 それが呼び水となって、結は言葉を(つまず)かせながらも積年の想いを捲し立てた。


「保育園の頃からずっとずっと好きで、でも全然振り向いてくれないから、もう幼馴染でもいいやって思ってた。けど、あの女狐に取られるくらいなら、告ったほうが良いかと思って!!」


 目を潤ませて、上目遣い気味に訴えてくる結の見た目と、毒々しい言葉のギャップに目を瞬く。


「め、女狐·····?」

「犀佳の所の部長さん!この前、見ちゃったの。犀佳と部長さんが、き、き、チューしてる所!!」


 もはや、犀佳にとっては苦々しい思い出でしかないあの一瞬の出来事を、間の悪いことに結に見られてしまったらしい。


 キスもマトモに言えない幼馴染が顔を真っ赤にして見上げてくる様に、犀佳は頭を抱えてしゃがみこみたい気持ちになった。


 中学校に上がって同級生の数が増えた犀佳は、毎日のように色んな告白をけしかけられている。


 中には2人で押しかけてきて、どちらかを選んでくれと迫ってくる猛者もいた。


 どちらとも付き合えないと丁重にお断りしたら、何故か目の前でキャットファイトをかまされたてしまい、慌てて興奮している彼女達を宥めることになった。


 しかし、見知らぬ同級生達の仲裁役を務めたものの、最終的には『柳村君が選んでくれないから!』ととばっちりを受ける羽目に陥る。


 モテる罪な男として、とうとう告白してきた女子達のフォローまでするようになってしまった犀佳は、年齢が上がる度にバリエーションと質を増やしてくる恋愛感情に疲労困憊(ひろうこんぱい)だ。


 しまいには、今は部長の件もある。


 あの後も部長とは部活で会ったが、彼女は例の出来事などなかったような顔をして世間話を振ってくる。


 やはりアレは、寝ぼけて見た白昼夢だったのかもしれない。


 しかし、白昼夢だったと思い込んだ方が楽だと思った傍から彼女は、誰も見ていない隙を狙って『今日は睫毛は付いてないわね』とからかってくるのだ。


 あの時のように、一瞬だけ温度の籠った眼差しで一瞥(いちべつ)された犀佳は、誤魔化すように笑みを繕った。


 年頃の女子の心情が、さっぱり分からない。


 もはや、目の前の幼馴染やクラスメイト達、そして部長も含めて、女子の生態に振り回されていることに草臥(くたび)れていた。


「わかった」


 気がついたら、顔が笑っていた。


「へ?」


 結が、自分の耳を疑うような声を漏らす。


 玉砕覚悟だったのだろう彼女の戸惑いを余所に、犀佳は念を押すように言葉を重ねた。


「いいよ。付き合おっか」


 恋人とは、互いに想い合った末に結ばれるものだと、これまでの犀佳は頑なに信じていた。


 だからこそ、誰の誘いも断り続けてきたのだ。


 だが──もう、そんな理想はどうだっていい。


 周囲の熱狂に(さら)され、女子という生態に振り回され続けることに、彼は心底疲れ果ててしまった。


 独り身だから、付け入る隙を与えてしまう。


 ならば『売約済み』の看板を掲げてしまえば、この喧騒から逃れられるのではないか。


 犀佳は、己の身を守るための防波堤として、幼馴染の一世一代の告白を受け入れることにしたのだ。


 ──しかし、この投げやりな決断が、後にどれほどの破滅を招くことになるのかを今の彼は知る由もない。


 彼はまだ現実が理解出来ずにぽーっとしている幼馴染の、手持ち無沙汰になっている両手を握った。



 ◇◆◇



 犀佳と結が付き合ったという一報は、その日のうちに中学校中に知れ渡った。


 結が犀佳に告白すると打ち明けていた友人が先に何人かに話していたようで、赤い顔をして戻ってきた結を見て成就を確信したらしい。


『あの鉄壁の柳村犀佳をバレー部の女子が射止めた』という噂は学校中を駆け回って、放課後の出来事だったにも関わらず、翌日には全生徒が知ることとなった。


「この学校の生徒は、全員お馬鹿さんなんだと思う」


 夕陽に照らされたアスファルトの上を歩く犀佳は、在学生達のミーハーっぷりに心底呆れ返っていた。


「あ、俺、先に帰った方がいい感じだよな?付き合いたてホヤホヤのお前らの間に挟まれてるなんて知られたら、あっちこっちから苦情きそう」

「駄目!櫂人はここにいて!私、まだ犀佳と付き合えたことを実感出来てないの!これが夢じゃないって分かってはいるのに、全然気持ちが追いついてなくて·····。けど、犀佳の顔がまともに見れないのー!!」

「ぐぇっ!腕が、腕がもげるーーーー!」


 犀佳と結は付き合った翌日も、櫂人を含めた3人で下校していた。


 結に腕を引っ張られている櫂人の言う通り、普通は付き合いたてのカップルの間に、もう一人の幼馴染が挟まることはしないだろう。


 だが、打算でOKを出した犀佳と、付き合ったと実感がないにも関わらず、意識し過ぎて犀佳の顔をまともに見れない結により、櫂人は強制的にこの気まずい2人に巻き込まれることになった。


「っつーか、犀佳はマジで結でいい訳?お前の顔だったら、他にも色んな可愛い子とか選べただろ」

「ばっか!何、正論を言ってくれてんのよ!?」

「ううん。俺は結が良いんだ」

「え゛!?嘘だろ、お前·····って結!?こら、立ったまま気絶すんな!?」


 正確には、『俺は(幼馴染の)結(の方)が(色々と都合が)良いんだ』である。最悪な圧縮言語だ。


 犀佳の端折りすぎた言葉を真に受けた結は気が遠くなったらしく、櫂人の腕を引いたまま意識を飛ばした。


 3歳の頃から犀佳に懸想して、はや十年。


 やっとの思いの成就に、彼女がキャパオーバーを迎えても致し方ない。


 そんなこんなで、夏休みに入る前の中学一年生。


 犀佳は人生初めての彼女を作った。




 結論を申せば、犀佳と結の中学生らしいプラトニックな恋愛は順調だった。


 元々、幼馴染同士なこともあって、それぞれの好みや生活パターンは把握している。


 一緒に帰宅する時間の擦り合わせやデートの行先の選定、連絡を取る頻度などで煩わしいことは一切ない。


 彼等に現れた変化を挙げるとすると、帰る時に手を繋ぐようになったことと、デート代の多くを犀佳が支払うようになったことくらいだろうか。


 毎回、デートの終わりが近づいてくると、結は何か期待した顔で犀佳の顔を見詰めてくることがある。


 それが何を意味しているのかを犀佳は分かっているくせに、明日の朝に迎えに行くと約束をして彼女の家の前から去っていくのだ。


 恋人同士なのだから、交際して一ヶ月も経てば、キスの一つや二つくらいはして当然だろう。


 そう心では割り切っていても、なかなか踏み出せないでいるのは、犀佳自身がこの関係に(やま)しさを抱いているからか。


 それとも──部長とのキスが、忘れられないせいか。


 しかし、付き合っている以上は、『キス問題』からは逃れられない。


 結の期待した顔を思い出す度に、犀佳は自分に言い聞かせる。


 キスなんて、唇同士がちょっと、チュッとくっつくだけだ。


 そんなことは、この前やってきたラグドールのクレオパトラにも毎日やっている。


 ほんの3週間前から、柳村家には新しい家族が増えた。


 父親が知り合いから譲り受けたといって、ラグドールの子猫を連れて帰ってきたのだ。


 動物に目がない柳村一家はすっかりクレオパトラと名付けた新入りに夢中になり、隙があればチュッチュと鼻先にキスを送るのが日課になっている。


 そのせいで、柳村家のアイドルはすっかりキス嫌いになってしまった。


 しかし、何故か犀佳だけは鼻先への口付けが許されている。


 これには母親と姉は口を揃えて、『やっぱり、メスだからイケメンがいいのね』やら、『イケメン無罪放免って奴か』などと言いたい放題である。


 犀佳にしてみたら、力任せに唇を押し付けるから嫌われてるだけだと言ってやりたい。


 あんなに鼻が小さいのだから、触れるか触れないかくらいで接してあげるべきだろうに。


 皮肉にも猫の女心は分かるのに、人間の女心が分かっていなかった犀佳は、この三日後、結との破局が迫っていることに気づいてなかった。




 ◇◆◇




 夏休みに入った七月末。


 犀佳は結に誘われて、夏休みの宿題をするために彼女の部屋にやってきていた。


 小学校の時も櫂人と何度も訪れた結の部屋は、中学生になったのを機に内装を変えていた。


 勉強机に貼られていたシールは全て除去されており、上に並んでいるのは見たことがない小説やCDの群。


 ベッドカバーは子供っぽいハート柄のものではなく、柔らかな無地のレモンイエローに変わっていて、彼女が少しずつ大人の嗜好へと変化していることを感じ取った。


 真っ白なローテーブル上で各々のテキストを開き、喉が乾いたら結の母親が用意したカルピスで喉を潤す。


 窓辺に飾ってある風鈴が、カランカランと鳴っている音に慣れてきた頃。


 唐突に、結がパタンとテキストを閉じた。


「あのね、サイ」

「どうしたの?」


 黙々と宿題に取り掛かっていたはずの結が、いつにも増して硬質な声を出す。


 一緒に宿題をしようと持ちかけてきた時から、結には落ち着きがなかった。


 だが、犀佳は彼女の狙いが分かって部屋に上がり込んだ。


 ──きっと今日、直接的に結からキスを強請られる。


 これまで散々(かわ)してきたが、そろそろ年貢の納め時だ。


 付き合っている以上、そういうことはしなければならない。


 これは、恋人同士の義務でもあるのだから。


 そんな男としてどうなの?と言った覚悟を決めて結の部屋にやってきた犀佳であるが、彼女が告げた言葉はさらに上回っていた。


「今日、お母さんいないの」


 想定外の口火に、犀佳は片眉を跳ね上げる。


「確かにおばさん見ないね」

「それで、お父さんもいないの」

「おじさんはお仕事だもんね」


 自分達の声やシャーペンの音しかしないなと思っていたが、どうやら家族が不在だったらしい。


 だが、今更、それがなんだというように犀佳が首を傾げた矢先、結は消え入りそうな声で告げた。


「私ね。生まれて初めて、下着屋さんで下着を買ったの」

「·····は?」


 いつもは快活な幼馴染が、躊躇うように小さな声で紡いだ言葉の意味を、耳にした時は全く理解できなかった。


 しかし、遅効性の毒のようにゆっくりと体内を一周して染み込んでいく言葉の羅列に、数学のテキストに書き込んでいたシャーペンを持つ手が止まる。


 緩慢な動作で顔を上げると、そこには頬と目元を赤く染めて、恥じらうように此方を見詰めてくる結がいた。


「私ね、分かってるの。私達は幼馴染期間が長いから、サイは私のことを女の子扱いするのが難しいんだって」


 それは、違う。


 犀佳は結のことを幼馴染だとしても、これまで女子として扱ってきた。


 結が懸念している──女としての魅力に気づいていないとかそういうのではない。


「だからね。私、思ったの。サイはきっと、私の体の変化とかそういうのを見てくれたら、女の子として意識してくれるって」

「ゆ、い。それは·····」

「サイより、私の方がずーーーーーと好きなのは当然。それは全然良いの。私がサイを好きばっかりで良いから」


 結の手によって、上から1つずつワンピースのボタンが外されていく。


 真っ白のワンピースから覗く、日焼け知らずなキメ細かい肌が徐々に面積を増やして現れる。


「けどね、もう手を繋ぐだけじゃ、満足出来ないんだ。私はサイが欲しい」


 その瞬間、犀佳はその場から立ち上がった。


「サイ?」


 しどけなく肩からワンピースのストラップが外れている結を見つめる眼差しに熱はなく、そこにあるのは怯えるような空虚な瞳。


「ごめん、結。俺は取り返しのつかないことをしてしまったね。ごめん、俺達·····別れよう」


 そう言って、犀佳は扉を蹴破るようにして、結の部屋を出ていった。


 ドタドタと階段を降りていく音がして、止まることなく玄関扉が開く音がする。


 ガチャンと閉じきった音が立て続けに聞こえてきた。


 階段を上がってくる足音はしない。


 その部屋には肩を出した結と、犀佳が忘れていったテキストが残された。



 ◇◆◇



 家にすっ飛んで帰った犀佳は自身の自己中心ぶりに吐き気を覚えながら、リビングのソファで伸びていたクレオパトラを抱っこした。


 彼女はいつも優しく扱ってくれる長男が他の家族みたいに抱き抱えてきたのに吃驚しながらも、目の縁に涙を溜めた彼を見て固まる。


 キュウリを見た時のように固まっているクレオパトラの視線の先には、とうとう溜まった涙を縁から溢れ出させる犀佳がいた。


 次から次へと頬を伝う雫は、顎先へと辿り着いてふわふわの体毛に落ちていく。


 人からの好意に煩わしさしか感じてこなかった13年間だったが、犀佳自身、その好意の中身としっかり向き合ったことはあっただろうか。


 彼女達が顔を真っ赤にして、覚悟の籠った眼差しで差し出してくるラブレターに冷ややかな視線以外を向けたことはあったか。


 ──してこなかったから、結の純情を己のために利用出来た。


 彼女の剥き出しの好意を盾にして、外部からの興味を遮断しようと企み、良心が働かないままに決行出来た。出来てしまった。


 一体、どれほど恐ろしいことをしてしまったのだろう。


 後悔の海に浸りながら自戒を続けていると、自宅の玄関扉がけたたましく開けられた音がした。


 あの大雑把な開け方は、上の姉か、下の姉のどちらかだろう。


 珍しく日中から自宅に帰ってきた姉の気配に忌々しそうに眉を顰めたところで、ドタドタと廊下を走る音が聞こえてくる。


 そして、玄関扉と同じように豪快にリビングの扉が開けられた。


「サイちゃん!アンタ、結ちゃんと別れたの!?」


 現れたのは、今年で21歳になる一番上の麟佳だった。


 シンプルなブラウスとマーメイドスカートの姉は、綺麗に塗られたブラウンのアイシャドウの瞼をかっぴらいて、とんでもない質問を飛ばしてくる。


「なんで、もう知ってるの·····」

「そりゃ、本人から直接聞いたからに決まってるでしょ。ってか、なんでアンタが泣いてんのよ。てっきり、私ってば、乙女の純情を弄んだことにも気付かず、クーちゃんとイチャイチャしてるのかと思ってたわ」

「本当に昔から、結はリンちゃん達に何でもかんでも話すんだから」


 お隣さん家のお嬢さんは昔から姉妹達に憧れており、些細なことから話して欲しくないことまで全てを報告する悪癖がある。


 恐らく今回も、犀佳が家を出ていって直ぐに姉達に破局した旨を伝えたのだろう。


「ハァ。我が弟ながら、ここまでヘタレてるとは情けない。折角、私達と似たような顔に生まれたんだから、もうちょっと堪能しなさいよ」

「煩い。俺は2人みたいに持て(はや)されたくないの。普通に友達とテレビの話をしたり、放課後にコンビニに寄ったり、そういうのがしたいだけだから」

「モテたってそんな事くらい、いくらでも出来るわよ」

「俺は俺の顔だけじゃなくて、本当の自分を見てくれる人とやりたいの!!」


 積年の願望を姉にぶつけた瞬間、犀佳はクレオパトラの首に顔をくっつけてわっと泣き出してしまった。


 これまで我慢していた鬱憤が、今回の後味の悪い幼馴染との破局を経て噴出してしまったらしい。


 クレオパトラが、助けを求めるように麟佳を見上げた。


 物言いたげな猫の視線を受けるや、彼女はハァと大きな溜息を吐く。やれやれと首を振った。


「結ちゃんだけじゃなくて、櫂人くんも居るのに贅沢なヤツ。一人でも大親友が居るんだから、別にいいじゃんね」

「櫂人は保育園に入る前からの仲だもん。そりゃあ、俺の顔だって嫌ってほど見慣れてるし」

「だから、お姉様が言いたいのは、そんな奇跡の一人が居るだけでも儲けもんだって言ってんの。もし、櫂人君がいなかったら、アンタには同性の友達は一人もいなかったってことになるんだからね。感謝なさい」


 犀佳はクレオパトラの首元から顔を上げたが、麟佳の言い分が正論なだけに二の句を飲み込む。


 キッと子猫越しに睨みつけるも、長女は弟の反抗を屁とも思っていないようでフンと鼻を鳴らした。


「もう、いっそのこと、整形したい」

「しょうもない事言ってんじゃないの。大体ね、芸能界には、アンタみたいな顔レベルのやつもそれなりにいるんだからね。火良坂(ひらさか)だから、絶世のイケメンになってるだけで、正直そこまで大したことないんだから」

「それって、全然普通じゃないじゃん!」


 ポロポロ、ポロポロ、落っこちていく涙がクレオパトラの首周りの毛に染み込んでいく。


 彼女は冷えていく首元に嫌な顔をしながらも、しょうがないとばかりに抱かれるがままになっていた。


「俺は、普通に生きたいよ」


 喉の奥から転がり出た掠れた本音を聞いて、麟佳はまた頭が痛いとばかりに溜息をつく。


 しかし、この翌日。

 犀佳は更なる難事に対面することになった。



 ◇◆◇



 破局してから24時間が経過しようとしているが、犀佳は気を落ち着かせるために部活へと勤しんでいた。


 そんな折、同じく野球部の練習に来ていた櫂人から一通の呼び出しのメールが届く。


 どうせ、結のこと絡みだろうとアテをつけ、重たい足を引きずりながら指定された中庭へとやってきた。


 奇しくも此処は、結に告白された場所でもあった。


 中庭に着くと、スライディングでもしたのか、まだ湿っている土をユニフォームにつけた櫂人が立っているのが見える。


 犀佳がやってくるのが見えると、彼は白い歯を見せて片手を振ってきた。


「おつかれー!」

「どうしたの?こんな所に呼び出して」

「まあ、いいからいいから。さっき、そこでカルピスと珈琲買ってきたんだ。どっちがいい?」

「·····珈琲で」

「お?今日は珈琲か。俺はブラックが飲めないから、助かったぜ」

「なんで飲めないのに買ってきちゃうかな」


 勿論、櫂人がブラックコーヒーを飲めないことを承知で、犀佳は引き受ける。


 決して、昨日、結の家で飲んでいたカルピスに苦い思い出があるからと選んだわけではない。


 校舎の壁に背中をつけて、櫂人から貰ったブラックコーヒーに口をつける。


 イベント事になると、何かと甘い物を貰うようになったせいで、すっかり甘い物が嫌いになっていた犀佳は苦味と辛味を愛する舌になっていた。


 今日も弱い己の心を振り払うように弓引きに熱中していたためか、ブラックコーヒーの酸味と苦味が喉に染みる。


 櫂人から呼び出されたことも忘れて、一心不乱に水分補給に夢中になっていると、「なぁ」と低いトーンの声が横から掛かった。


「お前、結と別れたんだろ」

「うん」

「なんで?」


 聞かれるだろうなと覚悟して此処にやってきたが、いざ単刀直入に聞かれると、言葉に詰まってしまう。


 だが、結を自分の都合に振り回してしまった以上、櫂人にまで不誠実でいたくないと思った犀佳は口を開こうとして──刹那、顔の横に一本の腕が押し付けられたのが見えた。


 傍に生えた腕から視線を離すと、近い距離に櫂人の焼けた顔が目と鼻の先にある。


 目の前にある櫂斗の顔からは、先程の朗らかさがすっかりと消え失せている。


 見たことがないくらい、真剣な表情だった。


「俺は、やっぱり結とはそういう仲になれないと思い知った」

「付き合ったのにか?」


 問い詰めるような櫂人の声に、ゆっくりと頷く。


「付き合ったからこそ、余計に思った。結とは男女の仲になれないって。それに俺は──結を彼女として扱えない」


 最悪な告白だ。

 気の良い櫂斗も、これで見限るだろう。


 これまで同じ町内会の同級生として仲良く3人でやってきたが、その絆に終止符を打ったのは犀佳の自己中心的な性だった。


 とうとう、独りぼっちになってしまうことに恐れがないかと言われたら嘘になる。


 ──だが、終止符を打ってしまった卑怯な己を許して欲しいとも犀佳は思わなかった。


 審判を待つ死刑囚の気持ちになって、櫂人から罵られるのを待つ。


 だが、一向に降ってこない罵声に、いつの間にか直視するのが怖くて閉じていた目を開ける。


 するとそこには、肌が焼けたせいだけとは思えないくらいに、真っ赤になっている櫂人がいた。


「犀佳、やっぱりお前は歳を重ねるごとに綺麗になっていくよな」


 怒り過ぎて、頬まで上気させている男の口から出たとは到底思えない言葉に、目を瞬いた。


「·····は?」

「俺さ、この世で一番綺麗な生き物は、犀佳だって思ってる」


 犀佳は、思わず絶句した。


 櫂人が言い出した言葉の意味が、本気で分からないからだ。


 今は中途半端に結を放り出した犀佳の非道徳ぶりを、咎めるための時間だったはずだ。


 それなのに、どうして──。


 頭の中を過ぎっていく大量の『何故』に振り回されながらも、心奥底からはその解答を聞きたくないと喚いている自分がいる。


 しかし、犀佳の複雑な心境を知るはずもない幼馴染は、無理やりにでも笑おうとしたらしく、くしゃりとした笑顔を浮かべた。


「犀佳が結と付き合うって聞いた時、やっぱり男と女が付き合うことが普通なんだって実感した。どんだけ犀佳が美人でも、女子と付き合うのが道理だよなって」


 彼氏彼女の関係は、異性同士だからこそ成り立つものだ。


 そんなのは父親と母親の間に生まれていることからして分かりきった事実であるのに、何故櫂斗は今更になって世の真理を再確認したのか。


 体の奥底で『聞くんじゃない!』と喚いている己の声が、どんどんと大きくなっていく。


「でも、2人がデートに行くって話を聞く度になんかモヤモヤして。あんなことやこんなことをもっとしたいって結から相談される度に、アイツを汚すようなことすんじゃねぇって思ったりして。そんな風に悶々としてたら、2人が別れたって聞いた。これは神様が与えてくれたチャンスだって思った」


 櫂斗の独白の終着点が、全く読めない。


 けれど、これ以上聞いてしまったら、お前の日常は粉々になってしまうぞともう1人の自分がSOSを飛ばしてくる。


 だが、犀佳には、櫂人のよく回る口を止める術が分からなかった。


 もう彼の話は、『起承転結』の『結』にまで及んでいるのにも関わらず。


 刹那、櫂斗の眼差しに強い光が宿った。


 長い助走を終えて、覚悟を決めたとばかりの眼差しは──校舎裏に呼び出したあの時の結とそっくりだった。


「俺、犀佳のことが好きだ!俺達男同士だけどよ、お前のこと絶対に幸せにするから。だから、俺と付き合って──ぐほぉぉっ!」


 櫂斗の話を全て聞き終わらないうちに、犀佳の右腕は無防備に晒されている幼馴染の腹の中に吸い込まれていた。


 唸る右拳が華麗に男の腹に沈んでいく光景を、犀佳はセピア色に染まっていく景色と共に眺める。


 カフェインを摂りすぎたのかもしれない。


 胃の中がムカムカしていて、キモチワルイ。


 強烈な一発を食らって地面に沈んだ櫂人を放って、犀佳は一目散に中庭を飛び出した。


 目も腹もグルグルと渦巻いているのを自覚しながら、脇目も振らずに靴箱へと向かっていた。



 ◇◆◇



 本日もクレオパトラは、犀佳の腕の檻に囚われていた。


 帰ってきた時には既に、長男の頬は涙で濡れていた。


 扉を開けるなり、覚束無い足取りで近付いてきた犀佳があまりにも哀れに思ったのか、クレオパトラは2日続けての抱っこを許した。


 昨日と同じように首元をしとどに濡らしてくる家族に嫌そうな目を向けるが、抵抗したりはしない。


 犀佳の唯一の安寧の場所は、クレオパトラの首元のみになっていた。


「しっかし、まさか櫂人君まで、サイちゃん狙いだとは思わなかったね〜」

「結ちゃんと櫂人君、どっちも手玉に取ってたなんて我が弟ながらよくやるわ。折角なら、幼馴染ハーレムを築いたら良かったのに」

「ちょっとケイちゃん、リンちゃん。流石にご近所さんでそういう爛れたことをしてもらっては困るわよ。そういうのは、ママ友グループに影響しない所でやってもらわないと」

「なんで、当然のようにそういうこと知ってんの!?」


 部屋の角っこで体操座りをしている犀佳から、渾身のツッコミが炸裂した。


 まだ事が起きてから三時間も経っていないの、とんでもない地獄耳ぶりである。


 犀佳の問いにして答えたのは、紅茶をゆっくりと味わっている長女だ。


「公園で黄昏ていた櫂斗君から聞いたの。『やっぱり、同性同士が駄目なんすかね』ってしょぼくれてたから、『性別の壁を敗因と思っているような器の小さいとこじゃない?』ってフォローしておいたわよ」

「余計なことをしないでくれる!?」


 どうして、この最悪なタイミングで櫂斗と出会ったのが、我が家のぶっ飛び母娘なのか。


 またさめざめと泣き始めた犀佳を視界の片隅に起きながら、柳村家の女達は優雅にお茶会を再会させた。


「でも、ママったら、ずっと『まあまあ!』って興奮してたくない〜?」

「やっぱり、ウチのサイちゃんは天下一って実感したんですもの。そろそろ国宝認定されても可笑しくないんじゃないかしら」

「チョーウケる」

「草」


 どうして、誰も彼もこんな悪魔の皮を被った三人に白状してしまうのだろう。


 もしかしたら、マインドコントロールめいたことをして操っているんじゃないかとさえ思えてくる。


「俺にはもう、友達がいない」


 言い聞かせるように吐いた言葉に、とうとう嗚咽が混じりが始める。


 そろそろ、ジメジメしすぎて茸が生えるんじゃないかってくらいの絶望に浸りだした弟に鯨佳がこてりと首を傾げる。


「別に、告白されたからって友達じゃなくなる訳ないんじゃないの〜。寧ろ、断ったから友達のままでいれるって言うか〜」

「あー、ケイちゃん。それはちょっと、どうにもならない事項なのよ。サイの奴、自分のことを顔でしか評価してない人は友達じゃないんですって」

「え?サイちゃんって、顔しか取り柄ないのに?」


 容赦のない次女の発言に、流石に誰かが否を唱えるかと思いきや──そんな優しさの持ち主はいなかったらしい。


 それどころか、実の母親は儘ままならないねとばかりに溜息を漏らした。


「リンちゃんとケイちゃんも条件は同じなのに、どうしてこの子は社会に溶け込むのが下手くそなのかしらねぇ」

「ママ〜?ウチのこと、顔しか取り柄がないって言ったー?」

「ケイちゃん、突っかからない。そもそも、ウチはパパ以外、顔しか取り柄ないから。はい、この話題終了」


 これ以上はやぶ蛇でしかないと察した麟佳が手を叩いたことで、顔についての議題は終了となった。


 まだ物言いたそうにしている鯨佳の視線を無視して、麟佳はその場から立ち上がるや、部屋の隅で悲嘆に暮れている長男へと近づく。


「サイちゃん」

「っう。な、なに?」


 真上から振ってくる麟佳の呼び掛けに、犀佳は泣き腫らして真っ赤になった目を向けた。


 これ以上、自分を追い詰めてくれるなと視線で威嚇するが、13年も暴君な姉貴をやってるだけあって、全く効いていない。


「お姉ちゃんさ、ちょっと考えてみるわ」

「かんが、えてみる?」

「そ!アンタ、多分このままこの辺にある公立高校に進学しても、ぜんっぜん幸せそうになれなさそうだもん」


 いつもは横柄な姉が、どうしてか自分のために力を尽くそうとしてくれるらしい。


 それが信じられなくて、皿のように目を丸くする。


 犀佳の無言の驚きに対して、麟佳はよく似ている相貌で悪戯っ子のように笑った。


「可愛い弟の顔がかかってるもの。こんな顔でも人生楽しく生きていけるって、リンちゃんが証明してあげるから、もうちょっとだけ中学生頑張りなさいって」



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