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柳村:木を隠すなら森の中(前編)

柳村の過去編です。

※柳村と女子生徒のキスシーンがあります。


 卒業式シーズンになったが、まだ桜の蕾も見えないような肌寒さの残る3月上旬のこと。


 例年よりも寒い春になりそうだと、マフラーを巻いたニュースキャスターが予報するくらい冷え込みの強い日に、柳村家では待望の長男が生まれた。


 神撫駅の近くに聳え立つ総合病院の個室。


 大柄な夫と可愛らしい2人の娘に囲まれた女性が、産着に包まれた我が子を抱いて幸せそうに微笑んでいた。


「男の子だから、流石に強い動物の名前を入れたいわね」


 アッシュグレーの背中まで掛かっている髪を一纏めにした女性は、産まれるまでの十ヶ月間、すっかり後回しにしていた息子の名前を今この場で決めようとしていた。


「強い動物か〜。水生生物よりは陸上生物の方が良いよね。これからは、パパと一緒に女性陣達を守っていかないといけないわけだし」


 柳村夫妻は、二人して動物好きだった。


 最初のデートが動物園、2回目のデートが水族館、告白の場所として用いられたデート先は、猫がいっぱいいる島だった程だ。


「じゃあ、やっぱり(さい)がいいんじゃないかしら!犀ってとっても屈強で、どっしりとしてて、渋いじゃない!!」

「それ最高だよ、ママ!」

「やだ、パパ。そんなに褒めないでよ〜」


 そして、この2人はお互いのいい加減さが噛み合う夫婦でもあった。


 妻は元看護師、夫は元大学附属病院の外科医であり、現在は開業医という高スペックな組み合わせにも関わらず、行き当たりばったりで物事を決める特性がある。


 そして案の定、彼女達のテキトーさは産まれたばかりの長男のみならず、娘達の名付けにも及んでいた。


「私は女の子なのに、麟佳(りんか)なんですけど」

「アタシも女の子なのに、鯨佳(けいか)なんですけどぉ〜」

麒麟(きりん)(くじら)もお目目がセクシーだから、二人にピッタリじゃない」


 心の底から自分の名付けセンスに疑問を抱いていないらしい母親に、傍に(はべ)る長女と次女が白い目を向けている。


 姉妹揃って美人な母親に似たらしく、まだ小学校に上がったばかりなのに、既に色香が漂っている美少女達だ。


 それなのに、名前が『麟佳』と『鯨佳』。


 響きだけは女の子らしいが、字面と画数が全くもって可愛らしくない。


「コラ、2人共。こんなに可愛い名前を付けてもらってるんだから、文句なんて言うもんじゃないよ」

「ママばっかりヒーキにするパパは黙ってて」

「そうだよ。シリに敷かれてるパパは隅っこに居て」

「本当にどんどん容赦ない所がママに似てきてて感激だよ」


 母親にゾッコンな父親を虫のように追い払った姉妹は、母親の腕の中で眠るしわくちゃで小さな生き物へと揃って目を向けた。


 目も開いていない、小猿みたいな弟。


 本当に自分たちと血が繋がっているのかと疑ってしまうくらいに不細工な顔をしているが、まぁ、父親の次に使えるような家族にはなって欲しい所だ。


「この子のこと、なんて呼んだらいいの〜?」


 新入りの家来を躾けるためには、まず名前を知らなければならない。


 長女である麟佳は、新しい下僕の名前を知ろうと無邪気な顔をして母親を見上げた。


「そうねぇ。サイア、サイカ、サイサ、サイタ····サイカにしましょうか。『カ』は2人と同じ人偏に圭の『佳』で」

「ああ、君に似た美人さんに育つようにと思って選んだ字だね」

「私はパパと違って、佳き日が続くようにって意味でつけたんだけどね。でも、即席で名付けたにしては良いんじゃないかしら?みんなお揃いだから、うちの子だって分かりやすいし」


 あ、また、面倒くさがってる──と、母親のやっつけ口調にこの場にいる誰もが思った。


 しかも、母親の腕の中の子は、待望の長男だったはずなのに。


 だが、腹の中から出てしまった今はもうどうでも良くなっているようで、餅のように丸い頬っぺたを突つきながら、「なんとなくだけど、この子が一番美人になりそう」と笑っている。


「こんな不細工が私に勝てるわけないじゃん!昨日だって、三人に告白されたし!」

「アタシはお兄さんにチョコを買ってもらった〜」

「······ん!?鯨佳、そのお兄さんって誰かな!?パパの知ってる人!?」

「分かんない〜」


 末娘の爆弾発言がトドメとなって、名付けに関する議論は有耶無耶になっていく。


 結局、誰もが『この子は男の子なんだよ』という良識あるツッコミを入れなかったばかりに、柳村家の長男は──姉たちとお揃いで、可憐な響きを持つ『犀佳』で登録されることになった。



 ◇◆◇



 すくすくと元気に成長した犀佳少年は、母親の預言通りに誰もが振り返ってしまうほどの美少年に成長した。


 一度(ひとたび)母親とハグれたら、見知らぬ壮年の女性に手を引かれて誘拐されそうになったり、


 保育園では瞬く間にして女児のハートを射抜きまくったことで、お隣に住む女の子からは『ユイのサイカだから!』と引っ張り回されて修羅場を引き起こされ、


 ショッピングモールがある繁華街を歩けば、子役にならないかとスクラッチバッグを抱えた怪しいサングラス姿の男に声をかけられる。


 果てには少女と間違えたロリコンに、物陰に引きずり込まれそうになったこともあった。


 まさに『犀佳も歩けば、変質者に当たる』という入れ食い状態に、流石の能天気な母親も変態のことについては胸を痛めたようで、外出の際には決して手を離さなくなった。


 父親も呼応するように「サイちゃんは僕がちゃんと守るから」と、外科医として人体を切断することもある剛腕を折り曲げる。


 しかし、何かと彼をパシリに使う二人の姉だけは、「アンタより、アタシ達の方がだんっぜん可愛いんだから!」と対抗意識を燃やすばかりだった。


 最愛の弟に降りかかる災難などこれっぽちも興味がないどころか、むしろ『チヤホヤされて生意気』と思っている節すらある。


 外出中は周囲に対して両親が気を張っている様子や、幼い姉たちによる容姿ジャッジを受け続けることになった犀佳は、少しずつ自分の見た目が普通じゃないことを本能的に理解していった。


 そんな犀佳少年も小学校へと上がり、社会のスタート地点に立つことになる。


 幼稚園の延長線にある低学年を過ぎると、いよいよ最初の思春期に突入する高学年になるわけだが──彼の場合は美少年すぎるが(ゆえ)に、通常の思春期とは質が違った。


 先ず、クラスの女子は皆、犀佳に初恋を奪われているライバルを超えた同士達だった。


 よって、犀佳が違うクラスの生徒や年下の子に呼び出されたと知れば、直ぐにすっ飛んでくるような厄介後方腕組彼女軍団に仕上がってしまっていた。


 では、同性の男子なら大丈夫だろうと思いたくなるだろうが、それも残念なことに当てはまらない。


 クラスの男子は皆、登下校中に不審者に絡まれやすい犀佳に対して、男心なのか兄貴心なのか分からない心情を拗らせており、全員が騎士のように振舞ってくるのだ。


 犀佳がチヤホヤされることで満たされる性質だったなら、どんなに幸せだっただろう。


 だが、そこは神様の意地悪というべきか。


 残念ながら、彼は皆と一緒に泥にまみれて鬼ごっこをしたがるような、ごく一般的な感性を持つ小学生だった。


 机に溢れかえるバレンタインのチョコも、余った給食のおかずをねだれば全員がにこやかに譲ってくれるような真綿の優しさも、今の彼には必要ない。


 一人の少年として、誰かと競い、喧嘩し、遠慮なく肩を組み合えるような──そんな『対等な友達』が欲しかった。


「サンタさんに、何を頼もっか?」


 そう微笑む母親に対し、『遠慮なく遊んでくれる友達』とモジモジしながら告げた犀佳に、両親は揃って顔を覆った。


 不憫な息子を憐れみつつも、どこかその健気さを可愛いと愛でてしまう親バカな彼らの口元は、締まりなく緩んでいる。


 そんな病的な両親を、高校生になった姉たちは白けた目で眺めていた。




 だが、サンタさんや神社にいる神様に頼んでも一向に訪れる気配の無い『対等な友達』に、とうとう痺れを切らした。


 天に任せていても、欲しいものはやって来ない。


 そう察した彼は、ついに、ある決断を下したのだ。


 商店街の一角にある、父親行きつけの床屋は軒下で、赤・青・白のバーバーポールがクルクルと回っている昔ながらのお店だった。


 開店早々、お年玉を握りしめて現れた犀佳に、シザーエプロンからはみ出すほどに立派な太鼓腹を抱えた店長は目を丸くした。


「この髪を全部剃って、坊主にしてください」

「は!?」


 まだ小学生らしいサラサラとしたアッシュグレーを全て剃ってくれと頼み込んでくる常連の息子に対して、店長は()頓狂(とんきょう)な声を上げた。


 一掬(ひとすく)いせずとも、絹のようだと分かる柔らかな髪。


 そして鏡の向こうで、深刻な表情すら雑誌の一場面のように映し出す美少年の(かお)を、店長は信じられないものを見るように交互に見やる。


 戸惑う店長の様子を察した犀佳は、引き結んでいた口元をゆっくりと開けた。


「もう少ししたら、野球クラブに入るんです。パパ──お父さんが、野球をして力をつけたらどうだろうって」

「そ、そうなんだ。でも、今の子は坊主にしないって、この前に来た監督がボヤいてたような······」

「だから、俺は坊主にしようって。良い選手になりたいから」


 そこまで言い切る少年の眼差しを前に、大人が何を躊躇(ためら)う必要があるだろうか。


 この美しい髪を失うことを惜しんで引き止めるなど、床屋失格だ。


「分かった。良い選手になるんだよ」


 店長は腹を決めて、バリカンを取りに踵を返した。



 ◇◆◇



「サイちゃんの頭が、ツルツルになってる!!?」


 髪を全て剃った犀佳を出迎えた母親は、その場で崩れ落ちた。


 一方で、ソファで自堕落に再放送ドラマを視聴中だった2人の姉は、最高のエンタメショーを見たと言わんばかりにお腹を抱えて笑い転げている。


「アハッ!やばっ!!ちょーウケるんですけど!?」

「サイちゃん、虐められてるの〜?お姉ちゃん達が守ってあげよっか〜?」

「これは俺がやりたくてやったことだから!!」


 母と姉達から指を突きつけられた犀佳は、己のイメチェンが功を奏したのだと実感した。


 これなら、クラスの連中も自分がキレイじゃなくなったと知って、普通のクラスメイトみたいに接してくれることだろう。


 中には姉のように弄ってくるような連中も出てくるだろうが、腫れ物のように触れられるよりかは、ずっとマシだ。


 やっと、自分の悲願が達成されると信じて疑わなかった犀佳は、その日は全く眠りにつけなかった。


 朝になり、いつも頼んでもいないのに迎えにやってくる幼馴染が玄関のチャイムを鳴らす音を聞いて、ランドセルを背負う。


 玄関の前までにやってくると、シューズボックスに嵌め込まれた姿見には、坊主頭の目の下に隈が出来た少年が映っていた。


 綺麗な形をした丸い頭と、輪郭を遮る髪が無くなったことで、より造形の美しさが際立ってしまっているのだが──犀佳は見慣れない自分の違和感に、これで不格好になったと本気で思い込んでしまっている。


 このイメチェンが新しい生活を連れてきてくれると確信した犀佳は、足取り軽く玄関を開いた。


 眩い朝日の日差しが視界に差してくるのと同時に、犀佳を待っていた幼馴染が、今日もおはようと笑顔を見せようとしたところで──見る見る間に目が見開いていく。


 幼馴染の表情の変化を目の当たりにした犀佳は、嬉しそうに微笑んだ。


 同じく『おはよう』を口にしようとした矢先、彼女の青ざめた叫び声が町内会に響き渡る。


「さ、サイが禿げちゃったーーーーーー!!?」




 結論から申すと、犀佳のイメチェン事変が上手くいったのは、幼馴染の絶叫までだった。


 というのも、犀佳の坊主頭のことを幼いクラスメイトの多くが、幼馴染のように禿げてしまったと思い込んでしまったからだ。


「いや、これは髪が邪魔だったから剃っただけで」

「嘘よ!柳村君は変な子とか変な人に追いかけ回されているから、それが嫌になって髪がなくなっちゃったんだわ!!」

「違うよ、よく見て。禿げてる高山先生は丸見えの肌って感じだけど、俺のは毛根が見えてるでしょう?だから、毛が抜けた訳じゃないんだ」

「ってことはよ、誰かが嫌がらせで柳村の毛を剃ったってことか!?」

「剃られてないよ!俺がこの髪型にして欲しくて、床屋さんにお願いしたんだ」

「「嘘だ~〜〜!!」」


 何故か、取り囲むクラスメイト達に、己が望んで髪を切ったとは信じて貰えない。


 それどころか、不可解なことに、犀佳が坊主になった事実は『自分たちが守りきれなかったから、追い詰められたのだ』というクラス全体の集団懺悔へと発展してしまった。


 しかも、六時間目の学級会では『柳村君の髪を守ろう』という、大変に遺憾な議題まで設けられる始末。


 大真面目な顔をして、犀佳の身を守るための案を出していくクラスメイト達に囲まれながら、柳村少年は思った。


 もう二度と、周りに溶け込みたいと贅沢な願いは抱かないと。



 ◇◆◇



 結局、男子同士のプロレスごっこに一度も参加することなく、後方腕組彼女軍団の手によって彼女も出来ず、休日は家族か幼馴染としか出かける用事のなかった犀佳も、とうとう中学生になった。


 犀佳が通っていた小学校を含めて、あと2つの小学校からの持ち上がりの子達が通うことになる中学校は新しいコミュニティを作るチャンス──などと息巻き、期待することはしない。


 六年間の小学校時代で美少年としてのレッテルを剥がすことに苦心したにも関わらず、叶えることができなかった彼は、すっかり心が達観してしまっていた。


 掲げている目標は『平穏無事』。


 慎ましく生きて、それなりの成績を取り、幼馴染の櫂人と中学時代をやり過ごす。


 新中学生が抱くには、枯れすぎた希望だった。


「犀佳〜!おっすおっす」

「遅いよ、櫂人」

「ごめん。昨日配られた部活のパンフに夢中になっちゃってさぁ。気づいたら2時だったわ」


 学ランを来た茶髪の少年──櫂人が曲がり角から顔を出す。


 彼の家は犀佳や、もう一人の幼馴染の家がある一丁目ではなく、右隣にある二丁目にあるのだ。


「サイー!カイトー!アンタ達、小学校の時はギリギリまで寝てたクセに、なんでこんなに早起きなのよ」


 部活のパンフレットをポケットから出してきた櫂人と一緒になって覗き込んでいると、背後から聞き慣れた女子の声が飛んできた。


 朝から騒がしいもう一人の幼馴染の声に揃って振り返ると、そこには新しいセーラー服を纏った結が駆け寄ってくる姿が見えた。


 結が二人の隣に並ぶなり、櫂斗は「だってさ」とまだ眠たそうな半目のまま口を尖らせる。


「中学校は小学校より1kmも先にあるんだぞ。寝坊して間に合わなかったらヤバいじゃんか」

「そういう感じ。でも、結は俺達と違ってもうちょっと大変かも。小学校の時のポニーテールと違って、髪を巻くことにしたんだ」

「そうなの!やっぱり、サイは気づいてくれた!櫂人、

 こういう所を見習いなさいよ〜」

「女ってのは、なんか大変だな」


 他人事そうな櫂人に、結が青筋をたてながら肘打ち(エルボ)をかました。


 まだ頭が寝ぼけている櫂人はまともにお腹に食らってしまったようで、「いってぇー!」と痛みにのたうち回っている。


 痛みに手をピクピクとさせている櫂人から、犀佳はあっという間にパンフレットを奪い取った。


 負傷を負った幼馴染の心配は欠片もしていないようで、淡々とページを捲っていく。


 様々な部活動について書かれているそれは、部員である中学生が手書きで概要を書き込んでいるため、必要最低限の情報しか書かれていない。


 恐らく顧問達が申し訳程度に添付しただろう写真達だけが、興味を引かれるポイントになっていた。


「サイは何の部活に入るの?」


 櫂斗を成敗した結が、横から覗き込んでくる。


 きっと母親と一緒に騒ぎながら巻いたのだろう鎖骨まで伸ばされた髪が、犀佳の視界を掠めた。


「まだ悩み中かな。結はどうするの?」

「私はバレー部!ウチの中学校、そこそこ強いらしいから今から楽しみなんだ」

「マジでいってぇ·····相変わらずのゴリラっぷり。犀佳はダンス部とかがいいんじゃないか?麟佳ちゃん達と一緒にダンススクールに通ってるんだろ」

「部活まではしないかな。通ってるっていっても、(ほとん)どリンちゃんとケイちゃんの付き添いだしね」

「良いなぁ、美人のお姉ちゃんたち。俺もあんなボッキュンボンのお姉様が欲しかった」


 なお、麟佳と鯨佳の二人は大学生になったことをキッカケに、ダンススクールには月に1回程度に通っている具合だ。


 律儀に週一のレッスンに通っているのは、姉の付属物だった犀佳のみである。


 一気に自由度が上がったキャンパスライフに2人は私生活を忙しくさせているようで、最近は家に帰ってこないことが増えてきていた。


 お泊まり回数が増えた彼女達に母親は、『デキ婚ってウエディングドレスが綺麗に着られないのよね〜』と不吉なことをボヤいていたことが記憶に新しい。


 犀佳は幼馴染2人の激しい漫才を聞きつつ、手持ち無沙汰にまたパンフレットを捲っていく。


 そして──弓を(つが)えた袴姿の先輩達の写真に目を留めた。


 部活動のタイトルには、『弓道部』とある。


(弓道部か·····)


 何故か、その写真から目が離れなかった。



 ◇◆◇



 いよいよ始まった中学校生活でも、犀佳少年の顔面は猛威をふるった。


 まず初めに、合併先の顔も知らなかったクラスメイトの女子たちをファーストインプレッションで落とした。


 小学校が違うために犀佳への耐性がついてなかった女子達が瞬く間に魅了されていく光景に、同じ小学校出身のクラスメイト達が何故か誇らしげに眺めているのが不思議だ。


 また、犀佳が惹き付けたのは小学校の時同様、クラスメイト達だけではなかった。


『とんでもないイケメンが入学してきた!』と噂を聞きつけてきた先輩達や他のクラスの同級生達から、廊下に面している窓越しに覗きこまれ、上野動物園のパンダのようにはしゃがられる。


 これが檻の中から見える景色かと、いよいよ菩薩のような微笑みを浮かべ始めた犀佳に、今度こそ同じクラスになった櫂人はドンマイとサムズアップした。


「相変わらず、イケメンは大変だよなぁ」

「俺なんて、ただの根暗なのにね」

「そういうのが良いんじゃね?根暗っつーか、奥ゆかしいって感じで」


 話を振ってきたた割には、犀佳のパンダ状態には興味がないらしく、櫂斗はテキトーな返事ばかりを返してきた。


 それどころか、「ってか、野球部のユニフォームとスパイクがまあまあ高ぇんだけど、母ちゃん買ってくれるかなぁ」と、櫂斗はすぐに別の話題に話を切り替えてきた。


 その他人事さが気に触ったので、給食のデザートで出てくるゼリーを薄情者に押し付けてやることにした。



 ◇◆◇



 相変わらず、クラスの内外で息つく暇もない日々だったが、犀佳は苦節十三年目にして、ようやく『安寧の場所』を入手した。


 放課後──彼が向かったのは、鋭い弦音と、的に矢が突き刺さる乾いた音が響く弓道場だ。


 学ランから道着へと着替え、入念なストレッチを済ませた犀佳は、すっかり相棒となった弓を手にする。


 的の近くで談笑する上級生たちに軽く会釈をし、空いている射座(しゃざ)に陣取った。


 弓を正面に構え、ゆっくりと、だが力強く弦を引く。


「柳村君。ゴム弓との違いはどうかしら」


 弓道場の奥から、腰まである髪を一纏めにした少女が声を掛けてきた。


 彼女は他の新入生の姿勢を矯正しながらも、射座にいる柳村を気にかけていたらしい。


「部長、お疲れ様です。ゴム弓よりもずっと重くて······まだ重心が安定しません」

「そう。でも、心配ないわ。すぐにその重さにも慣れる。真面目な貴方なら、すぐに物にするでしょうね」

「ありがとうございます」


 彼女──弓道部の部長は柳村の返事に満足な笑みを浮かべると、すぐに目の前にいるゴム弓を番える同期へと向き直った。


 弓道部の部長は厳格な人だったが、同時に、他人の容姿に一切の興味を持たない人でもあった。


 彼女が人を測る物差しは、ただ一点。


 真摯に弓と向き合っているか、のみだ。


 そんな彼女を慕って集まる部員たちも、犀佳の容姿に対しては至って寛容だった。


 犀佳が入部したことで例年の1.5倍の新入生が集まり、部費が潤沢に徴収できたと事務的に喜んでくれる程度には、彼を一人の部員として扱ってくれた。


 犀佳は、ただ的とだけ向き合うこの瞬間が、何よりも好きだった。


 誰の視線も、誰の機嫌も伺わなくていい。


 只管(ひたすら)に、目の前の的に全神経を注ぐ。


 世界に自分だけが取り残されたようなその静謐な感覚に、犀佳はすっかり夢中になっていた。


 部活がある日もない日も弓道場に通っているものだから、幼馴染の2人は『すっかり付き合いが悪くなってしまって』と呆れ顔を浮かべる。


 それでも、ここまで一つのことにのめりこむ犀佳が珍しいと、見守ってくれる2人の友情に感謝していたある日のこと。


 その日も部活がない日ではあったが、やはり犀佳は練習をするために弓道場にやってきていた。


 すっかり様になってきた姿勢のお陰で、重心が定まってきた。


 順当に重く、長い弓を扱えるようになったと喜びつつ、日課の弓引きをしていると、背後から声が掛けられる。


「今日も精が出るわね」


 声を掛けてきたのは、部長だった。


 犀佳よりも先に来て練習をしていたらしい彼女も、弓道着を纏っている。


 腰まで届く長いポニーテールが、湿気を孕んだ風に吹かれてさらりと揺れた。


 生徒会長を打診されたものの、受験勉強と弓道の邪魔になると断ったことがあるらしい彼女は、才女としても有名だ。


 だが、今は弓を引いている時とは違う柔らかな雰囲気を纏っている。


 ふんわりと浮かべられている微笑みに、犀佳は一瞬だけ毒気を抜かれた。


 麗しの部長の両手には、結露で濡れた2本のペットボトルが握られている。


「ちょっとお茶にしない?」

「スポドリなのに?」

「ふふ。スポドリでもよ」


 スポーツドリンクのペットボトルを見た時から予感はしていたが、まさか部長が入ってきたばかりの一年生を休憩に誘ってくるとは思わず、犀佳は一瞬呆気にとられたような顔になる。


 しかし、部長の誘いを断ることなど出来るはずもなく、犀佳は慌てて弓を弓立に戻して、後ろに設置されているベンチへと向かった。


 急いでベンチへと戻ると、既にそこには部長が腰掛けて待っていた。


 駆け寄ってくる新入生を微笑ましげに眺めている彼女は、隣に犀佳が腰を落とすなり、右手に持っていたスポーツドリンクを差し出してくる。


「はい、頑張り屋な新人君にご褒美の一本」

「ありがとうございます」


 会釈して受け取ったペットボトルの蓋に手をかけ、一気に回す。


 ぷしゅりと鳴って開いた飲み口に、すぐに口をつけた。


 甘い液体が流れ込んできたのを舌に感じるなり、一気に三分の一も飲み干してしまう。


 思ったよりも、体が水分を求めていたようだ。


「貴方がいたら、(しばら)くの間は安泰ね」


 喉を鳴らして仰ぎ飲んでいる犀佳の隣から、くすくすと鈴を転がしたような笑い声が聞こえてくる。


「まだ練習試合にも、二回しか参加してませんけど」


 とんでもない過剰評価を受けていると、犀佳は反論する。


 やっとよろけずに弦を引けるようになったばかりの新入生に掛ける言葉じゃないと視線で告げてくる後輩に、部長は更にコロコロと笑った。


「大丈夫よ。きっと貴方は良い弓士になるわ。だって、あんなにも真摯に向き合ってる子、強豪校でもそんなに居ないわよ」


 刹那、ぱらぱらと雨が降ってきた。


 トタン屋根の上を雨粒が弾く音がする。


 的が刺さっている射場の向こうには屋根がなく、細い線が地面に降り注いでいた。


 しかし、突如降ってきた小雨が気にならないくらい、真正面からぶつけてくる先輩の眼差しの強さに犀佳はタジタジになる。


 ──こんなにも真っ直ぐに自分を見つめてくる異性など、これまでに母や姉以外には居なかったから。


「あら、柳村君。目の下に睫毛がついてるわよ」

「え?」


 理解が追いつく前に、視界が部長の顔で占拠された。


 下瞼のすぐ下に、彼女の指が触れる。


 弦を握り込んでいるせいで少しだけカサついた、けれど驚くほど熱い指先。


 互いの睫毛が絡み合うのではないかというほどの至近距離に息を飲む。


 彼女の指先から熱が伝わったのか、顔全体が熱い。


 形容しがたい雰囲気と体内で籠る熱に耐えられなくなった犀佳は、ギュッと強く瞼を閉じきった。


 雨音に混じって、耳の奥でドクドクと心臓が暴れ回っている音が聞こえてくる。


 口元を引き結び、必死に硬直している初心な後輩に、部長は笑い混じりの吐息をこぼした。


「思ったよりも、ウブなのね」

「·····悪かったですね。何にも経験がなくて──」


 むず痒い空気を振り払おうと憎まれ口を叩いた刹那、柔らかな何かが重なり、言葉の続きを奪い去った。


 瞬く間に、頭の中が真っ白に染まっていく。


 一拍置いて我に返った犀佳が慌てて目を開くと、そこには満足げに微笑む部長の姿があった。


「じゃあ、今ので経験値が一つ上がったわね」


 先程の出来事を問いただそうと犀佳が口を開くも、彼女は制するようにふんわりとした笑顔を浮かべた。


 その笑顔を見るなり、どうにも開きかけていた口元から声が一つも出てこない。


 彼女は半分以上残ったスポーツドリンクを手に、軽やかに立ち上がる。


「お疲れ様。明日の練習に響かない程度に切り上げなさいね」


 先程の出来事は、白昼夢だったのかもしれない。


 すっかり普段通りになった部長は、ヒラヒラとペットボトルを持っている方の手を振って去っていく。


 少しずつ雨足が強くなっている道場の更衣室へと向かっていく部長の背中では、ゆらゆらとポニーテールが揺れていた。


 右へ左へと振り子のように揺れる真っ直ぐに伸びた黒髪が背中で遊んでいる様子を見送りながら、犀佳は自らの唇へ指を伸ばす。


 確かめるように触れた感触は、先程の熱を帯びた柔らかさとは、似ても似つかなかった。


 

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