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36 海へ(1)

市は、ユーグと別れると早歩きから小走りに。小走りから、最終的には本気で走っていた。


海賊の子供を早く、あの暗い牢屋から出してあげたい。そう思うと足が止まらなくなった。


なので、子供が収容されている牢屋の前に着いた時は、両膝に手をついて、顔も上げられずゼーハーゼーハーと喉を鳴らして動けなかった。


そんな市を子供は一体何が起こるのか、不安な顔つきで見つめていた。汗だくの女が息を切らしてハーハー言いながら、笑っている。小さい子供には恐怖だっただろう。


入り口で立っていた看守から、説明の上、鍵をもぎ取った市は、息を切らしながら開ける。


「ゼー...ハー...家に帰りましょう」


市が微笑みながら手を伸ばすと、子供は恐れながらも小さな手でギュッと掴んでくれた。


「よし、よい子じゃ」


牢屋から出すとそのまま子供を抱き上げた。抱えたまま外に出ると、子供は嬉しそうに尻尾を振る。


牢屋に長く居たので、随分体が汚れている。


「そなた、先ずお風呂に入らんといかんようじゃ」


「お風呂に入んなくても、海に飛び込んだら綺麗になるよ」


(おっ。喋った)

「なんじゃ? お風呂は嫌いかの?」


「・・うん」


「嫌いでも入らんと、肌の病気になってしまう故、我慢じゃ」


市がそう言って風呂場に入ろうとすると、侍女達が遠巻きで見ているだけで、誰も世話しようとは来ない。


ここで、侍女といざこざを起こすと、辛い目をするのは子供だと思い、自分でさっさと用意した。


頭を洗ってあげて、タオルでワシワシ拭くとふわふわの髪に耳がピンと立って、とても可愛いかった。


侍女には前以て2人分の用意するよう言っておいたのだが、食事は1人分しか運ばれて来なかった。

(うちのマリーなら子供相手にこんな真似はしないのに、何と心狭き者共よ)

市は後ろに立っている侍女達を一瞥したが、すぐに男の子の方を向いた。


「おぉ、そうじゃッた。私はお腹がいっぱいゆえ、これはそなたのご飯じゃ。一杯食べなさい」


子供が心配そうに見るので市はそう言って横に座って話をした。


「のぅ。そろそろ名前を教えてくれぬか?」


子供は、口に持っていこうとしていたスプーンを皿に戻し、後ろで立っている侍女をチロッと見た。


そして、首を振る。侍女を警戒し

、話を聞かれたくないようだった


「分かりました。では船に乗ったら教えてくれますか?」


コクリと頷く。


「ふふふ。明日が楽しみじゃ」

市は、食べ始めた子供の頭を撫でる。

ベッドも布団も、子供の分は用意されなかったので、子供と一緒に眠った。


(幼子と眠るとはこのように楽しき事であったのう)


久しぶりに感じる温かい、小さな寝息。市は娘達を思い出しながら眠りに付いた。





朝が早い為、子供は眠ったまま起きない。

仕方ないので市は子供を背負って、待ち合わせ場所まで歩いていた。


(背中が温かい。心地よい重さが何とも言えぬ)

市が、少しあやす様に揺らしながら歩く。


遠くでそれを見たユーグは、どうやら市がふらついていると思ったみたいで走って来た。


「市様、一人で来られたのですか?」


「王宮の者達の、この子に対する態度に腹が立って・・・こちらも意地でこうなってしもうた」

市は、自分の負けん気の強さに苦笑いした。


「でも、もう一人雇われた方は、どうされたのでしょう? 遅れているのでしょうか?」

ユーグは辺りを見回す。


「何を言うておる? 3人で行くのであろう?」


「えっ? それでは見張りは?」


「私がします。大丈夫と言うたでしょう」

慌てるユーグを他所(よそ)に、見送りに来ていたホセに市は礼を述べた。

子供は大人の声が、騒がしかったのか起きて、市の背中からおずおずと下りる。

そして、市と子供はさっさと船に乗り込んだ。


「市様、このままでは・・」

ユーグは船に乗り込む事も出来ずに困惑している。


「ユーグ、子供が寝惚けて変なボタンを押したら、変な音が鳴り出してしもうた」


「えー! ちょっとお待ちください」

急いで乗り込むと船内は静かで、何の音もしていない。


ユーグが振り向くと、子供は心配そうに市の後ろに隠れている。市はにんまりといたずら小僧の顔で笑っている。


「嘘を付きましたね」

ギロッと怖い顔で市を見る。


「ユーグが見張りの事で、船に乗らぬので、仕方なく付いた嘘で・・私も見張り位できる故、出航しましょう。嘘は本当にすまなかった」


市がしゅんとする姿に、ユーグは怒るのも忘れてすぐに許してしまう。


「言うたであろう。ユーグは優しい故、少し位の事なら怒らぬ」


悪気もなくそんな事を言う市に、ユーグは呆れたが、同時に笑ってしまった自分に、負けたなと諦めた。


見送りに来てくれたホセと整備士の人達に手を振って、カピス島に向けて出発した。


ホセが教えてくれた通り、良い風が吹いて快調に船が進んでいる。

「ユーグは船を動かすのが好きなのですねぇ。とても嬉しそうです」


「そうですね。好きが高じてシェルドナールに小さなヨットを持っています」


そう言ってユーグは、久しぶりの潮風を気持ち良さそう受けながら、操舵輪を片手にもう一方の手で長い髪を押さえている。


市がユーグの隣に座って、ユーグの髪を触った。

「市様?」


「動いては結べぬ。じっとして下され」


市が付けていた紐で、ユーグの長い髪を束ねる。

ユーグの顔が赤くなっている事に気付かず、市は風になびく髪を束ねていた。


「よし、出来た。これで髪が邪魔にならぬであろう?」


上手くユーグの髪を結えた事に満足した市が、ユーグの赤い顔を見て、何も言わずキャビンに下りて行った。


(顔が火照っている。赤くなった顔を見て何か思われたのか・・・?)

焦るユーグの元に市はすぐに戻ってきた。


「太陽の下で、座っていたら暑かったのぅ。気が付かなくてすまぬ」

市は心配そうに、冷たい飲み物をユーグに手渡した。


「・・? アッ あぁありがとうございます」

暑くなかったが、市の勘違いがありがたかった。

冷たい飲み物のお陰で、狼狽えていた頭もスッキリした。


そこに、子供が市とユーグの間に割って入った。

「ねぇ、僕も飲み物欲しい」


市が子供の頭をくしゃくしゃと撫でて、これでもかと言う位に甘い顔で微笑む。

「そなたもか? ふふ持って来る故、そこにじっとしておるのじゃぞ」


市は、母の様な全てを包み込む慈愛に満ちた微笑みを見せた。

その顔を見つめるユーグの横っ腹を子供が突つく。


「おじさんは市姉ちゃんが好きなの?」


「ああ、好きだな」

答えた後、我に返ったユーグ。

「いや、今の好きは違う」


子供は慌てるユーグを、半ば探る様に矢継ぎ早に質問をする。

「姫様だから?」

「好きって言えないの?」

「俺の父ちゃんと結婚してもらえないかな?」


「うん? お前の父ちゃん?」


「優しいから、俺の母ちゃんになってもらおうって思ったけど、騎士の兄ちゃんが、好きって言うなら父ちゃんに勝ち目ないもん」


「冷たい飲み物を持ってきましたよ」


子供は今まで話していた事も忘れ、市から受け取った瓶を勢いよく傾け、ごくごく飲む。


「のう。そろそろ、そなたを名前で呼びたいのじゃが、教えてくれるかの?」


子供は飲みながら、市を見ながらコクと頷く。


「ぷはー。ナギィ」


「名前を、ナギィと言うのか?」


「魔王様のお友達が、付けてくれたんだって」


「ナギィか。良い名じゃ。魔王様も、お友達も良い方なのだろうのう。そうそう、ナギィの父君が居られる島を教えてくれぬか?」


本題をさらっと聞いた市だったが、ナギィは子供と思えない程、用心深く、しっかりしていた。


「市姉ちゃんは信じてる。でもこっちのお兄ちゃんがまだわかんないから、カピス島に着いたら教えてあげる」


ユーグは不服そうに肩を上げた。


900キロ離れたカピス島に1日で付く筈もないので、今日はお薦めの島に上陸する予定である。


市が点在する島や、空、海を満喫していると、水の流れる音がした。

市がガタッと立ち上がる。

海を注意深く見る。


「市様、どうされました?」

ユーグが市の異変に気付く。


「ユーグ、真っ直ぐ進むと危険だ! 一番近い島に一旦上陸した方が良い」


ユーグは、急に言われて訳が分からなかった。


しかし、市の体の回りに、羽衣の様に揺れる水の流れが見え、市にしか分からない何かが起こるのだと確信した。


急ぎ近くの島に船を付け、高台まで登って様子を見ていた。


暫くすると、海の底から沢山の泡が広範囲に吹き出した。

この泡の中に船があると、船はなす術もなく沈没してしまう。


海底にあったメタンハイドレートが何らかの理由によって、気体となり一気に地上に泡となって湧き上がってきたようだ。


「市様、よく分かりましたね! 真っ直ぐに進んでいたら、大変な事になってましたよ」


ユーグは目の前の光景に、眉をひそめて見ている。


「父ちゃんの友達も、あの悪魔の泡に連れ去られたんだ。市姉ちゃん何で分かったの?」


ナギィも、恐ろしそうに海を見つめながら市に聞く。


「うーん。よく分からぬが、水の音と流れが見えたのです」


(市様が水の龍を呼んだ事は聞いていたが、その事と関係があるのではないだろうか?)


ユーグは先程の事や、市の回りで起きたことを、考えていた。

(市様の力を隠さないと、争奪戦になり、この方の自由は奪われる)


市の軍師としての力を取り込みたいと狙っているリベルに、更にこの力を知られたら、奴は絶対に放さないだろう。


「市様、その力の事はシェルドナールにお帰りになるまで、絶対に秘密にしておいて下さい。ナギィも誰にも言わないで下さい」


2人は素直に頷いた。


その日、自然の恐ろしさを目の当たりにした2人が、怖がってしまい、今日は上陸した島に船を付け、キャビンで、寝る事になった。


ユーグが一人で夜通し見張ると言い出した為、一悶着あったが、市がユーグの意見を捩じ伏せた。


ずっと操舵していたユーグを先に寝かせて、市が先に見張りをする事になった。ユーグが先に見張りをすると、市を起こさないだろうと思ったからだ。


市も起きる自信がないので、ここは譲れなかった。


ユーグが市を心配し過ぎて、半身を起こして、見張りの市を見張っていると言う本末転倒な行為をする。


「ユーグが目を閉じて眠りにつくまで、私はここにいます」


市はユーグのベッドの横にドンと座った。


「あのー、これでは余計に眠れないんですが」


市は口に指を当てて、「しー」のポーズをする


ユーグは仕方なく目を閉じる。

が、気になって目を開けてしまう。

その度、市が「寝なさい」と小声で促す。


(こんなの地獄じゃないですかー。心臓が持たない。はー・・辛い)

ユーグが心の中を懸命に「無」にしようとするが、市の匂いが鼻腔を(くすぐ)る。


しかし、今日の疲れが眠りに近付けた。

船の操作と海賊が出るかも知れない緊張と、市が常に身近にいると言う張り詰めていた気持ちが、神経を消耗させていたのか、いつの間にか深く眠っていた。


「やっと寝たのぅ」


ユーグの傍を離れて、市はスターンデッキに出て腰掛けた。


真っ黒な海を見ていると、何か恐ろしい物が、出てきそうで怖くなる。

怖いのに、覗き込みたくなるその矛盾から逃れる為に空を見た。


星空が絵画の様に広がり、見つめていると、大空からも途轍もない物が、ふりかかって来そうに思えた。


海と空に、包まれるとこんなに心細くなるのかと押し潰されそうになった。










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