第九十九話
葵に抱き寄せられて泣いてしまった男の子。
暫く泣いて、スッキリしたのか。
おずおずと葵の服から、目元が赤くなった顔を上げた。
「……あの……見ず知らずの女性に、失礼しました……」
葵が声を掛けた時よりも、棘がなくなった男の子の声音。
少しだけ表情も柔らかくなっていた。
「見ず知らず……あ、名乗りもしないで、ごめんなさい。
私は、犬飼くんと同じ会社に勤めている立花 葵と言います。」
泣き止んで良かったと、心の中で思いながら葵はペコリと頭を下げた。
「僕は……犬飼 律です。」
葵に習うように、律も頭を下げる。
「えっと……犬飼くんと呼べば良いかしら……?
でも、叔父さんの方の犬飼くんと混ざっちゃいそうね……」
人前では彰良のことを苗字で呼ぶ約束を、未だに素直に守り続けている葵。
同じ苗字だから二人が揃うとわかんなくなりそう等と考えていた。
「あの!
お嫌でなければ……律、と名前で呼んでほしいです……!」
「え……君は、会ったばかりの私に名前を呼ばれるなんて、嫌じゃない……」
「嫌なんて思いません!
それに、僕を苗字で呼ぶと叔父と混ざっちゃいますから。
叔父と僕が揃った時に、困っちゃうかなって……」
「そうだね……犬飼くんって呼んだら、二人で振り向いちゃってビックリしちゃうね」
甥(律)と叔父(彰良)がいっしょに振り返る姿を想像して、可愛いと口元を綻ばせる。
「……っ」
葵の微笑みに頬を染め、勇気を振り絞るように律が口を開く。
「それに……!
僕も……立花さんのことをお名前で……その、葵さんとお呼びしても、良いですか……?」
上目遣いで甘えるように、葵へと擦り寄る律。
「私は、構わないけれど……?」
「ありがとうございます!」
葵の答えに、律は太陽のように明るい笑顔を浮かべた。
「……律、くん?」
「はい! 葵さん!」
律の笑顔に誘われるように、名前を呼んでみれば……更に、満面の笑顔になる律。
「あの、一応お聞きしたいのですが……葵さんは、本当に叔父とは先輩と後輩だけの間柄ですか?」
「え……どうして、そう思うのかな?」
鋭い律の問い掛けに、ちょっとだけ葵は目が泳いでしまう。
「あの叔父が、ただの先輩と後輩だけの間柄の女性にマフラーを貸すとは思えません。」
きっぱりと言い切った律に、葵は苦笑する。
「(……流石は、彰良くんの甥っ子くんだなぁ……。
私よりも、しっかりしてそう。)」
彰良と律の共通点を見つけては、血の繋がりを感じて微笑ましく感じる。
「……葵さん?」
七歳らしからぬ笑顔の圧。
「……その、お付き合いさせて頂いてます……」
七歳児の圧に負ける自分って……等と、思いつつも葵は正直に答えた。
「…………」
微かに頬を染め、恥ずかしそうに告げる葵に、一瞬だけ無言になった律の目が細くなる。
「…………結婚していないから……まだ、チャンスはある……」
ポツリと呟かれた言葉は、葵の耳には届かなかった。
「……律くん?」
「何でもありません!」
律の呟きが聞こえず、首を傾げる葵へ輝く笑顔を返す。
「そう……?
あ、律くん……その、犬飼くんにそろそろ電話しても良いかしら?
きっと、ご両親も心配しているでしょうし……」
律の可愛らしい笑顔に絆されていた葵だったが、未だに彰良と連絡を取っていなかったことを思い出す。
「ご迷惑をお掛けしてすみません。
よろしくお願いします」
「はい、承りました」
今度こそ、律の許可を得て葵が彰良へと連絡を取るために、スマホを操作するのだった。
葵と律が公園でスマホを操作する少しだけ前。
犬飼家の屋敷にある緋月の仕事部屋に集まった家族一同。
「塾の講師達や迎えに行ってくれた里山さん達が探し回ってくれているけど……まだ見付からないんだ……!」
「……いっそ、警察にも連絡して大規模に捜索してもらうべきでは?」
警察に電話をするかなど、議論をしている最中だった。
「…………」
叔父である彰良が積極的に発言するべきでは無いと思いつつ。
あまり話したことはないものの、挨拶を交わす程度には関わっている甥を思い浮かべる。
「(……問題を起こすような子供とは思えないが……?)」
何故、一人で塾から姿を消してしまったのか?
甥個人の突発的な行動なのか?
それとも、第三者の介入によるものなのか?
「……!」
思考を巡らせていた彰良の胸ポケットで、スマホが振動する。
スマホ画面を確認すれば、葵からの着信。
「…………」
チラリと姉夫婦や両親を伺い、部屋の隅に移動して背中を向けてから彰良は通話ボタンを押した。
「葵先輩、申し訳ありません。
今、実家の方で問題が発生していまして……」
「あの、叔父さん……その問題とは、僕のことですよね。」
小声で対応すれば、予想外の声に彰良は目を見開く。
「あの……大変申し訳ないのですが、母達に僕は無事だとお伝え願えませんか?」
「……律っ?!」
驚いた彰良の声に家族の視線が集まる。
「何故、お前が葵先輩のスマホに……」
「貸せ、彰良!」
瞬時に彰良へ近付き、引ったくるようにスマホを緋月が奪う。
「律! 律っ!
律、無事なんだなっ?!
誘拐されたり、縛られたり、殴られたりしていないなっ?!」
そのまま悲鳴のような声音で、スピーカーモードにしたスマホに向かって叫ぶ。
「お、かあさん……僕は……僕は、だいじょうぶ、です。」
「本当だなっ?!
私はっ! 母は……!
お前の身に何か有ったならばっ……!
母は鬼になって刑務所にぶち込まれても構わん!!」
普段のマイペースな雰囲気が鳴りを潜め、必死な緋月の叫び。
「……お母、さん……ごめ、なさい……」
葵が勇気付けるように律の隣で、その小さな手を握る。
「……ぼ、くは……僕のことを、お母さんたちは、いらないのかもって思ったんです……」
律はチラリと葵を見る。
優しい微笑みに背中を押されるように、律はポツリポツリと喋り出す。
「お母さんたちが、そんなこと、思うはずないのに……!
さ、びしくて……塾とかより……妹たちみたいに、お母さんたちといっしょに、いたくて……!」
「律……!
母もすまなかった……律が寂しい思いをしていたなど……っ……!」
しっかり者の長男。
妹のお世話も進んできてくれる自慢の息子。
だが……本当は、まだ七歳の息子は寂しさに耐えていたのだ。
「すぐに迎えに行く! 決してそこを動くな!」
「はい、お母さん。
……まって、ます……!」
スマホの通話終了ボタンを押し、放り投げるように彰良へと返した緋月。
そのまま、緋月は瞬時に走り出そうとしたが……
「ちょっと待とうか、緋月」
そんな緋月の腕を掴んで、悠真が待ったをかけた。
「悠真! 止めるなっ!
私はっ悠長なことをしている暇は……」
普段の冷静な雰囲気などかなぐり捨てて、緋月が悠真に向かって叫ぶ。
「何処に迎えに行くか、君……わかってるよね?」
「…………あ゛……」
そんな緋月に悠真が冷静な一言を告げれば……緋月は、頬を引き攣らせて固まってしまった。
「……彰良くん、申し訳ないのだけど……もう一度、連絡を取ってくれるかな?」
「……はい」
ため息交じりの悠真とバツが悪そうな緋月へと、彰良が困ったように頷く。
「何にせよ、律くんが無事でよかったね」
事の成り行きを静かに見守っていた春彦達も含め、苦笑いをしてしまうのだった。




