第九十三話
他の社員たちが駅へと向かうなか。
駅とは正反対に歩く葵と彰良の目の前。
年の瀬の慌ただしい空気を切り裂くように現れた人影。
「……クリスマス以来ですね」
優しく微笑んでいる筈なのに……目がそれを裏切っている。
「っ……ぁ……」
指先が冷えて、微かに震えてしまう。
言葉が出ない。
「……先日は、自分の婚約者がお世話になりました。
日本舞踊、巳堂流次期家元の巳堂 巽さんで、宜しいですか?」
夜道でもわかるほどに、顔色が悪くなった葵。
その背に庇うように、無表情の彰良が一歩前に出た。
「そう言う貴方は、鳳凰堂ホールディングスの創業一族、犬飼家の長男、犬飼 彰良君で間違いありませんか?」
柔らかな微笑みを称えた巽の目が彰良を捉える。
「まさか、君のような存在が白鳥商社のような場所にいるなど……とても、不思議なものですね?」
「自分の勤め先が何処で有ろうとも、問題ありません。
若い頃の苦労は〜と言いますし、この会社に勤めたからこそ、出会えた奇跡もありますから。」
「……確かに。
立派なお考えをご両親はお持ちだったのでしょうか?
幼い頃から一族皆の期待を一身に背負った自分のような者には理解できませんが。」
「期待を背負って育ったのならば、ご両親や一族郎党とやらの期待通りに日本舞踊に精通した出会いが溢れていそうですね。
態々……怯えて、嫌がる女性を出待ちするような真似をするなど、恥ずかしいと思いませんか?」
無表情の彰良。
微笑みを崩さない巽。
二人の静かだが、激しい応酬。
「怯えて、嫌がる?
妙なことを言いますね。
私は知り合いの女性に……そう、恋人に振られそうになり、今にも傷付き、壊れそうな美しさを宿していた葵さんに話し掛けただけですよ。」
「っ……」
大袈裟に目を丸くしてみせた巽の一言。
一瞬だけ、彰良の眉がピクリと動く。
「クリスマスの公園で寒さに震え、恋に敗れた切ない心を抱えていた壊れそうな横顔。
怯える心を押し殺し、怒りに頬を染め、激しい炎を宿した瞳。」
「……ゃ……っ……」
彰良の背に庇われた葵を巽の視線が射抜く。
「……葵さん、貴女のように美しい女性を私は知りません。
だからこそ……彼との恋が壊れなかったことが残念でなりません。
そうすれば、もっと貴女は美しくなったで……」
「その詰まらない戯言を吐く口を閉じて頂けますか?」
背中に庇った葵の震えが、彰良に伝わって来る。
固く握り締められ、震える手。
葵と絡めた指先が痛みを増していく。
「戯言、ですか?
……いいえ、私は本気ですよ。」
微笑む巽に、彰良の視線が険悪さを増していく。
「先ほど、婚約者と言いましたが……正式な物では無いでしょう?
最も、正式な物で有ったとしても、婚約に至った二人が破局することも珍しくは無い世の中だ。
必要だというならば、我が家は持参金代わりに慰謝料を払っても構いませんよ。」
「婚約破棄など有り得ない。
第一、金で終わらせるような話でも無い。
…………貴方のような人間に、葵先輩を死んでも渡すものか。」
「死ねば、そこで終わりでしょう?
それに……心変わりは無いとは言い切れない。
……クリスマスに葵さんを傷付けたようですし……余程、余裕がないと見える。」
上品に……しかし、毒を含んだ微笑み。
「余裕など有りませんよ。
誰よりも魅力的で、愛しくて堪らない唯一人の女性を前にして……余裕のある男の方が可笑しい。」
巽の言葉の毒を、彰良は無表情に拒絶する。
「心より愛する女性に……葵先輩に、ずっと寄り添い、愛し合えるように。
……全力で支え、守るだけだ。」
「……あっ……」
冷えた葵の指先を温めるように。
ぎゅっと力が籠る。
「(……あたたかい……)」
幼い頃に植え付けられた恐怖と嫌悪。
葵を守るためにと打ち込まれた母の愛という名の楔。
「(私は……守られて、ばかりだ……)」
唇を噛みしめる。
一人で立てる強い女になりたいと思うばかりで……
「(……私は……自分の足で立ててない……)」
蛇が怖い。
縦長の瞳孔の冷たい瞳と鱗に覆われた長い体。
獲物を丸呑みにする大きな口。
「(私は……)」
いつかのあの日。
会社の備品室で彰良へ告げた言葉。
自分で前に進みたい。
後輩達に負けてられない。
「(私は……もう、怖い心から……今度こそ、逃げたくない……!)」
葵の心に炎が灯る。
覚悟が決まる。
「…………」
一度目を閉じて、深呼吸をする。
指先の震えが止まる。
薬指で明かりを反射した銀色が光る。
「…………」
大丈夫。
だって……葵は、もう一人じゃないから。
「……どうして、私なんですか……?」
小さい。
けれど、震えていない声音。
「葵先ぱ……」
「彰良くん」
庇おうとした彰良に微笑む。
「っ……」
葵は彰良に言葉で答えるかわりに、ぎゅっと絡めた指を握り返したのだった。




