第八十四話
クリスマス、土曜日の朝。
朝食を終え、シャワーも浴びて、ぽやん……とソファに一人膝を抱えて座る葵。
心が安定し、一晩しっかりと眠ったことで、熱は平熱へと戻っていた。
「(この数日……いろんなことがあったなぁ……)」
ほわほわと、この数日間を思い出す。
うん……この数年間の間で一番感情が揺れ動いたから、疲れるはずだと葵は納得する。
「…………めりー、くるしみます?」
小学生の頃だっけ……?
男の子達が……なんか、そんなことを言っていたような……?
「唐突に何を言っているんですか?」
「み゛っ?!」
思考の海にどっぷりと浸かっていた葵。
背後からの声に、文字通り飛び上がった。
「……葵先輩、その鳴き声はきっと生まれながらの標準装備なんですね」
クスクスと笑う彰良の手には、二人分のコーヒーカップ。
「び……ビックリした……!」
「驚かせるつもりは、無かったのですが……」
「ううん!
ごめんね、変な声を出しちゃって……」
パタパタと両手を振る葵に、彰良は微笑む。
「問題無いかと。
自分は、その驚いた時の鳴き声をとても好ましく思っていますので」
「えっ?!
いや……えっと……ぅ……あ、りがとう……?」
恥ずかしさに頬を染める葵。
「それで……なぜ、急に"めりーくるしみます"なんですか?」
「ふえっ?!
えっ、え……いや、深い意味は無いんだけど……」
首を傾げる彰良に、葵は苦笑する。
「……この数年間で……一番、感情が揺れ動いたっていうか……。
出来るだけ、感情が動かないようにっていうのかな……?
そんな風に生きてたから……たくさん、感情が動いて疲れたのかなって……。
それなら、熱が出てもしょうがないなぁ……って、思ってたの」
ありがとう、と彰良から受け取ったコーヒーカップ。
いつもより白い珈琲の色……あれ、珈琲どこいった?
「…………珈琲、どこに散歩にいったの?」
「く、ふっ…………葵、先輩……珈琲に足は生えてません……っ!
そして、それはホットミルクです……!」
珈琲に口を付けようとしていた彰良。
予想外の葵の感想に吹き出してしまう。
「え……あ、そっか。
珈琲は最初からいなかったんだ……」
「なぜ、擬人化風な感想が漏れるのか不思議です」
顔を背け、喉の奥で低く笑う彰良。
「私、変なことを言ったかな?」
どうして、彰良がここまで笑うのか分からず首を傾げる。
もしかしたら、彰良は笑上戸という奴なのかもしれない……!
「笑ってしまい、すみません。
お伝えしておきますが、自分は葵先輩の可愛らしい、そして不思議な感性が愛おしく思っていますので。」
「う?
えっと……ありがとう?」
優しさと愛しさの混じった微笑み。
いつの間にか、葵の隣には彰良が座っていた。
「……話が逸れてしまいましたが、感情が揺れ動いたんですね」
「ん?
……そうなの……私自身もビックリしたから、熱が出てもしょうがないなって。
しかも……大っきい蛇まで来たし……!」
絶対に、アレがトドメだったと葵は確信していた。
「…………毒を撒き散らす前に、息の根をとめる必要があるな」
葵にも聞こえないような小さな声音。
「彰良くん……?」
「何でもありませんよ」
彰良の輝く笑顔。
「葵先輩、体調は少し回復したみたいですが……食欲はまだ沸かないようですね」
「……蜜柑の缶詰、美味しかったです……」
「……蜜柑の缶詰は、主食にはなりませんが……食べないよりは、良いですけれど……」
レトルトのお粥を半分も食べれなかった葵。
小鉢に入れた蜜柑の缶詰、数切れはしっかりと食べれていた。
「昔から、一旦体調を崩すと……食欲が戻るまで暫く時間が掛かっちゃうの。」
「凛が言っていましたが……葵先輩を運んだ病院のスタッフが栄養状態が悪いし、貧血もあると指摘していたそうです。
恐らく、葵先輩のご友人ではないかと言ってましたが……」
「私の……?」
彰良の言葉にピンと来ない。
葵の友達とは誰だろう?
「(……病院の人…………鹿山総合病院……?)」
悩む。
何かが引っ掛かる、ような……?
「自分は見ていませんが、凛が言うにはトンボ眼鏡の女性だったと……。
しかも、自分宛てに"解剖する時は麻酔は使わない"と言い残して……」
「龍さんだ!
絶対に、龍さんだわ!」
手を叩いて、満面の笑顔を浮かべる。
「そっか……そうだったわ……!
龍さんは、鹿山総合病院で臨床検査技師として働いているって言ってたもの!
そっかぁ……龍さん、私のことを心配してくれたのね……」
「…………臨床検査技師は、解剖というか……人体を切開する許可は国家資格に含まれなかった筈ですが……?」
「そうねえ…………でも、龍さんだもの。
たぶん、趣味の範囲で……実際にはしていないと思うの。」
困惑気味な彰良の表情に、葵も首を傾げる。
「……昔から……医学? 解剖学?
よく分からないけど……人体模型や骨格標本の本かしら……?
そんな感じのを読んでて、小学校のクラスでも浮いていて……。」
思い出すのは……小学校低学年の頃。
解剖生理学に関する専門書を休み時間になる度に広げていた少女の背中。
「人体の筋肉の走行? 神経伝達?
私には難しくてよく分からなかったけど、龍さんが楽しそうに話してくれていたから……」
その他大勢の一人として、女の子のグループに入れて貰えることは有っても。
気まぐれに仲間外れにされることもあった小学生時代。
外れ者同士、三人で固まっていることも多かった。
「龍さんが……楽しそうだから、それでいっかと思ってたの。」
「…………それ、は……」
それは、幼い龍さんにとっては……かけがえのない存在だったのでは?
解剖学の医学書を読む小学生など、滅多にいない。
そんな周囲から浮いて、同年代の誰からも理解されない。
そんな環境にたった一人だけ。
たった一人だけ、自分の趣味嗜好を否定せず、同じレベルの理解はできなくとも。
ただ、自分の好きな話を共有してくれる。
……それは、龍さんにとって……どれほどの救いだったか……。
「……鬼、さん……という人物も、同じような……」
「んー……鬼さんは、よくわからないけど……いつもね、黒っぽい所にいたの。」
黒っぽい……?
どう言えば良いんだろう?
なんか……黒い、底なし沼?
「黒っぽい?」
「子供の頃だから……たぶん、記憶違いだと思うけど……?
なんか……鬼さんの足元の影が大っきくて、白っぽい手みたいな?
そういうのが、影から時々出て来て……鬼さんの頭を撫でていたような気がするの。」
「ぃっ……」
喉の奥で引き攣りそうになる悲鳴を、彰良は根性で押し留めた。
「でも、たぶんその白い手みたいなの……悪い人じゃない気がする……?
私も優しく頭を撫でて貰って、鬼さんと仲良くしてくれてありがとうって言われたような……?」
あれ……でも、口は無かったから……どうやって、喋っていたのかしら……?
「だから……一緒に遊ぼうって、日向ぼっこしたり、あやとりとかした覚えがあるの。」
「そ、そうですか……」
血の気が引く。
葵の恋人として、葵を譲る気はない…………土下座をすれば、葵の恋人として認めてもらえるだろうか……?
「……葵先輩……」
「ん……どうしたの、彰良くん?」
「……宇宙一、可愛い葵先輩の恋人として認めてもらえるように頑張ります」
決死の覚悟。
「えっと……彰良くんは、宇宙で一番可愛くて格好いい男の人だから……私も、頑張るね」
「葵先輩……!」
今日も、俺の彼女が可愛すぎて、尊い……!
絶対に死なずに頑張って生きて、葵の側にいると彰良は心を新たにするのだった。




