第八十三話
少しだけ時間は遡り……。
葵が倒れた金曜日。
クリスマス・イブの夜。
「……やっぱり……絆されたわね」
ニヤニヤと笑いが止まらない紗夜。
カランと涼やかな氷の音。
紗夜の行き付けのBAR。
カウンター席に座る男女。
「別に!
絆されてないし!
課長として、部下のフォローをやっただけだからね。」
不服そうに唇を尖らせる玲衣。
「(そう!
僕は絆されてなんかいない!
部下が問題を起こしたら、僕の責任になるから……しょうがなく!
しょうがなく、動いただけだからね!)」
自分に言い訳している時点で負けている。
そんな指摘が頭によぎる。
「だから、忠告したでしょう。
あの娘は、アンタが手酷く抱いてきた女達とは違うって。」
「…………」
ニヤニヤと。
美味しく酒が進む紗夜とは裏腹に、玲衣の顔には苦い色が浮かぶ。
「……あれは、女じゃないだろ。
あの子は、ニンゲン目 オンナ科 タチバナ属 アオイっていう生き物だよ。」
そう……そうだよ……!
だがら、玲衣の女への認識と違ってもしょうがない。
「……我ながらしっくりくる……!
あの子は、そういう分類の生き物と思えば良かったんだ……!」
天啓である。
玲衣の口元に、不遜な笑みが浮かぶ。
「……アンタ……それは、逃げよ」
逃げだな、この男。
どんだけ女が嫌いなんだか。
「逃げじゃないもん。
分類を整理しただけだもん。」
「三十過ぎた男が"もん"とか…………どうしてそんなに童顔なのよ。
しかも可愛い系の顔だから、微妙に似合っているのが腹立つわっ!」
「確かに」
苛立たしげに顔を歪めた紗夜の隣。
静かに現れた人影。
「童顔というものは脳科学と行動生態学、更に解剖生理学を用いて紐解くことは十分に可能と判断する。
ある人物が提唱したベビーシェマという概念がある。
簡潔に言えば、人間を含む動物の赤子を見た時。
その赤子という状態に共通する複数の項目を脳が認識すると、勝手に保護欲や可愛いという感情が刺激されることを言う。」
「「……は?」」
丸くて、分厚いトンボ眼鏡。
スレンダーな体。
「また、童顔とは赤ちゃんの顔の比率を保ったまま大人になる現状を主に指す。
その現象を遺伝学・解剖学では幼形成熟と呼ぶ。
赤子の顔面の特徴を踏まえた造形。
つまり、以下の三つの特徴。
顔面の上下バランス。
前頭骨、所謂オデコの広さと丸み。
下顎骨、所謂アゴの発達度合い。
このバランスにより、大人の童顔は十分に説明可能なものとなる。」
差も当然のように、紗夜の隣に腰掛けた。
「要するに。
彼女が発言した童顔とは、単なる主観の問題ではなく、解剖学と脳科学で説明できる極めて科学的な現象と言える。」
頬が引き攣る。
「「(なんか、変なのきた……!)」」
紗夜と玲衣の心が一つになる。
「あらあら……龍ちゃん、たら。
お二人が驚き、桃の木、山椒の木ってやつかしら?」
「「っ?!」」
気配が無かった。
「桃の実を捩じ込みたいくらいに……大きなお口が開いているわ」
「鬼やんよ。
口に桃を突っ込むのは構わんが、窒息はさせるな。
私は、そいつらに人工呼吸をしたくないぞ。
肋が折れるほどの心臓マッサージならば、構わんが。」
夜の闇から溶け出たような女が、玲衣の横に現れる。
「初めまして」
妖しい黒い微笑み。
「大好きなあの子を泣かせたことを責めるつもりは無いの。
ただ……そうね、あなた達とオトモダチになろうと思って……来たの」
烏の濡れ羽色の髪が、風もないのに揺れる。
髪の隙間より、銀色のイヤーラップがのぞく。
「は、え……ちょっ、人違いじゃ……」
見るからに怪しいオーラが満載の二人組。
引き攣りそうになる頬を根性で押さえ、玲衣が笑顔でかわそうと試みる。
「違わないわ」
深い深い、獣が潜む森の奥のような。
「心の闇に惑おうが、お好きになさい」
仄暗い昏い微笑み。
「あなたの"価値観の檻"に……あの子を捕らえないでくださる?」
冷たい指先が玲衣の頬をなぞる。
「ひっ…………」
蝋人形のように、白く細い指先。
「また、痩せてしまったの。
……苦しみと悲しみに涙して、命を削ってしまったの。」
背中に氷塊を落とされたように。
「……私たちの大好きなあの子はダメよ、赦さないわ。
だって……あの子には、春の日差しや日向が似合うもの」
背筋が粟立つ。
「あ、の……私は、関係ないみたいだし……お暇させて……」
ヤバいヤバいヤバい……と紗夜の本能が警鐘を鳴らす。
玲衣を見捨て、その場を離れようとした紗夜。
「んん?
君は無関係だと?」
だが……捕まった。
立とうとした肩を、龍と呼ばれた女の手が抑える。
「あの子の唯一無二と定めた番に粉を掛けて、悲しませた張本人でもあるのに?」
「ひっ……?!」
紗夜の肩を抑えた手に力が籠る。
指先が肩にめり込む。
「安心してくれ。
一応なりとも、医療従事者の端くれだ。
恐らく、きっと……命の保証はする。」
見慣れた標本をみるような無感動な瞳。
「この世に溢れる人間の半分。
ありとあらゆる"女"を知りたいのでしょう?」
仄暗い水の底のような昏い瞳。
「よろしくてよ。
この世と言わず、彼岸の向こう側まで……会いに行きましょう」
「ふむ……月曜日の朝までには、解放することも……約束するべきかな?」
二人の微笑みに玲衣と紗夜は囚われ…………闇が口を開けたのだった。




