第六十九話
冷たい風が吹く。
青褪めた葵の頬から。
細い身体から。
容赦なく熱を奪っていく。
「……巳堂、流……母の流派の……?」
戸惑う。
何故そんな人物が自分を尋ねてきたのか、わからない。
「あ……いつも、母がお世話になっております……!」
目的は、わからない。
だが、母の関係者ならば挨拶をしなければ……あれ?
「(……巳堂の若様と……会うなって、言われたような……?)」
文化ホールの一件。
母、撫子より巳堂流時期家元とは会わないで欲しいと言われた記憶が蘇る。
「……初めまして、というのも可笑しいでしょうか?
先日の文化ホールにて、貴女の舞を拝見させて頂きましたから。」
うっそりと微笑む巽に、葵の何かが警鐘を鳴らす。
「とても……とても、美しい舞でした。
道成寺を、あれほど凄まじく舞える者は……そうはいません。」
舞台上で翻った灰桜の着物。
「お母様である立花先生には、是非とも貴女を代役候補としたい。
時期家元である私自ら、舞の指導を行いたいと。
再三、申し入れていたのですが……どうやら、その御様子だとご存知なかったようだ。」
「す、みません……」
まるで……静かに這い寄る蛇のような気配。
「でも……私は仕事があります。
それに、趣味に毛が生えた程度の私が舞っては……他の方々が良い顔をされないかと……」
無意識に……後退る。
少しでも、目の前の男と距離を取りたい。
「…………恋人にでも、フラれましたか?」
巽が優しげな微笑みを崩すことなく……一歩前に出る。
「っ?!」
葵の頬に伸ばされた指先に身体が硬直し、震えてしまう。
「可哀想に。
恋人に振られ、寒さに一人震えて。」
巽の瞳が細まる。
傷付いて泣きそうな瞳。
悲しみに一人で、耐えている葵にゾクゾクする。
「本当に……可哀想な方だ。」
優しく、優しく。
「ですが……フラれることはしょうがないことです。
あの文化ホールに来ていた御仁が相手でしょう?
……貴女のように、己に自身がない女性には過ぎたる方だ。」
蛇が獲物を、ジワジワと絞め殺すように。
「魅力的な女性は、この世の中に溢れていますから……」
葵の熱を失った頬を、指先でなぞる。
涙が零れ落ちそうな瞳に、嗜虐心を称えた顔の男が映る。
「……ああ、そうだ。」
巽が見初めた……美しく舞うことが出来る肉人形。
「……もし宜しければ、慰めて差し上げましょうか?
私は、貴女本人には興味はないけれど……貴女の舞は何よりも美しい……!」
思い出しただけでも、心が昂る!
あれ程に、美しく舞える人間を巽は知らない……!
「きっとお相手の方は貴女の価値を知らないのでしょう。」
どんな手を使っても。
「貴女の舞は美しい。
男を狂わせる魅力があふれている。」
巽が手元に置きたい……唯一人の舞姫。
「貴女の価値を理解できない無粋で、下賤な男など……忘れてしまいなさい。
貴女が愛する価値など、最初から無かったのですから。」
葵が俯く。
拳が白くなるほどに握り込まれる。
「立花 葵さん。
さあ、私と一緒に行きましょう。」
断定の言葉。
傷付いた弱い獲物が、巽の手を取ると信じて疑わない。
「お断りします」
ぱんっ!
「っ……?!」
目を見開く。
跳ね除けられた手に、痛みが走った。
「……私のことを何と言おうと、構いません」
顔を上げた葵の瞳に、激しい炎が燃え上がる。
「ですがっ!
私の大切な人を侮辱される謂れはありませんっ!」
震える、白い拳。
「彼はっ!
誰よりも、優しくて、格好いい素敵な人です!」
あまりの怒りに、視界が赤く染まる。
「私は魅力がないけど、彰良くんが私を選ばないことは関係ない!」
悔しい。
悔しくて、堪らないっ!
「私がフラれたことなんて、どうでもいいのっ!
彰良くんのことを、私以上に愛して、大切にしてくれる素敵な女性と巡り合っただけ!」
見ず知らずの、彰良のことを何も知らない人間に。
葵のせいで、彰良が侮辱されるなんて許せない……!
「私はっ!
彰良くんが幸せならそれでいいものっ!!」
燃え上がる激情に、肩で息をする。
怒りで赤く染まった頬を、一筋の涙が流れ落ちた。
「…………」
巽は、呆然と葵を見詰める。
「……っ……」
怯えて泣いていた葵の放つ怒気。
激情が渦巻き、怒りが迸る瞳。
燃えるように美しい葵。
「っ……ははっ……!」
巽の背中にゾクリと何かが駆け抜けた。
「な、んと……」
欲しい……。
「ふ、ふふふ……」
欲しい……この女が!
「舞だけしか価値がないと思っていましたが……」
弱い獲物の中にある……激情。
巽すらも圧倒した感情。
「舞だけではなく、貴女自身が……欲しくなりました。」
「っ……」
奪い尽くす。
「ぁ……ゃ、だ……」
巽の視線に潜む……暴力的な欲を感じ取った葵が怯む。
顔色を悪くして、カタカタと震える葵。
「怯えないで下さい。
……何も、怖いことは有りませんよ」
嘘だ。
心の傷を広げて、血を溢れさせ……塩を塗り込む。
傷付けて、傷付けて……優しく漬け込み、囲い込む。
「……ゃ……」
震える葵に手を伸ばす。
「あーらっ!
そこにいるのは!
可愛い可愛い恋人さんじゃなぁい!!」
後もう少しで葵に届きそうだった手は…………寸でのところで邪魔をされたのだった。




