第六十三話
静まり返ったオフィス。
勤務時間終了のチャイムは既に鳴っていた。
「…………」
終業時間ギリギリに玲衣から任された資料の作成。
そのために必要な資料を取りに行っている間に、営業部の社員達は帰宅の途に付いていた。
「……っ……」
時計を確認するのを忘れていた葵。
資料室から戻った頃には、既に終業のチャイムが鳴ってから三十分以上が経過していた。
「(……犬飼くんに、先に帰ってもらうように連絡をしてなかった……!)」
慌ててスマホを鞄から取り出せば、彰良からの着信履歴が残っていた。
「……たぶん……もう、帰ったよね……?」
「誰がですか……?」
「み゛ゅっ?!」
肩が飛び跳ねる。
振り返れば、目を丸くした彰良の姿。
「びっ……びっくりしたぁ……」
「あの……すみません……?」
ドキドキと激しく暴れる心臓を押さえる葵に、彰良が首を傾げる。
「彰良くん、驚いてごめんね……」
「いえ、自分もまさか……こんなにも、驚くとは思わず……」
顔を見合わせる。
「ふ……ふふ……」
「くっ……」
そして、何方ともなく笑い合う。
「ふふっ……ごめんね、ちょうど彰良くんのことを考えていたの。」
「……自分のことをですか?」
「うん……終業時刻は過ぎたし、私はまだ残業があるから先に帰っててほしいなって……」
笑いを収めた葵が彰良に伝える。
「残業、ですか?
それならば、自分も手伝います。」
「え……でも、彰良くんに迷惑を……」
「迷惑ではありません。
自分が、葵先輩と一緒にいたいので問題ありません。」
「え……あの、うぅ……あり、がとう……」
真っ直ぐな彰良の言葉に、葵の頬が微かに染まる。
「……彰良くん」
「はい」
視線を下げて、彰良の背広の端を指先で掴む。
「……営業部って慣れてないし……夜に一人ぼっちは少しだけ、不安だったから……」
下げていた視線を上げて、彰良の目を見詰める。
「……彰良くん、一緒に……いて、くれて……ありがとう……」
恥ずかしさ混じりの優しい笑顔。
「っ…………!」
彰良の頬に朱が登る。
恥ずかしそうに微笑む葵。
心臓が跳ねる。
「葵先輩…………抱き締めても良いですか?」
「み゛っ?!」
急いで彰良から三歩離れた葵。
「なっなんで……?!
ダメっ! 駄目だよ、駄目だからねっ!」
顔を赤くして、胸のあたりで両手をふる。
「彰良くんに抱き締めてもらうのは嫌じゃないけど……!
でもっ此処! 職場だからねっ!
職場でそういうことはっ! しちゃダメなんだよっっ!!」
「なんで……?
葵先輩の言動が可愛いですし……俺に、甘えることを覚えてくれたので……」
葵が三歩離れた距離。
彰良の歩幅ならば……二歩にも満たない距離を詰める。
「とても、嬉しいです」
低く囁くような声音。
葵の耳元で囁く。
「それに……職場でなければ、抱き締めていいってことですよね……?」
顔を覗き込むように。
男の色香を纏った微笑み。
「っっ?!」
至近距離の威力に、葵の心臓が早鐘を打つ。
「うっ、あ……えっ……あきっ彰良くんっ近いよっ?!」
両腕を突き出し、彰良の胸元を押し返す。
「ああああ、あのっ!
なっなんか! いつもよりっ……きょ、りが近いっていうか……」
あまりの羞恥に目をグルグルさせる葵。
何となくだが……彰良が、普段よりも強引と言うか、押しが強いと言うか……?
「…………嫌、でしたか?」
「嫌、ではないけど…………職場では、困ると言いますか……」
首筋まで赤くなった葵から、小さく一歩だけ引き下がった彰良。
「……多少、ワザとではあります。」
「え……?」
ふいっと。
目元を赤くして、顔を背ける彰良。
「そうじゃなくても、最近は邪魔者が多いですし。
同じ部署内なら目が届きますが、他部署だと…………葵先輩が可愛すぎるので心配になります。」
「…………」
葵は、目を丸くする。
それは……まるで……
「……やきもち……?」
「っ……!」
図星だった。
余裕が無さ過ぎる己が恨めしい。
「…………そっか」
笑ってしまいそうになる。
……そうか……彰良も、葵と同じように……不安な気持ちになるんだ、と。
「葵先輩……?」
クスクスと笑う葵に、彰良は疑問を抱く。
いつもの葵ならば……顔を赤くするか、困惑した表情を浮かべる気がしたのだ。
「ふふふっ……変なところで、一緒だなぁって……思ったの」
「一緒?」
葵は彰良へと微笑みを向ける。
「……私も……魚形課長から彰良くんが……その……」
「魚形課長?」
葵の口から飛び出した名前に、眉間にシワが寄る。
やはり……彰良の予想通り、あの男は妙な真似をしていたと確信する。
「何を言われたんですか?」
「えっと……」
「葵先輩?
重箱の隅をつつくように、状況と日時を含めて包み隠さず全てを教えてください。」
目が据わる。
絶対に碌な真似をしていない。
「あー……うん。
えっとね……彰良くんが、女の子にモテモテらしくて。
あと、今日のお昼前かなぁ?
他部署のすごく可愛い女の子から、綺麗にラッピングされたプレゼントを嬉しそうに受け取っていたよ……って。」
「は?」
「本当は、聞かない方が良いって言われたんだけどね……」
苦笑する。
葵は、静かに今日の玲衣との会話を彰良へと語り始めるのだった。




