第三十八話
備品室に響いた凛の切羽詰まった叫び。
彰良と華乃の動きが一瞬止まった。
「何を、した?」
凛の声音に嫌な予感がガンガンと響く。
昨夜だけのことではない予感がするのは……彰良の勘違いだと思いたかった。
「ごめん……!
彰良の職場の近くで彼女さんを見掛けて、声を掛けて……」
「何をしたと、聞いている」
「彰良が……鳳凰堂の御曹司だって、言った……」
「っっ?!」
目を見開く。
スマホがミシリと音を立てる。
「ごめん!
まさか、彼女さんが知らないとは思わなかったんだ!
聞いた瞬間に、変な勘違いをしたみたいで……。
オレが彰良の両親に、彼女さんを追い払うように依頼されたって……思ったみたいで……」
「っ……」
拳を握りしめる。
目の前が真っ赤に染まる。
怒りで頭が可笑しくなりそうだ。
「ちょっと! クソ狐!」
「は……何で、不良の兼子が……」
「黙れ、クソ狐。
今どこにいるの?」
「あ……その会社の近くの公園……」
「っ」
凛の答えを聞いて、走り出そうとする彰良……だったが、華乃が出した足に躓く。
「ぐっ?!
邪魔をするなっ!」
勢いよく転んだ彰良が瞬時に立ち上がり、怒りを込めて吠えた。
「喧しいっ!」
「っっ?!」
吠えた彰良を物ともせず、華乃が彰良の胸元を鷲掴む。
「冷静になれって言ってるのよ、クソ犬っ!」
「っ……」
「あの公園から、会社に帰って来るまでの時間を考えなさいよ。
クソ狐が葵先輩と別れて、この電話を掛ける時間。
その間に普通に会社にたどり着くわよ。
葵先輩は、多分アンタにも、私にも会いたくないはず。
だから、一旦は心が落ち着くまで……何処かに、隠れる。」
華乃は、思考を巡らせる。
葵が一番会いたくない相手は……クソ犬。
次は、葵の兄の恋人……葵の兄達と繋がりのある自分。
「一番怖いのは、何事も無かったように葵先輩が振る舞うことよ。
クソ犬……アンタ、気合いを入れて引き止めないと…………気が付いたら、自然消滅していた風に装われるわよ。」
「っっ」
「こういう時の女の底力を舐めんじゃないわよ。
……絶対に、クソ犬に違和感を抱かせないように、傷付けないように……細心の注意を払って、距離を取られて……よ?」
「……っ」
血の気が引く。
葵が……彰良との恋人関係を自然消滅させるかもしれない。
…………目の前が真っ暗になる。
「しっかりしろって言ってんでしょっっ!
この程度のことで動揺すんなっ!
腹くくって、惚れた女を引き止めなさいよ!」
華乃は唇を噛み締め、腹の底に力を込める。
「そのために!
アンタはみっともない姿を晒してでも!
葵先輩に想いを伝えたんでしょーがっ!!」
「っ……性悪女……」
「……この程度のことで、アンタが振られたら……身を引いた私がバカみたいじゃない……!」
華乃よりも、遥かに高い彰良の青褪めた顔をキッと睨む。
「行くわよ。
葵先輩なら……多分、彼処にいるはず……」
「……っ……葵先輩の居場所がわかるのかっ?!」
「当然よ。
……一番会いたくないクソ犬が、絶対に入って来れない場所よ。」
頼もしい笑顔を浮かべた華乃。
「と、言う訳で!
クソ狐……アンタ、今度絶っっ対に締めるから。
狐鍋にしてやるから、覚悟しときなさいよ!」
「待っっちょ……!」
ブチッと通話終了ボタンを押して、彰良にスマホを投げる。
そのまま、華乃は振り向くことなく歩き出す。
その後ろを、彰良が足早に追いかけるのだった。
凛と別れ、すぐに会社に戻った葵。
しかし、すぐに彰良や華乃のいる総務課に戻る勇気はなかった。
「…………」
総務課に戻ることが出来ず……会社のエントランスにあるトイレの個室に籠もった。
「…………彰良くんが……御曹司……」
心が……痛い……
「……違和感は、あったけど……そんな、大きい会社の……」
違和感はあった。
気が付いていた。
でも……大企業の御曹司が、こんな中堅会社にいるとは夢にも思わなかった。
「……私……ばかだ……完全に、舞い上がってた……」
初めて。
初めて……心を通わせることが出来た、葵を好きになってくれた人。
……その人にだって……家族がいる。
「……受け入れてもらえるはずが……ないじゃない……っ……」
喉の奥が詰まる。
目の奥が熱くなる。
胸が苦しい。
「……泣く、な……泣くな……」
耐えなきゃ。
耐えて……彰良に気が付かれないように。
傷付けないように。
距離を……取って……
「失礼しまーす!」
「っっ?!」
口を押さえる。
「総務課所属の立花 葵せんぱーい!
いらっしゃったら、返事をしてくださーい!」
明るい華乃の声。
兄の恋人である華乃に、葵の心を悟られる訳にはいかない。
また、家族に心配を……迷惑を掛けてしまう……!
「間違っていたら、すみません!
この中にいるのは葵先輩ですか?」
「……っ」
個室のドアがノックされる。
「……葵先輩ですね。」
「……な、で……」
断定されてしまったことに動揺し、声を漏らしてしまう。
「やっぱり!」
扉の向こうから、聞こえてくる華乃の声。
「葵先輩、そのままで良いです。
その方が逃げ道がありませんからね。」
「…………」
「狐川 凛から話は聞きました。」
「え……華乃ちゃん……」
驚く。
凛のことを華乃も知っている……?
「アイツの存在はどうでも良いです。
アレは幼馴染というより、犬飼さんの金魚の糞ですから。
……それと、私も知っていました。
犬飼さんが……鳳凰堂の御曹司だって。」
苦々しい声。
「…………」
「逃げますか?」
「っ……」
「犬飼さんから、このまま逃げますか?
……葵先輩は、その選択に後悔をしませんか?」
「私、は……」
戸惑う。
自分の心がグシャグシャでわからない……!
「葵先輩は……犬飼さんが御曹司だって知ったら、嫌いになる程度の好きだったんですか?」
「それは……」
それは……違う。
今だって……。
御曹司だと知った今だって……彰良のことが好きでたまらない。
「……違いますよね。
違うから、傷付いて泣いてるんでしょう?
犬飼さんに会えなくて……どうして良いのか、分からなくなってる。」
「……」
その通りだった。
華乃が言うように……葵の中に、彰良を諦めたくない心がある。
猪原夫婦が言った言葉が……葵の心を繋ぎ止めた。
「葵先輩は……御曹司だから好きになってない。
……犬飼 彰良だから好きになった。」
華乃は葵の心に触れるように、そっと個室の扉に触れる。
「……犬飼さんのご家族。
周囲の家族の心も気になるでしょうけど……。
葵先輩が……一番最初に確認するべきは、犬飼 彰良の心じゃないですか?」
華乃の言葉が、葵の心に突き刺さる。
確かに、葵は……まだ彰良の気持ちを聞いていない……。
「っっ……華乃、ちゃん……っ…………かの、ちゃん……っ……」
個室の扉が開く。
ポロポロと大粒の涙を流しながら出て来た葵を抱き締める。
「かの、ちゃ……だいすきぃっっ……!」
「知ってまーす」
華乃と葵はしばらく抱き締め合う。
「………………」
そして、そんな二人を恥も外聞も投げ捨てて、女子トイレの前で待つ大きな人影が有ったのだった。




