第三十三話
夜が明ける。
お互いに一寸も眠れずに迎えた朝。
「…………おはようございます」
ガタッと音がした。
いつもより少しだけ遅く出勤した葵。
葵が出勤した途端に立ち上がった人物。
「葵先輩……!」
「……おはよう、犬飼くん」
微笑む。
だが、どこか影がある微笑み。
「っ……お、はようございます……」
人前では名字で呼ばれる自分。
今は……その呼ばれ方が彰良の胸に刺さる。
「あのっ……!
葵先輩、約束通り……その、俺の話を聞いてくれますか……?」
「……うん……約束したもんね」
「っ……はい……!」
葵に拒絶されなかったことに安堵する。
「葵先輩、俺は……」
「立花さんはいるかしら?」
彰良が話そうとした瞬間。
「孔雀主任……?
えっと……おはようございます。」
「おはよう……じゃなくて。
ちょっと来てくれない?
猪原商会とちょっとトラブりそうなのよ。」
「あ……」
一瞬、彰良を見る。
彰良と話さなければならない。
「立花さん?」
「……はい、すぐに対応します」
話さなければならない、が……仕事を疎かには出来ない。
「犬飼くん、ごめんなさい。
後で必ず時間を作りますから……ごめんなさい……」
「いえ……わかり、ました……」
拳を握る。
なぜ、こうも上手くいかないのか……?
「…………」
無言で葵の背中を見送る。
そんな彰良を、華乃が目を細めて眺めるのだった。
朝からざわついている営業部。
「おはよう……うぅん?
初めましてかなぁ……?」
ニコニコと邪気のない笑み。
「僕は、魚形 玲衣だよー。
玲衣ちゃんって呼んでくれても……」
「セクハラです。
立花さんに迷惑を掛けるのは如何なものかと。」
間延びした口調でワザとらしく話す玲衣。
今朝もピシリと決まった有馬が苦言を呈する。
「あはは……有馬主任、ごめんね。
ほら、すずめさんも謝って。」
「私を巻き込むんじゃないわよっ!
しかもっ! 私は関係ないじゃないっ!」
「え…………あ、初めまして。
……総務の立花です。」
初めて会った本部から出向してきた営業部の新しい課長。
「よろしくね、立花さん」
恐らく紗夜と同じくらいの年齢。
少なくとも、葵よりは年上の男性。
「……よろしく、お願いします……」
一歩下がりそうな足を理性で押し留める。
「(……なんか……やだ……)」
童顔な格好良いよりは、可愛い整った顔立ち。
無邪気な笑顔に好感を抱く人間は少なくないだろう。
……だが、葵の何かが警鐘を鳴らす。
目の前の人間は、助けを求めて掴んだ手を笑顔で離す性格だと。
「…………」
葵の内心に気が付いたのだろうか。
玲衣が興味深そうに、笑顔を深める。
「っ……」
ビクリと揺れる葵の肩。
「……課長、要件を進めましょう。
立花さんにも、総務の仕事があります。」
葵の怯えに気が付いた有馬が助け舟を出す。
「あー……そうだね。
じゃあ、孔雀主任から説明してくれる」
「……猪原商会の社長がヘソを曲げてるのよ。」
ため息交じりの紗夜の言葉。
「……猪原商会と言えば、孔雀主任が契約を結び直すことになると、印鑑証明を求めた会社だと記憶しています。」
「ええ。
でも、契約の印鑑を押す段階になって、担当者の後ろから社長が現れてね。
"うちをバカにしているオタクとは契約できないっ!"と言われてね。」
「ああ……まあ、そうですね」
思わず頷いてしまう。
猪原商会の社長が頭に浮かぶ。
「……」
玲衣の目が細まる。
「立花さんは、猪原商会の社長がわかるの?」
「え……はい。
普通にお茶を出したりしていますので……」
「そうじゃなくて……猪原商会の社長の"バカにしてる"という部分がわかるの?」
玲衣だけでなく、有馬と紗夜も目を見開いて葵に注目する。
「あの……孔雀主任達は……」
「わからないのよ。
猪原社長が何を怒っているのかも、何もかも!
だって、此方は黒木とかいう奴の件を謝罪して正式な契約書類を更新しようとしただけなのよ!」
眉を寄せ、苛立った様子の紗夜。
「……猪原商会さんとは、長年のお付き合いであり、大口の顧客の一つです。
しかし、私自身は担当をしたことが有りません。
主だって対応されていたのは、前課長の鼠川と……問題の黒木だけでしたから。」
頭が痛いのか、こめかみを押さえ、ため息を付く有馬。
「…………私が、猪原商会さんとの契約書を閲覧することは可能ですか?」
「構わないよ。
こちらは手詰まりだからね。
猪原商会さんと会う約束をしているけど……相手が怒ってる理由が分からないままじゃ同仕様もない。」
すぐに葵に手渡された契約書。
隅々まで目を通す。
「断定は致しかねますが……」
言葉を区切り、頭をフル回転させる。
「この契約書に不備はありません。」
「だったら!」
「でも」
契約書に落としていた目を上げて、玲衣達を見渡す。
「でも、猪原社長の好みではありません。」
「は?」
「好み……?」
挑むように真っ直ぐな葵の眼差し。
「……続けて」
玲衣は真っ向から受け止めて、葵の意見を精査する。
「表現が合っているかは、分かりません。
ですが、猪原社長という人物は"人"を見る方です。」
「人……?
ビジネスにおいて、そんなこと……」
「孔雀、黙ってて」
「っ……」
意味がわからずに口を挟もうとした紗夜が、玲衣にピシャリと遮られる。
「……続けてくれる?」
「……古い考え方かもしれません。」
玲衣に促され、葵は再び口を開く。
「でも、猪原社長は一度信頼関係に罅を入れられた当社の誠意を測っているのだと思います。
これからも、契約を結ぶに値する相手なのか。
それとも、再び裏切る相手なのか。」
脳裏に浮かぶのは、古い気質で人情に熱い……頑固な雷親父。
「効率、簡潔、ビジネスライク。
効率的で、簡潔かつドライな仕事。
……そんな物よりも、猪原社長は担当になる人物に、泥臭くても、非効率でも…………嘘偽りのない、信頼に値する真心を求めているのでは無いでしょうか……?」
大企業だとか、公明正大な最適な条件です!
そんな一言よりも、猪原社長の、相手の担当者の声に耳を傾け、時間を消費してでも向き合ってくれる担当者。
それを求めているのではないかと葵は考える。
「……前担当者が担当していた頃から、何度も怒鳴り込んで来られた社長さんです。
怒りの沸点は高くないですけど……全く話を聞いてくれない方では有りませんよ。」
新人だった頃から、たまに有った猪原社長の襲来。
いつの頃からか、話を聞いて一緒にお茶を飲む茶飲み友達になってしまっていた。
「猪原社長の好物を持って、会いに行って……お話をお聞きすれば、十分に収束可能なトラブルだと推測いたします。」
総務課のストックに、猪原社長の好きな丸房露は有ったかしらと葵は微笑むのだった。




