#8 — 黄泉 (よみ) の門
冥府アカデミーの図書室は、さらなる知識を渇望する生徒たちにとって、格好の探索場の一つとなっていた。
黒檀の書架が天井に届かんばかりにそびえ立ち、まるで血の色を彷彿とさせる赤黒い空間を支える柱のようだ。数千もの古びた巻物が、幾重にも張り巡らされた魔術刻印の輝きの向こう側で、硝子戸の奥に整然と並んでいる。
リュウは木製の椅子に背を預け、退屈そうに頬杖をついていた。机の上に積み上げられた巻物の山を、虚ろな目で見つめる。
「正直さ……お前らの学園の図書室、なんでこう悪魔崇拝者の地下室みたいな雰囲気なんだよ……?」
彼は低く独り言を漏らした。
「それは、ここに並ぶ文献の多くが、詠唱一つ間違えれば命取りになる代物だからよ」
目の前の巻物から視線を外さぬまま、零が淡々と応じる。
リュウの隣に座る恵子は、対照的にのびのびと身体を伸ばし、屈託のない笑みを浮かべていた。
「えー? そうかなぁ? 私はここ、静かで涼しくて、すごく居心地がいいと思うんだけど」
リュウは彼女を冷めた目で見つめた。
「お前、感覚がズレてるぞ、恵子」
「はぁ? 何よそれ!」
恵子は抗議の声を上げながら、リュウの腕を小突いた。
彼女の膨れっ面を見て、リュウは小さく笑った。彼は視線を戻し、再び要約すべき書類の山へと意識を向ける。今日の課題は「古代魔術の歴史と霊的世界の構造基盤」についての調査だ。リュウにとっては、退屈極まりない作業だった。
適当にページをめくりながら時間が過ぎるのを待っていたその時、不意にあるものが目に飛び込んできた。書架の最下段の隙間に押し込まれた、漆黒の巻物だ。
色はひどくくすみ、その表面にはリュウの息を一時止めるほどの、不気味な紋様が刻まれていた。――終わりのない黒い円を囲む、太い鎖の象徴。
「……なんだ、これ?」
リュウはその巻物を引き抜いた。指先が触れた表面はざらつき、凍てつくような冷たさを帯びている。
彼はゆっくりとその紐を解いた。
綴られた古代文字が、その目に飛び込んでくる。
「須佐之男命……」
無意識に漏れたその声は、微かに震えていた。
零の手が止まった。彼女は即座に顔を上げ、その瞳に鋭い好奇心の色を宿す。
恵子もまた身を乗り出し、興味津々といった様子でリュウを覗き込んだ。
「え? 何その名前?」
リュウは答えなかった。古の文字に目を奪われ、重苦しい声でその一節を読み上げる。
「須佐之男命。嵐と暗黒を司る神。生と死という根源的な理に対し、反逆の旗を掲げた存在」
三人の間に、しばしの沈黙が流れた。
「かつて、人の世と黄泉は『黄泉の門』と呼ばれる絶対的な境界によって隔てられていた。それは、生者、死霊、そして死そのものの三界の均衡を保つ聖なる門であった」
リュウは唾を飲み込んだ。喉はひどく渇いていたが、視線はどうしてもその文字列から離れない。
「黄泉の門は、世界の均衡を守る最後の防壁である」
リュウが言葉を切る。恵子は無意識に自分の肩を抱いた。
リュウは次の一文を読み進める。
「門が閉ざされている限り、死へと歩みを進めた魂が、生の光に触れることは叶わない。また、生者が黄泉の地に足を踏み入れることも、固く禁じられている」
彼の視線は、その先の行へと移った。
「スサノオはその理を拒絶した。
彼は、死とはこの世界の欠陥であると信じていた。壊れたシステムなのだと。あらゆる苦しみ、戦争、喪失、そして終わりのない憎しみの連鎖……その全ては、死という帳によって、愛する者たちが強制的に引き裂かれることに起因すると説いた」
リュウの目が細まる。巻物の端を握る指先に力がこもった。その言葉が、頭の中で激しく反響する。
論理の壁を打ち砕くように、言葉が回る。リュウはさらに読み進めた。
「ゆえにスサノオは、黄泉の門を完全に破壊せんと試みた。生者の世界と死者の世界を統合し、唯一不変の存在へと昇華させようとしたのだ。生の世と死の国との間に、距離をなくすために」
「狂ってる……」
恵子が恐怖に身を震わせ、顔を蒼白にさせた。
「もし、そんなことが本当に起きたら……」
「……この世界は崩壊し、再び虚無へと還るでしょうね」
零が冷然と遮った。
リュウは二人の言葉を無視し、最後の一行へと目を走らせた。
「黄泉の門の封印に亀裂が走った時、死霊の海が暗黒の津波となって生者の世界へ溢れ出した。人間の憎悪から産み落とされた霊的存在が顕現し、物理法則と現実は木端微塵に砕け散った」
「恐ろしいわ……」
恵子が震える声で呟く。
リュウは巻物の最後の一節を、息を呑んで見つめた。
「大戦の果て、スサノオは当時の最強の魔導師たちの同盟によって封印された。しかし、その超越的な封印が完全に閉じる直前……スサノオの魂は爆散し、無数の欠片となって霧散した。そして、世界の至る所へと飛び散ったのである」
――ドクン。
不可視の衝撃がリュウの胸を貫いた。
心臓が激しく暴れ、痛みを伴う速度で血を送り出す。奇妙な熱感が突如として鳩尾から爆発し、全身の神経へと駆け巡った。
リュウは苦悶を堪え、反射的に左手で胸を強く押さえた。
(クソッ、なんだ……これ……っ!?)
それまで観察していた零が、急激に青ざめたリュウの異変に気づく。
「……どうしたの?」
彼女は鋭く問いかけた。
リュウは弾かれたように我に返った。彼は慌てて黒い巻物を丸めて机に放り出すと、無理やり馬鹿げた笑みを顔に貼り付けた。
「な、なんでもない! ちょっと筋肉が攣っただけだ!」
彼は視線を落とし、荒くなる呼吸を必死に整えようとした。
リュウは再び、気だるげに頬杖をついて見せた。しかし、頭の中ではあの一文が、容赦なく木霊し続けていた。
――死とは、この世界の欠陥である。
[死神学院]
死神学院のメイン廊下は、熱狂の渦に包まれていた。数百人もの生徒が、本館ホールの中央に貼り出された掲示板の前に押し寄せている。
喧騒、歓声、そして高揚した囁きが空気を支配していた。
幸田は人混みを必死にかき分け、掲示板の最前列に陣取った。
「はぁ……? まじかよ?!」
彼は信じられないといった様子で叫んだ。
周囲では生徒たちの熱狂がさらに加速していく。
「ついに来た! 全国霊的交流祭が今年も開催されるぞ!」
「今回、メイン会場は秀里剣西峰アカデミーらしいぜ! まじかよ……あそこ貴族御用達のエリート校だろ」
「ルールは例年通りだよな? 各学園から最強の代表五人……!」
コーダは周囲の騒ぎを無視し、掲示板の公式文を何度も読み返した。読み間違いでないことを確認するために。
全国霊的交流祭。日本全国から集う、闘争と誇りの舞台。この国の全ての公認霊的アカデミーから、最高の人材が集結するトーナメントだ。各学園は、その名を懸けて戦う五人の精鋭を送り出すことを義務付けられている。
コーダは後頭部を掻いた(こめかみ)から冷や汗が伝う。
「……ちょっと待てよ」
彼は呟いた。
コーダの目がゆっくりと細まり、この世で最悪のシナリオを脳裏に描く。
「まさか……あの馬鹿リュウが、冥府の代表として出てくるなんてことはないよな……?」
彼の脳内に、鼻をほじりながら天井を見上げる、あの気だるげなリュウの顔が鮮明に浮かび上がった。
コーダの顔が土色に変わる。彼は絶望した表情で、顔を半分覆った。
「もしあのアホが選ばれでもしたら……この国の霊的な威信は、もうおしまいだ」
[冥府アカデミー・メイン廊下]
学園委員によって貼り出されたばかりの巨大な掲示板の前に、数十人の生徒が群がっていた。
授業を終えたばかりのリュウは、眠たげな顔で恵子と零の後に続き、その人混みへと近づいていった。
「ん……? 何の騒ぎだよ」
リュウは気怠そうに、大きくあくびをした。
恵子の両目が瞬時に輝き、胸の前で熱っぽく拳を握りしめた。
「きゃぁぁっ!! ついに来たわ! 全国霊的交流祭よ!」
彼女は歓喜の声を上げた。
廊下の窓際に寄りかかり、独り静かに立っていた凛が、掲示板へとその鋭い視線を向けた。腕を組み、その表情は相変わらず読めない。
零が内容を精読する。
「秀里剣西峰アカデミー、ね……」
リュウは状況を飲み込めず、首を傾げた。
「どんなイベントなんだよ、それ? なんでみんなそんなに浮かれてんだ?」
恵子が信じられないといった顔でリュウを振り返る。
「本気で言ってるの、リュウ!? 日本最大級の学園対抗交流祭よ! 全ての魔術アカデミーと霊的エリートが一堂に会するんだから!」
リュウはゆっくりと瞬きをし、ようやく情報が処理され始める。
「……全ての、学園?」
「そうよ! あんたがいた死神学院も当然含まれるわ」
恵子が答えた。
リュウは黙り込んだ。
その気だるげな視線が、掲示板の文字をなぞるように降りていき、太字で印刷された一節で止まる。
『各学園は、公式代表として【五人の優秀な生徒】を派遣することを義務とする』
零がまっすぐにリュウを見つめた。
離れた場所にいる凛もまた、眉を僅かに寄せ、視線の端でリュウのシルエットを捉えている。
そして恵子は……満面の笑みを浮かべ、リュウの顔を覗き込んだ。
三方向からの圧倒的な威圧感に押され、リュウは両手を上げながら一歩後退した。
「……頼むから、そんな顔で俺を見るのはやめてくれ」
「どうして?」
恵子が、わざとらしいほど無垢な声音で問い返す。
「その目はよく知ってる。お前ら絶対、頭の中でロクでもないこと考えてるだろ」
零が短く溜め息をついた。彼女は胸の前で腕を組み、少し見下すような目でリュウを見た。
「……自意識過剰よ。あんたが心配する必要なんてないわ、馬鹿」
リュウは胸を撫で下ろし、長く安堵の息を吐き出した。
「あぁ、助かった。生まれて初めて、お前の言葉が救いのように聞こえたよ、零」
零は無表情のまま、冷ややかに言葉を返した。
「当たり前でしょ。あんたが公式代表に選ばれる可能性なんて……零パーセントなんだから」
恵子が即座に吹き出し、爆笑した。間抜けな顔で棒立ちになるリュウへの配慮など微塵もなかった。
離れたところで凛が鼻を鳴らし、窓の外へと視線を戻しながら、口元に浮かんだ僅かな笑みを隠した。
遥か高み――薄暗い三階の廊下の、曇り硝子の向こう側。
鈍く光る一対の瞳が、その喧騒をじっと凝視していた。




