#3 — 冥府アカデミーに転生した少年
「黒雪 零だ」
その声は、無機質で平坦だった。まるで感情という機能を削ぎ落としたかのように。
零の長い黒髪が朝風にたなびき、その鋭い双眸はまっすぐにリュウを射抜いている。その視線に、リュウは無意識のうちに喉の奥が震えるのを感じた。
リュウは数回瞬きをし、這い上がってくる緊張感を無理やり押し殺す。「……ど、どうも。リュウ・セイロウだ」
零は目を細め、リュウを爪先から頭のてっぺんまで、蔑むような視線で一瞥した。
「……バカに見えるわね」
「おい……やっとの思いで辿り着いた人間に対する挨拶がそれかよ」
零は短く溜息をついた。リュウという存在に関わること自体、ひどく退屈だと言わんばかりの仕草だ。
「貴様を案内するよう命じられている。ついてきなさい。……ここでバカな真似だけはしないことね」
零は背を向け、門の奥へと足を踏み入れた。リュウは慌てて黒い鞄を肩に担ぎ直し、その後を追う。
正門の境界線を越えた瞬間、リュウの足が止まった。
その光景に、思わず目を見張る。冥府アカデミーは、あまりにも荘厳で、そして矛盾に満ちていた。古臭く無機質だった死神学院とは天と地ほどの差がある。白亜の校舎が優雅な建築美を誇り、東側には漆黒の水を湛えた湖が静まり返っている。道沿いには大理石の石畳と、整然と並ぶ桜並木。
美しい。だが、その美しさの裏側には、常に「死」の気配が潜んでいた。
中央広場を横切る際、数百人の女子生徒たちが一斉に足を止めた。
静寂が訪れる。すべての視線がリュウに突き刺さる。それは好奇心などではない。鋭く、刺すような、隠しきれない敵意と嫌悪の入り混じった視線だ。
「……なぁ、なんでアイツら、俺を害虫か何かを見るような目で見てるんだ?」
リュウは零の隣に並ぼうとしながら、小声で尋ねた。
「貴様が男だからよ。この場所において、貴様の存在は『許されざるもの』なの」
零は一度も振り返ることなく、冷淡に言い放つ。
「おいおい、それってちょっと差別的じゃないか?」
「いいえ。単なる事実よ」
周囲の女子生徒たちの間で、羽虫の羽音のような囁き声が広がり始める。
『見て、本当に男よ……』
『死神学院のゴミが、どうしてここに入れたの?』
『せいぜい、長くは持たないでしょうね』
リュウは頬を掻きながら、引き攣った笑みを浮かべるしかなかった。まるで、解体されるのを待つ実験用のウサギになった気分だ。
零が足を止めたのは、モノクロームの建築様式が際立つ建物――冥府アカデミー学園長室の前だった。
リュウは深く息を吸い込み、激しく刻む鼓動を鎮めようとする。
「……よし。まずはここのトップに顔を通さないとな」
零は無言で扉を開いた。
広々とした室内は静まり返り、圧倒的な威圧感が漂っている。重厚な執務机の向こう側で、黒雪 宗厳が静かに座っていた。彼はゆっくりと顔を上げ、鋭い眼光をリュウに向けた。
「……お前がリュウ・セイロウか。死神学院からの転入生だな」
リュウは一歩前に出た。転入書類を差し出すその手が、わずかに震える。
「……はい。死神学院より公式の転入書類を持参いたしました」
宗厳は書類を受け取り、数分間の沈黙の中でそれを読み耽った。
「お前は、この学院に滞在する間、東寮に入ることになる」
宗厳の声は重く、抗いがたい威厳に満ちていた。
「わかりました」
「そしてここにある間、冥府アカデミーのすべての規則に従え。……決して、違えることは考えるな」
リュウは一瞬沈黙した後、持ち前の軽口で空気を和らげようとした。
「五体満足で帰るつもりですので。バカな真似はしませんよ」
隣に立つ零が、恥ずかしさに耐えかねたようにこめかみを押さえた。父の前でのリュウの不遜な態度に、顔が赤らんでいる。一方、宗厳は数秒間リュウをじっと見つめた後、書類を返した。
「……零」
「はい、父上」
「彼を部屋まで案内しろ。迷わせるな」
「承知いたしました」
リュウは丁寧に一礼し、零に従って部屋を出た。扉が完全に閉まる直前、宗厳はリュウの背中を凝視し続けていた。その瞳は、常人には見えぬ「致命的な何か」を捉えているかのように、深く沈んでいた。
「お前のとこの学園長、めちゃくちゃ怖いな。いつもあんな感じか?」
廊下に出た途端、リュウが囁いた。
「口を慎みなさい。私の父よ」
「……あ、ああ。悪い」リュウは慌てて口を閉ざした。
静まり返った長い廊下を歩いていると、突然、背後から明るい声が響いた。
「おーい、零ちゃーん!」
茶髪の少女が、活気溢れる様子で手を振りながら駆け寄ってくる。彼女の放つ明るいオーラは、この重苦しい学院の空気とは真逆だった。
彼女はリュウの目の前でぴたりと止まると、目を丸くして彼をまじまじと見つめた。
「この人……もしかして、噂の新しい生徒!?」
「ええ」零が短く答える。
「わあ! すごーい! 本物だ!」
少女の瞳が好奇心でキラキラと輝く。「あたしは水野 恵子! 君の名前は?」
「あ、リュウ・セイロウだ。よろしくな、恵子」
「すごぉい……男の人と握手するの初めて。肌の質感が全然違うんだね!」
「……なんで絶滅危惧種を見るような反応なんだよ」
「実際に希少種だからよ。バカ」
恵子が答える前に、零が冷たく割って入った。「早く寮へ案内しないといけないの」
「あたしも行く! 今、暇だし!」
恵子は零の刺すような視線を無視して、快活に笑った。
零は深く溜息をついた。リュウは、この異常な場所において、恵子こそが唯一まともな(少々騒がしいが)友人になれるかもしれないと感じ始めていた。
学園長室の窓越しに、宗厳は彼らの後ろ姿を見下ろしていた。風が彼の長い黒髪を揺らす。
「……やはり、彼が『アノマリー』か」
ぽつりと、独り言を漏らす。
ギィ……。
背後の扉が再び開いた。
「父上」
宗厳はゆっくりと振り返る。そこには腕を組み、冷徹な表情で立つ凛・アオイ(リン・アオイ)の姿があった。
「……転入生を見たわ」
「それで……どう思った?」
「バカ面下げて、弱そうで、救いようのない無能に見えたわね」
凛は迷うことなく断言した。
宗厳は一瞬黙り込んだ。「……見た目だけで人を判断するな、凛」
「もしあいつが少しでも問題を起こしたら、零が動く前に私があいつを叩き潰してやるわ」
「相変わらず攻撃的だな、お前は」
「零が甘すぎるのよ」
凛は鋭く言い捨てると、そのまま踵を返して去っていった。
宗厳は小さく溜息をつく。二人の娘の関係は、常に研ぎ澄まされた二振りの刀が火花を散らしているようだった。
[死神学院・長老評議会]
その部屋は、重苦しく、昏い空気に満ちていた。ローブを纏った数人の老人が、黒曜石の机を囲んでいる。
「……あの子は、冥府アカデミーに到着したか?」
「ああ。宗厳と接触したとの報告が入っている」
「封印の反応はどうだ?」
「今のところは……安定している」
静寂が部屋を支配する。
一人の長老が、古びた羊皮紙の巻物をゆっくりと広げた。そこには、巨大な異形を縛り付ける漆黒の鎖――「スサノオの封印」の紋章が描かれている。
「もしスサノオの封印が完全に砕ければ……この世界と黄泉の境界は崩壊する」
老人は震える声で呟いた。
「そうなれば、『アノマリー』は完全な形で再誕するだろう」
誰も答えなかった。彼らは知っているのだ。これは正しい選択だったのかを問う段階ではない。その「混沌」が訪れたとき、誰が生き残れるかという問題であることを。
「クソ……なんだか落ち着かないな、ここは」
リュウは、ふかふかのベッドに体を投げ出しながら独り言を漏らした。
今日はあまりにも長い一日だった。女子生徒たちの忌まわしげな視線、零の凍てつくような態度、そしてこの異様な学院の空気。
リュウは目を閉じ、胸を締め付けるような疲労を忘れようとした。
やがて、彼は深い眠りに落ちていく。
――暗黒。虚無。静寂。
夢の次元で、リュウはゆっくりと目を開けた。「……ここはどこだ?」
そこは光を喰らう永遠の闇だった。すると……。
――ガランッ!
巨大な金属の激突音が響き渡り、耳を劈いた。
リュウは硬直した。目の前には、闇を貫く無数の巨大な黒い鎖が張り巡らされ、何かもっと巨大な「存在」を繋ぎ止めている。
リュウの心臓が激しく鼓動を打つ。意思に反して、体は闇の中心へと引き寄せられていく。
一歩。二歩。
近づくにつれ、空気の圧力が喉を締め付ける。
そして……。
漆黒の霧の向こう側で、一対の瞳が開いた。
それは山のように巨大で、赤黒い残り火のように不気味に発光している。
リュウがその瞳の奥に潜む「正体」を視認する、その直前――。
――バキィッ!!
鎖の一本が猛烈な力で軋み、黒い雷光を撒き散らした。
『ついに……見つけたぞ。フハハハハハ!』
その声は、リュウの魂を根底から揺さぶるような、禍々しき哄笑を伴って響き渡った。




