#2 — 黄泉ノ魔法女学院
――その夜、死神学院の寮には薄い霧が立ち込めていた。
石造りの廊下に並ぶ魔導灯が、仄暗い青色の光を放っている。学院の空気は、いつも以上に静まり返っていた。
リュウ・セイロウは、狭いベッドの上に身を投げ出し、埃の積まった天井をぼんやりと見つめていた。
「……女子校、か」
まだ現実感が湧かない。
これまでの人生、女性とまともに会話したことなど片手で数えるほどだ。それも、学院の門の近くにある古びた商店の婆さんくらいなものである。
それが今や、冥府アカデミーへの転入。
死神学院の評議室よりも不気味だと噂される場所だ。
「……クソ、長老たちは正気を失ったに違いない」
リュウは枕を顔に押し付け、小さく毒づいた。
コン、コン、コン。
控えめなノックの音が響く。
「入っていいぞ」
扉がゆっくりと開いた。
短髪の茶髪に、がっしりとした体躯の少年が二つの冷えた飲料缶を手に歩み寄ってくる。
「噂は本当だったんだな。本当にお前、ここを追い出されるのか」
そう言ったのは、コーダ・オグラ。
この学院で、リュウに対して蔑んだ視線を向けず、まともな神経で会話をしてくれる唯一の友人だ。
「ゴミみたいなニュースほど、回るのが早いもんだな」
リュウは上半身を起こし、力なく応えた。
コーダは手に持っていた缶の一つをリュウに投げた。
「向こうに行っても、女相手に問題を起こすなよ。冥府の連中は、男を蛇蝎のごとく嫌ってると聞くからな」
コーダは窓際の椅子に腰掛け、忠告するように言った。
缶を一口啜ると、コーダは真剣な眼差しでリュウを見つめた。
「……長老たちの決定に間違いはないと思うか? 怖いか、リュウ」
「さあな。ただ、嫌な予感はしてる」
リュウは少しの間沈黙した。手元の缶を見つめた後、乾いた笑いを漏らす。
「まあ、少なくとも毎日女を拝めるってのは悪くないかもな」
コーダもつられて小さく笑った。
それも無理はない。
黄泉ノ魔法女学院は、単なる魔術学校ではないからだ。そこは、日本で最も優秀な「死の魔術師」たちを育成する、いわば死神たちの揺り籠。
校則を破れば、その生徒は跡形もなく消されるという。
そこに通う乙女たちは、どんな悪魔よりも恐ろしいとも言われている。そして最も有名なのが、黒雪家の当主――黄泉の門番であり、冥府アカデミーの評議会議長だ。
「俺がお前なら、今夜のうちに逃げ出してるぜ」
コーダが静かに言った。
「生憎だが、逃亡生活を送れるほど金持ちじゃないんだ」
リュウは自嘲気味に返した。
二人は共に笑い合ったが、その笑い声は長くは続かなかった。
再び静寂が訪れる。コーダは長い間リュウを見つめた後、ようやく重い口を開いた。
「……リュウ」
「ん?」
「お前……自分の中に『何か』がおかしいって、感じたことはないか?」
リュウの表情が一変した。
その問いは、彼がずっと心の奥底に隠し続けていた場所を鋭く突き刺した。リュウは視線を窓の外へ逸らし、深い夜の闇を見つめた。
「……たまにな」
コーダは長く溜め息をつき、立ち上がった。
「ま、とにかく……あっちで死ぬんじゃねえぞ」
「縁起でもない。それが別れの挨拶かよ」
「一番現実的な挨拶だ」
その辛辣な言葉に、リュウは小さく苦笑いを浮かべた。
――黄泉ノ魔法女学院、通称【冥府アカデミー】。
そこは、古風で優雅な宮殿のように威風堂々とそびえ立っていた。
高い白い壁が敷地全体を強固に囲んでいる。薄い霧が石庭を包み込み、学院の中央に位置する「黒の湖」は、鏡のように静まり返っていた。
しかし、その美しさの裏側には、常に死の気配が潜んでいる。
隠された地下の一室。
数人のローブ姿の者たちが、巨大な黒曜石の机を囲んでいた。吐く息が白くなるほどに空気は冷え切り、角に置かれた古い時計の刻む音だけが静寂を支配している。
上座に座るのは、長い黒髪に鋭い眼光を宿した男。
黒雪宗厳。黒雪家の当主であり、冥府アカデミーの最高権威者である。
「……本当に、あの子をここへ送るつもりなのですか?」
一人の老婆の声が沈黙を破った。
宗厳は手元の書類をゆっくりと閉じた。「ああ」
「死神学院の奴らは正気か。我々の学院に、時限爆弾を放り込むつもりか!」
「大袈裟だぞ」別の男が冷ややかに言った。
「大袈裟だと?」老婆が鋭く睨みつける。「死神評議会の報告書を読んだはずでしょう?」
再び、部屋は静寂に包まれた。
一人の男が、呪文を唱えるような低い声で囁いた。
「知っているはずだ。あの少年が……【アノマリーの器】であることを」
空気の重圧がさらに増した。宗厳は椅子の背もたれに体を預けたが、その瞳には僅かな懸念が隠しきれずにいた。
「……まだ、単なる仮説の段階だ」宗厳が言う。
「仮説だと?」老婆は鼻で笑った。「魔力の不安定さ、異常な魔術反応、そして身体周辺の霊的干渉。全ての兆候が、それを肯定している!」
「それでも、封印は完全には解けていない」宗厳は冷静さを保ったまま応える。
「だからこそ、危険だと言っているのだ!」
そこにいる全員が理解していた。もし「アノマリー」が真に覚醒すれば、この世界の均衡など一夜にして崩壊することを。
「手遅れになる前に、処分すべきだ」評議会の一人が、躊躇なく冷酷に告げた。
しかし、宗厳は静かに首を振った。「否だ」
全員の視線が彼に集中する。
「まずは監視を行う。それが先決だ」
「……もし、暴走した場合は?」
「その時は……」
宗厳の眼光が、より一層鋭さを増した。「……この私が直接、息の根を止める」
部屋は再び凍り付いたような沈黙に包まれた。
しばらくして、宗厳は椅子から立ち上がった。
「この少年の存在は、全生徒、全教師に秘匿せよ」
「……特級インストラクターたちにもですか?」
「全てだ」
反論する者は誰もいなかった。もしこの情報が漏れれば、その瞬間に混沌が幕を開けることを、彼らは痛いほど知っていたからだ。
会議が終わった後、宗厳は私室のバルコニーに立ち、眼下に広がる黒い湖を見つめていた。夜風が強く吹き、彼の頬を打つ。
コン、コン、コン。
「入れ」
扉が開き、二人の少女が同時に足を踏み入れた。
一人は、氷の結晶のように冷たい瞳を持つ黒髪の美少女。黒雪零。
その隣には、瓜二つの容姿を持ちながら、より鋭く攻撃的な眼差しを向ける少女――凛・アオイ。
「父上、お呼びでしょうか」
零が、無機質ながらも敬意を込めたトーンで尋ねる。
宗厳はゆっくりと振り返った。
「明日、死神学院からの転入生が到着する」
凛が即座に眉をひそめた。「……男子生徒?」
「ああ」
「冗談じゃないわよね、父様?」
「冗談ではない」
凛の瞳が、一瞬にして嘲笑の色に染まった。「死神学院の連中、ついにボケたのかしら」
零は沈黙を守っていたが、その顔には明らかな不快感が滲んでいた。
「……なぜ、ここへ?」零が問う。
「特別な監視が必要だからだ」
「監視?」
宗厳は二人の娘の側へと歩み寄った。
「貴様ら二人に、奴の監視を命じる。滞在期間中、片時も目を離すな」
凛は腕を組んで反論する。「どうして私たちが?」
「万が一の際、対処できるのは貴様らしかいないからだ」
零は数秒間、父をじっと見つめた。「……彼は、危険なのですか?」
宗厳はしばし沈黙した後、真意の読めない声で答えた。
「……ただの、問題児だ」
それだけだった。補足の説明はない。
しかし、その父の態度こそが、零に確信させた。ここには、決して明かされない巨大な秘密が隠されているのだと。
対照的に、凛は興味を失ったように鼻を鳴らした。
「……もし問題を起こしたら、その瞬間に私が叩き出してやるわ」
「私の許可なく動くことは許さん、凛」
宗厳の厳しい声が飛ぶ。
「……わかったわよ、父様」凛は小さく舌打ちした。
翌朝。
黄泉ノ魔法女学院の巨大な正門の前に、一台の黒い車が停まった。
辺りは深い霧に包まれ、どこか禍々しくも幻想的な雰囲気を醸し出している。
リュウは車から降り、黒いバッグを肩に担ぎ直した。
彼が顔を上げた瞬間、息が止まりそうになった。目の前には、巨大な白い門がそびえ立ち、その中央には「黄泉」の紋章が刻まれている。
その場所から放たれる冷気は、骨の髄まで突き刺さるかのようだった。
「……気味が悪い場所だな、ここは」
リュウがぽつりと呟く。
一歩、踏み出そうとしたその時。
ドンッ。
目の前に、誰かが音もなく鮮やかに着地した。行く手を阻むように。
風にたなびく長い黒髪。その少女の眼差しは、射抜くように鋭い。
一切の挨拶もなく、少女は詰問するように口を開いた。
「……貴様が、転入生か?」
リュウは一瞬、呆気に取られた。「……え?」
少女の視線が、リュウの瞳の奥まで見透かすように突き刺さる。
「私は黒雪零。以後、見失うな」




