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#18 — 散りゆく亀裂

[死神学園 — 中央評議室]


室内の空気は、塵の粒子さえもその動きを止めたかのように重く、澱んでいた。


コーダは部屋の中央に直立不動のまま、拳を太腿の横で固く握り締めていた。こうべを垂れながらも、正面から注がれる無数の視線が、己の脳髄までをも抉り出そうとしているのを肌で感じていた。


信夫ノブテツヤが、コーダを冷徹に見据える。

「コーダ」


全身の筋肉が強張る。「……は、はい、長老」


「お前は、リュウ・セイロと最も深く交わっていた生徒だ。一つ、訊ねたいことがある」


コーダの眉間に深い溝が刻まれる。「なぜ……今になってそのようなことを訊くのですか、長老」


居並ぶ長老の一人が、抑揚のない声で割って入った。

「リュウが我が死神学園に在籍していた期間、彼に何らかの『異変』はなかったか?」


「異変……?」コーダは反芻した。その声は喉の奥で澱み、掠れていた。


「異常な徴候だ。精神の錯乱、あるいは……肉体構造そのものの歪み。心当たりはないか」テツヤが畳みかける。


コーダは僅かに沈黙した。常に孤立を選んでいたリュウの背中が、脳裏を過る。彼はゆっくりと首を横に振った。「ありません、長老。奴はただの、救いようのない頑固者です」


長老たちは意味深な視線を交わし合った。その無言の目配せに、コーダの項の毛が逆立つ。室内の空気は、一瞬にして刺すような冷気へと変貌した。


「一体、何があったのですか」コーダは意を決し、正面の長老陣を凝視した。「リュウの身に、何かが起きたのですか」


テツヤの瞳は微動だにしない。その眼光はさらに凍てついていく。「リュウは、冥府において災厄を引き起こした」


――ドクン。


コーダの心臓が、一瞬だけ脈動を止めた。


「災厄……?」


「奴は『黄泉の国』の飽和した呪力に汚染された疑いがある。その自意識は、すでに内側から磨滅しつつある」


コーダの目が見開かれた。「な……何だと、っ!?」


「現在、冥府の統治組織は奴を地下隔離室へ幽閉し、封印の鎖で拘束している」


「隔離……」コーダは無理やり声を絞り出した。「奴の容態はどうなんだ!? 無事なんだろうな!」


長老たちは再び顔を背けた。彼らは手元の羊皮紙を無造作に巻き取り始め、下に佇むコーダの存在を、最初からなかったかのように排斥した。


---


[冥府女学院 — 寄宿舎区域]


不穏な囁きが、学園の廊下を這うように伝播していく。


「聞いた? あの少年、長老会の次の指示が出るまで地下隔離室に幽閉されたままなんですって」


「ええ。でも、その方がいいわ。あの男は危険すぎる。あの夜、東側の区域がどうやって消し飛んだか忘れたの?」


「……まさか、あの男自身が黄泉の『忌み子』なんじゃ……」


「さあね。でも、あの男には何か決定的な価値があるみたいよ。だからこそ学園側も、数百年の伝統を破ってまであの男を囲っているんでしょう」


鉄格子の前を通り過ぎるたび、生徒たちの歩調は目に見えて緩やかになった。その鉄格子の先は、仄暗い地下へと続いている。彼女たちの視線には、憶測と、恐怖、核心的な嫌悪が混ざり合っていた。


レイとケイコが進む先、同じ方向へ歩いていた数人の生徒たちが、怯えたように隣の廊下へと急に針路を変えた。二人の周囲だけが、ぽっかりと空白の空間に変わる。


――ガシャァンッ!


厚みのある魔導書の束が床に激突し、レイの爪先のわずか数センチ前で無残に散らばった。


本を落とした生徒は、その場に凍りついた。顔面を蒼白に染め、怯えた瞳でレイを見上げる。


「す、すみません! 故意ではありません!」少女は震える手で本を掻き集めると、脱兎のごとく逃げ去った。


レイは足を止めた。人の気配が途絶えた廊下の先を、ただ冷徹に見据える。その拳が、きりきりと音を立てて握り締められた。


隣に立つケイコは、ただ俯き、床に伸びる二人の影を見つめることしかできない。「……あいつらの邪推は、もう常軌を逸しているわ」


「人間など、己の理解を超えた存在を前にすれば常にそうだ」背後からリンが淡々と告げた。彼女は両腕を組み、その表情にはいかなる重圧も宿っていない。


「だけど、これはあんたの言う通りあんまりよ、リン」


「恐怖しているのよ、彼女たちは」リンは冷酷に言葉を遮り、廊下の隅で密談を交わす生徒たちへ鋭い視線を投げた。「そしてこの世界において、恐怖という伝染病は、血液の循環よりも速く駆け巡るものよ」


ケイコは黙した。眼前に続く廊下が、妙に長く、実に見窄らしく感じられた。


---


[太陽神学園 — 隔離区域]


――ピッ、ピッ、ピッ。


重厚な鋼鉄壁に囲まれた室内において、呪力測定器の電子音だけが、唯一の生命の燈火として響いていた。


エイジはコンクリートの床に強固に固定された鉄椅子の上で、生気を失った瞳を床の反射に向けていた。心臓の奥が、 抉られるように痛む。胃の腑から競り上がってきた猛烈な熱量が、 彼の喉頭を容赦なく締め上げた。


「が、はっ……く、くそ……っ!」


首筋の皮膚の下で、毛細血管の破裂を思わせる深紅の紋様が侵食を始めていた。それは脈動しながら這い上がり、 悍ましい古の呪詛刻印を形成していく。


刹那、彼の意識は暴力的に剥奪された。


脳髄を直接灼くような鮮烈な視界ヴィジョンがエイジを襲う――血に濡れた黒髪。底のない暗黒の双眸。そして、 泥濘む黒い沼の底へと沈みゆく者が上げる、 魂を引き裂くような断末魔の叫び。


エイジの眼球が血走り、 側頭部の血管が怒張した。「誰だ……お前は……っ!」


――ピィィィィィィィィィッ!!


計測器の魔導波形が垂直に跳ね上がり、 鼓膜を劈くような警告音を室内に響かせた。


監視ガラスの向こう側で、 鎧を纏った二人の衛兵が色を失う。


「エネルギーの奔流が三割増しに達した!」一人が怒号を上げる。


「鎮圧術式を起動しろ! 急げ!」もう一人が叫ぶ。


拘束具から、 刻印を伝って高電圧の霊的電流がエイジの両手足へと一斉に送り込まれた。少年の肉体が硬直し、 極限の電撃によって全身の筋繊維が断裂寸前まで膨れ上がる。


「あああああああああああああっ!!」


狂乱の絶叫が隔離室の壁に反響した。 充血し、 毛細血管の崩壊した角膜の裏側には、 あの見知らぬ黒髪の少年の輪郭が、 消失を拒むように克明に焼き付いていた。


---


[日本北郊 — 寂れた霊的都市]


地方の呪術学園の制服を纏った一人の少年が、 泥酔したようによろめきながら歩いていた。 片手で胸元の生地を 握り潰さんばかりに強く毟っている。


「がはっ……はぁ、 はぁ、 はぁ……っ」


はだけた襟元の奥で、 門の亀裂を模した深紅の刻印が不気味に明滅していた。 額からは病的な虚脱汗が溢れ、 その瞳は重度の妄想症パラノイアに侵されたように周囲を徘徊する。


「なぜだ……なぜ、 俺の身体が……」


背後から、 規則正しい足音が近づいた。


少年は弾かれたように振り返った。 薄暗い小路の境界、 霧の向こう側に一人の影が佇んでいる。 夜風に揺れる黒髪。 その身に纏うのは、 闇と同化するようなイザナミ学園の漆黒の制服。


藤田不動ふじた・ふどうが、 昏い笑みを浮かべた。「随分と手間を取らせてくれたな。だが……ようやく見つけたぞ」


少年は恐怖に足をもつれさせ、 一歩後退した。「だ、 誰だ……お前は! 来るな!」


不動の足元に広がる影から、 粘り気のある黒泥が染み出し、 飢えた蛇の群れのごとくアスファルトの上を這いずり回り始めた。


「お前の純粋なたましいは、 すでに理解しているはずだ」


不動は静かに右手を掲げ、 空気を握り潰すように指先を折り曲げた。


少年の胸に刻まれた赤い紋様が、 突然、 暴虐的な拍動を開始した。 皮膚を突き破らんばかりに隆起し、 内側の肉を割って何かが現世へ出ようと蠢く。


「ぎゃあああああああああああああっ!!」


少年は地面に膝を突き、 口から悍ましい黒液を吐き散らしながら、 爪が剥がれるのも忘れてアスファルトを掻きむしった。


不動は歩を進める。 静かに、 感情を完全に削ぎ落とした足取りで。


「これほどの、 矮小な破片フラグメントか……」身悶える肉体を冷徹に見下ろし、 不動は低く吐き捨てた。「……器の無駄遣いだな」


少年の眼球が完全に反転し、 顔面の全血管が死人のように黒く変色していく。


――ドォォンッ!!


純度の高い黒い呪力の爆発が巻き起こり、 周囲のアスファルトを木端微塵に粉砕した。 少年の最後の絶叫は、 その静寂の爆音の中へと完全に圧殺された。


---


[冥府女学院 — 地下隔離室]


深淵の闇が満ちる隔離室の中、 封印の祭壇の上で結跏趺坐を組んでいたリュウが、 突如として双眸を開いた。


錆びついた短剣を心臓に直接 突き立てられたかのような、 凶悪な激痛が彼の五体を硬直させる。


「がふっ……あ、 ぁ……っ!」


彼は胸元を強く掻きむしり、 皮膚を真っ赤に腫れ上がらせた。 呼吸は完全に途絶し、 肺胞はその拡張を拒絶するように縮み上がる。


僅か一瞬の出来事だった。 遥か彼方から届いた、 絶望に満ちた死の断末魔の残響が、 彼の鼓膜の奥へと強制的に侵入してきたのだ。 あまりにも生々しく、 あまりにも濃密な絶望。


リュウは目を見開き、 闇の中で荒い呼吸を繰り返した。「クソが……今度は、 一体何が起きている……!」


それと同時に、 数メートル先の石のデスクの上に放置されていた、 彼が持ち帰ったはずの「全国交流戦」の青銅の徽章が、 どす黒い血のような赤光を放ちながら激しく共鳴を始めていた。


---


不動は、 黒い粘液の斑点に汚染された街路の廃墟の中に立っていた。 周囲の濃霧が、 彼の漆黒の法衣の裾に纏わりつくように渦巻いている。


彼の靴底の下、 息絶えた少年の胸部に刻まれていた『黄泉の門』の呪詛刻印は、 既に光を失い、 不動の影の中へと完全に吸収されていた。


不動は顔を上げ、 北の空に浮かぶ、 叢雲に隠れた三日月を仰ぎ見た。 その口角が、 奇怪なほどに吊り上がる。


「あの祭典こうせんか……」


彼は、 深紅のエネルギー火花が這い回るその拳を、 強く握り締めた。


「……散らばった器の残骸を 収穫するには、 誂え向きの祭壇になりそうだな」

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