#19 — 遠ざけられた空間
冥府女学院 — 中央廊下]
朝の喧騒に沸く中央廊下に、霊力エレベーターの扉が開く金属音が響いた。しかし、その籠から一歩の足音が踏み出された刹那、廊下の騒めきは嘘のように凍りついた。
リュウが歩を進める。
彼の左手首には、漆黒の封印輪が肉に食い込むように密着していた。その表面に刻まれた呪詛の文様は、数秒おきに血のような鈍い赤光を明滅させ、周囲の霊気を歪ませている。
談笑していた三人の女子生徒の笑い声が、唐突に途切れた。彼女たちの視線はリュウの手首に釘付けになり、次の瞬間には、弾かれたように背中をロッカーに叩きつけるまで後退した。
一歩、また一歩とリュウが進むたび、前方の群衆がモーセの海のように左右へ割れていく。誰が命じたわけでもなく、廊下の中央にぽっかりと無機質な空白の道が形成されていけた。
リュウはただ前だけを見て歩く。その隣では、ケイコが腕の中の羊皮紙の束を、端が歪むほどに強く抱き締めていた。周囲から漏れ聞こえる忌々しい密談の数々に、彼女の横顔には怒りの色が隠せない。
「……あの男よ」
「まだ、あの忌まわしい封印が嵌まったままなのね」
「この前の事件の……あの不気味な闇の残滓、まだ消えていないんじゃない?」
リュウと進行方向が同じだった数人の生徒は、踵を返すと、彼と交差するのを避けるように西校舎のルートへと逃げ込んでいく。
アヤネは僅かに俯き、怯えたように左右の視線に視線を走らせた。「リュウ……その、大丈夫?」
リンは表情一つ変えずに歩調を刻む。その切れ味の鋭い双眸が、囁き合う生徒たちを冷酷に射抜くと、目が合った者は一様に息を詰まらせて顔を背けた。
「放っておきなさい」リンが淡々と、しかし廊下の静寂を明晰に切り裂く声で言った。「人間は常に、己の視界に収まりきらない不可解な存在を遠ざけようとするものよ」
リュウは短く、自嘲気味に鼻で笑った。そこには憤怒も落胆もない。「あぁ。肌で感じるよ、以前との違いをな」
廊下の中央に設置された霊的検問ゲートをリュウが通過した瞬間、頭上のインジケーターが激しく赤色に点滅した。
その音に、周囲の歩行が完全に停止した。数人の生徒は本能的に防御の印を組み、身構える。
――三秒の沈黙の後、インジケーターは再び正常な緑へと戻り、安定した。
リュウは一瞬だけセンサーを仰ぎ見たが、すぐに興味を失ったように視線を前方へと戻した。
その相貌は、完全に感情を削ぎ落とされたように平坦だった。
教室の引き戸が開く。
室内に満ちていた朝の喧騒が、爆発的な沈黙によって圧殺された。数十対の眼球が、一斉に教壇の境界へと向けられる。
そこに、リュウが立っていた。
挨拶を交わす者はいない。身じろぎする者さえいない。紙が擦れる音も、ペンのノイルすらもが、空間から完全に排除されていた。
リュウは億劫そうに室内へ視線を巡らせ、やがて己の座席がある一角へと歩を向けた。
彼の机を中心として、前後左右の席が完全に『空白』と化していた。半径二メートル以内にあったはずの机と椅子は、乱雑に押し退けられ、教室の隅へと無残に積み上げられている。
クラスの全員が、明確に彼の領域を隔離していた。
リュウの背後に立っていたケイコが、拳をきりきりと音を立てて握り締める。その buku jari(指の関節)が白く変色していた。「あんたたち……いくら何でもあんまりよ……っ!」彼女の声は怒りで震えていた。
最前列にいた一人の女子生徒が、慌てて窓の外へと視線を逸らし、教科書に目を落とす平然を装った。
リュウは一言も発せず、机の列を通り抜けると、己の椅子の背を引き割った。
――ギィィッ!
木製の脚が床を擦る不快な摩擦音が、静寂の室内に異様に響き渡る。その音に、隣の列の数人がびくりと身体を強張らせた。
――ドンッ!!
激しい衝撃音が教室を震撼させた。レイが己の椅子を蹴り飛ばすように荒々しく引き摺り、それをリュウの机の真横へと傲然に叩きつけたのだ。
レイは椅子に腰を下ろすと、片手で頬杖を突き、未だに盗み見てくる生徒たちへ冷徹極まりない視線を放った。
「その貧相な眼球をこれ以上動かしたいのなら、ロッカーの中にでも置いてくることね」
視線で嬲っていた者たちが、一斉に深く頭を垂れた。
それに続くように、ケイコが憤慨した様子でリュウの反対側の机に鞄を叩きつけた。アヤネもまた、数秒の躊躇の後に、己の机を彼らの円陣へと強引に引き寄せた。
リンだけは、後方の壁際に背を預けたまま動かない。その冷徹な双眸が見つめているのは、他の生徒たちではなく、リュウの肩の数センチ上に揺らめく虚空だった。
極めて希薄で、常人には不可視の領域。
しかしリンの眼には明確に見えていた――リュウの皮膚の直下で、未だに濃密な漆黒の残滓が、微かに蠢動を続けているのを。
教室の扉が再び開き、教官が書類を手に足を踏み入れた。しかし、その足調は、室内に充満する異常な圧力を感知した瞬間に一秒間完全に停止した。
教官の視線は直にリュウへと向けられ、そして彼の手首に嵌まる黒い封印輪へと落ちた。
「……教科書を開け。本日の講義を開始する」
教官の声は、いつもより明らかに硬く、拒絶の響きを帯びていた。
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[冥府女学院 — 長老評議室]
仄暗い光に満ちた会議室の中央で、「全国霊的交流戦」の紋章を模した三次元ホログラムが緩慢に回転していた。
その青白い燐光が、楕円の卓を囲む十数人の長老たちの険しい顔を照らし出している。
「学園内の治安は悪化の一途を辿っている」左側に座る長老の一人が、卓を指先で叩きながら口を開いた。「生徒たちの間に蔓延する恐怖は、すでに日常の鍛錬の安定を脅かすレベルに達しているぞ」
「だが、交流戦の辞退など論外だ」対面の長老が遮る。「我が冥府が今更撤退してみマロ、他学園の連中は即座に我が方の脆弱性を嗅ぎつけるだろう」
異論を唱える囁きが次々と連鎖し、室内の温度を急速に上昇させていく。
部屋の最奥、ソウゲンは卓に背を向けたまま、微動だにとせず立っていた。その両手は後ろ手に組まれている。
「――それで、あの少年はどうするのだ?」
最上席に座る老長老の問いに、すべての喧騒が文字通り凍結した。室内が静まり返る。「リュウ・セイロを、このまま交流戦の戦力として投入し続けるつもりか?」
ソウゲンはゆっくりと双眸を閉じた。「私からの最終決定は、まだ下していない」
「これほどの危険な賭けを、まだ続けるというのか!?」長老の声が怒号へと変わり、卓を激しく叩きつけた。「奴はいつ爆発するかも分からん爆弾だぞ……!」
――ゴォォォッ!!
長老がその言葉を紡ぎ終えるより早く、圧倒的な霊圧の質量が、錨のように空間へと投下された。卓を囲む全員の肩に物理的な重圧が圧し掛かり、肺の空気を強制的に搾り出される。
「彼の手首の封印が破られぬ限り」ソウゲンの重低音の声が、室内の全空気を圧殺した。「リュウ・セイロは我が冥府女学院の生徒だ。そして……この部屋の誰一人として、彼の名を出場名簿から抹消する権利など持ってはいない」
その絶対的な威圧の前に、再び声を上げる者は誰一人として存在しなかった。




