30.傷
「今日は疲れたんじゃない? 先に休んでいいよ」
レムールが、柔らかい声で言う。
「でも……」
「構わないよ。僕は少しやることがあるから」
穏やかに微笑む。
それ以上踏み込ませない、優しい距離。
「……うん」
リステラは頷いた。
ベッドに腰を下ろす。
布の感触が、妙に現実的だった。
靴を脱ぎ、横になる。
天井を見上げる。
今日のことが、頭を巡る。
追手。
遺跡。
壁画。
ツヅミ。
アインたち。
「……あの人たち」
小さく呟く。
「良い人たちだったわ」
独り言のつもりだった。
「あぁ」
返ってきた。
思わず、そちらを見る。
レムールは窓際に立っていた。
外を見ている。
「そうだね。
楽しく、優しく、勇敢でとても素敵な人たちだった」
静かな肯定。
それだけ。
会話は続かない。
それ以上、踏み込めない空気があった。
「……ね」
「なに?」
「ツヅミ、人から鳥になったよね」
「そうだね」
「なんで?」
「さぁ、なんでかな?」
肩をすくめる。
チラと当のツヅミを見るが、
ベッドの端ですでに羽を休めていた。
「分からないことの方が多い。
今は、そういうものだと思っておけばいい。
いずれわかるさ」
優しい言い方。
けれど、答えはくれない。
リステラは小さく息を吐いた。
「……そっか」
瞼が重くなる。
安心しているのかもしれない。
ここが、安全だと感じているのかもしれない。
ゆっくりと、意識が落ちていく。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
どれくらい経ったのか。
ふと、目が覚めた。
部屋は暗い。
窓から、かすかな月明かりが差している。
静かすぎる。
息を潜めるような空気。
体を起こす。
レムールの姿が、視界に入った。
ベッドの近く。
背を向けている。
外套は外している。
薄い布一枚。
何をしているのかは分からない。
ただ——違和感があった。
近づくつもりはなかった。
それでも、目が離れない。
月明かりが、背中をなぞる。
その輪郭が、浮かび上がる。
そこで見えてしまった。
傷。
無数の、傷跡。
浅いもの。
深く抉れたもの。
焼け焦げたような痕。
線が重なり、交差し、肌を覆っている。
異様だった。
普通じゃない。
治っていない。
残り続けている。
リステラの呼吸が止まる。
音を立てないように、息を飲む。
(……なに、これ)
理解できない。
どうして、こんな。
レムールは動かない。
気づいていないのか。
それとも——
「……起きていたのかい」
静かな声。
振り向かないまま、言う。
気づいていた。
リステラの身体が強張る。
「……ごめん」
小さく謝る。
何に対してかも分からないまま。
「気にしなくていい」
穏やかな声音。
責める色はない。
「……それ」
言葉が出る。
止めようとしても、止まらなかった。
レムールは、少しだけ間を置いた。
そして。
「傷だよ」
それだけ言った。
振り向かない。
説明もしない。
ただ、事実だけを置く。
リステラは言葉を失う。
それ以上、聞けない。
聞いてはいけない気がした。
沈黙が落ちる。
しばらくして。
レムールがゆっくりと上着を羽織る。
傷は、隠れる。
何事もなかったかのように。
「眠れないなら、添い寝でもしようか?」
先ほどと同じような冗談。
いつもの距離。
でもなぜだろう、少し寂しそうに感じる。
「……いらないわ」
リステラはベッドに戻った。
横になり、瞼を閉じる。
だが考えつく。
さっきの光景が、焼き付いている。
(あれ……普通じゃないわ。
だって、彼の体にできた傷は全部治るはずだもの)
分かっている。
ただ目を逸らせないものを見てしまった。
そんな感覚だけが、残っていた。
やがて、意識がゆっくりと沈んでいく。
静かな夜が、部屋を包んでいた。
月光に照らされた、
レムールの横顔からは表情が読み取れない。




