29.目が離せない相手
しばらくして。
風呂から戻ると、レムールの姿はなかった。
代わりに、整えられた空間。
無駄がない。
久しぶりに長く誰かと一緒にいるはずなのに、実感が薄い。
(……この人、本当に)
一人で生きてきたんだ。
そんな印象だけが残る。
やがて、扉が開いた。
今度はレムールが戻ってくる。
髪がわずかに湿っている。
「食事に行こうか。
ここのご飯は絶品だよ」
張り付いた笑顔で誘う。
「……うん」
リステラは立ち上がる。
少しだけ、距離を意識しながら。
二人で部屋を出て、階段を降りる。
さっきとは違う時間帯。
空気が変わっていた。
人の声。
笑い声。
食器の触れ合う音。
日常のざわめき。
その中へ、二人は自然に溶け込んでいく。
皿が置かれる音に、リステラはわずかに肩を揺らした。
目の前の光景に、思わず息を呑む。
「……すごい」
並べられた料理は、明らかに量も質もいままでとは違っていた。
香ばしく焼かれた肉に、彩りの整った野菜。湯気の立つスープからは、優しい香りが広がっている。
「今日は特別です! しっかり食べてくださいね。
腕によりをかけました!」
配膳してくれたハダルが満足げに顎を引いた。
リステラは小さく頷き、姿勢を整える。
背筋が伸びる。
手の置き方、指の角度、器の扱い。
意識せずとも、身体が自然に動いていた。
ナイフを静かに入れる。
余計な音は立てない。
口へ運ぶ所作も、流れるようだった。
ハダルの手が止まる。
「……お嬢さん、いいところの出ですね」
「え?」
リステラは一瞬だけ固まる。
しまった、と思った時には遅い。
だがハダルはそれ以上踏み込まない。
ただ感心したように笑うだけだった。
「失礼しました。詮索するつもりはありません」
胸の奥に溜まっていた息が、少し抜ける。
対面では、レムールが静かに食事を進めていた。
改めてみると風呂上がりらしく、外套は外している。
袖まであるが、薄手の服。
動きに合わせて、布がわずかに浮く。
その隙間から、肌が覗いた。
視線が、吸い寄せられる。
間近で初めてみる男の肌に、リステラの手が止まる。
見てはいけないと分かっているのに、目が離れない。
「……どうしたの」
不意に声が落ちた。
レムールの視線が、こちらに向いている。
静かだが、逃がさない目だった。
「っ……なんでもない」
慌てて視線を逸らす。
鼓動が早い。
気づかれたのか分からない。
おそらく気付かれただろう。
けれど、それ以上は何も言われなかった。
レムールは視線を戻す。
それだけ。
まるで、最初から何もなかったかのように。
(……びっくりした
わたしの心臓、保つのかしら)
胸がまだ少し早い脈を打つ中、
やがて最後の皿が運ばれてくる。
小さなデザート。
その縁に、何か書かれていた。
「……?」
顔を近づける。
ソースで描かれた文字。
『隣の部屋に迷惑をかけちゃダメですよ』
一瞬、意味を理解できない。
次の瞬間。
「なっ……!?」
顔が一気に熱くなる。
勢いよく顔を上げると、ハダルが満面の笑みで頷いていた。
「若いっていいねぇ」
「ち、違います!!」
思わず声が裏返る。
「何の話?」
隣から、平然とした声。
「だからそういうのじゃなくて……!」
言葉がまとまらない。
周囲の視線が一瞬だけ集まり、すぐに離れる。
恥ずかしさが増す。
その横で、レムールは一度だけデザートを見た。
そして、何も書いていなかったかのように口をつける。
「気にしないでいいんじゃない?」
「気にするよ!?」
即座に返す。
だがレムールは笑ってそれ以上触れない。
短い間だが、いつも通りの距離。
その態度に、少しだけ救われる自分がいる。
食事を終え、二人は部屋へ戻った。
扉が閉まる。
外の喧騒が、遠くなる。
静寂。
さっきまでの温かさが嘘のように、空気が冷える。
リステラは、その場で立ち止まった。
そのとき、頭の中に先の文言が現れた。
『隣の部屋に迷惑をかけちゃダメですよ』
そうしたら、
「……変なこと、しないよね?」
気づけば、口にしていた。
言った瞬間、顔が熱くなる。
レムールが振り返る。
一瞬の間。
そのあと、小さく笑った。
「ふはっ。そうかそうか、君はスケベなんだな」
「なっなっな、な!!!」
頭が真っ白になる。
「ち、違う!そういう意味じゃ——」
「安心しなよ。
この部屋を選んだのは、契約上の理由だから」
言葉を被せるように、落ち着いた声。
「なにかあったとき、
すぐに助けられる距離にいた方がいいと思って」
淡々とした説明。
感情は挟まない。
リステラは言葉を失う。
その通りだと思ってしまう自分がいる。
けれど——
「じゃあなに、こういうことをした方がいいのかな?」
一歩、踏み込まれる。
距離が一気に詰まる。
背中が壁に当たる。
逃げ場がない。
腕が壁に置かれる。
視界が塞がれる。
「〜〜〜〜〜〜!!」
声にならない声。
呼吸が乱れる。
近い。
理解が追いつかない。
レムールの視線が、まっすぐに落ちてくる。
試すような、冷静な目。
数秒。
そのまま見下ろして——離れた。
「大丈夫」
何事もなかったように言う。
「防音と防視、防御魔法は貼ってある」
「そ、そういう問題じゃ……!」
言い返そうとして、うまく言葉が出ない。
胸がうるさい。
そして覚悟をして──
目を閉じた。
しかしレムールは両手をあげて離れる。
「これも冗談。
さすがに、嫁入り前の女性にこれ以上はできないよ」
「そ、そうよね!
当たり前よね! それが普通ね」
さっきの距離が、頭から離れない。
彼の香りと圧迫感と、緊張感でおかしくなりそうだった。
離れてくれて、確かに安堵した。
でも、残念に思う自分がいた。
(……私はすけべなのかしら)
リステラはゆっくりと息を吐く。
さっきより、少しだけ落ち着いている。
レムールへ視線を向ける。
彼はすでに窓際の椅子に戻り、本を読んでいた。
最初から決めていた位置のように。
「明日もあるから、早めに寝なよ」
距離を保つ場所。
(この人は……)
何を考えているのか分からない。
でも『守る』という言葉だけは、嘘じゃない気がした。
リステラはベッドに腰を下ろす。
鼓動が、ようやく落ち着いてくる。
怖くはない。
理解もできない。
それでも——
目を離せない相手だった。




