27.◯の帰還
馬車がゆっくりと速度を落とす。
揺れが収まり、車輪の音が石畳に変わった。
外から流れ込んでくるのは、人の気配と、生活の匂い。
リステラは、無意識に息を止めていた。
見えてきた街並みは、記憶の中と変わらない。
整えられた大通り。規則正しく並ぶ建物。遠くに見える時計塔の影。
知っている景色だった。
胸の奥が、じわりと熱を帯びる。
「……もうすぐ着くね」
向かいから、静かな声が落ちた。
レムールは外を見ていない。
それでも、状況は正確に把握している。
リステラは、小さく頷いた。
その直後、ふと我に返る。
指先が震えているのに気づいた。
視線を落とす。
自分の膝の上にある布を、無意識に握りしめていた。
ゆっくりと、息を吐く。
大丈夫。
そう言い聞かせる。
けれど——
視界の端に、あの日の光景がよぎる。
崩れた謁見の間。
歪んだ声。変わり果てた両親の姿。
足元がぐらつくような感覚。
「大丈夫?」
声をかけられた。
リステラは、はっとして顔を上げた。
「……大丈夫、じゃないかも」
短く言って、フードを被る。
レムールは一瞬だけ視線を向けたが、何も問わなかった。
すぐに自分の外套を外し、差し出す。
「安心して、といってもすぐにできるわけないよな。
だったら……」
レムールはなにやらゴソゴソと、
別空間に収納しているらしい物を探し当てている。
何を取り出したかと思うと、
ふわふわのブランケットとあたたかいミルクだった。
手を伸ばした先の空間で用意してくれたのだろう、
受け取ったカップは不安を解にはちょうど良い、
心地よい暖かさだ。
「……ありがとう」
ブランケットを肩に被せ、
カップに口をつけようとしたがレムールに制止される。
「まだ、だよ。
リステラは甘い物好きだろう?」
「? 好きだけど……」
レムールは再び空間に手を伸ばし、今度取り出したのは
金色の液体の入ったチューブだった。
チューブを押し出し、粘性の高い、光る液体がミルクへと飲み込まれていく。
「わぁ……」
香りで、それが蜂蜜だと気づく。
リステラの好物だ。
「熱いですよ、気をつけてどうぞ」
微笑んで手渡された蜂蜜入りホットミルクを、
笑顔で受け取り、口付けた。
「はぁ〜〜……おいしい」
思わず感嘆のため息が出た。
慌てて手で口を覆い隠すが、すでに遅かったようだ。
レムールが膝に肩肘をつき、
意地悪そうに、
だが不思議と不快感はなく、
──笑っていた。
「耳が赤いのはホットミルクだけのせい?」
「なっ!!」
「ははっ、ごめん冗談」
「な、軟派な人ね!
外の人ってみんなこうなの!?
それとも、私が人を知らないだけ?」
耳だけじゃなく、目も熱い。
「………………」
耳と目だけじゃなく、顔全体が熱く感じる。
「……でも、ほんとにありがとう」
たしかに、耳が赤いのはコレのせいだけじゃないも、
と両手で囲ったカップに目線を落とした。
ふと、窓の外を見てみる。
心が落ち着いている。
先ほどはあった幾許の不安は、
レムールが共に背負ってくれたと感じた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
それから少しずつ馬車は速度を落とし、
シュテルネーアの大路の端に停まった。
御者は軽やかな声で、最後の勧誘を行い、立ち去った。
「気が向いたら、学院の門を叩きなさい。
……アタシはもう入ることはできないから。
せめてあんたたちには、チャンスを無駄にしてほしくない」
御者は帽子を深く被り直す。
「ま、老婆心さね。
どうするか決めるのはあんたたちの意思だ。
それじゃ」
御者を乗せて馬車は去る。
蹄の音が徐々に遠ざかる。
すると次第に人の声が耳に届き始めた。
笑い声、呼び声、足音。
どれも変わらない。
それが逆に、現実感を薄くした。
「……変わってないね」
ぽつりと零れる。
「何が?」
「街」
少しだけ、言葉を選ぶ。
「ずっと、このままだったみたい」
レムールは答えない。
ただ、その声の揺れを聞いていた。
リステラは視線を落とす。
フードの奥で、唇を噛む。
懐かしい。
そう思った瞬間、胸が締めつけられた。
帰ってきた、とは言えない。
ここはもう、自分の居場所じゃない。
それでも——
完全に切り離すこともできない。
感情が、うまく整理できなかった。
そのとき。
肩に、小さな重みが乗る。
ツヅミだった。
白い羽が、そっと触れる。
何も言わない。
ただ、そこにいる。
それだけで、呼吸が少しだけ整った。
リステラは、ゆっくりと目を閉じる。
次に開いたとき、視線が横に流れた。
レムールの姿。
変わらない距離で、そこにいる。
何も聞かない。
踏み込まない。
それなのに、離れない。
その在り方が、妙に心地よかった。
「……ねえ」
「なに?」
「しばらく、一緒にいてくれるよね」
問いというより、確認に近い声。
レムールはわずかに視線を向ける。
「もちろん。
君が許してくれるなら」
(契約の範囲内だから)とは、彼は流石に言えなかった。
そこまでの無神経さをレムールは備えていない。
「そっか」
リステラは、小さく笑った。
ほんのわずかに。
その言葉で十分だった。
リステラはフードを深くかぶり直した。
そして、ゆっくりと足を踏み出す。
帰還ではない、ただの通過点。
それでも、この場所で
何かが、確実に動き始めていた。




