26.ファルタリア帝国
西に位置するファルタリア帝国にて。
重厚な門が、軋む音を立てて閉じられる。
城の奥、玉座の間へと続く長い廊下。
そこを、三つの影が歩いていた。
いや──
一つは、引きずられていた。
メリクは、ほとんど意識がない。
足取りは重く、何度も膝をつきかける。そのたびに、両脇の兵が無理やり引き起こした。
ゴンザレスとアルナも無言だった。
口を開けば、何かが壊れる。
そんな空気だった。
やがて、巨大な扉の前で止まる。
重々しい音と共に、それが開かれた。
冷たい空気が、流れ出る。
その先に玉座があった。
帝王が、そこにいる。
ただ、それだけで。
空気が変わる。
逃げ場はない。
終わりが、そこにあった。
広間の中央。
赤い絨毯が、まっすぐに玉座へと伸びている。
その先。
数段高い位置に据えられた玉座に帝王は座していた。
背筋は、あまりにも自然に伸びている。
力んでいる様子はない。
だがその姿勢は、一切の隙を感じさせない。
黒を基調とした王衣。
過剰な装飾はなく、静かな威圧だけがそこにあった。
肩から流れるマントの内側には、わずかに揺らぐ暗い光。
星のようにも見えるが、どこか歪んでいる。
胸元には——ひとつだけ。
古びた兵士章。
場違いなほど質素なそれが、逆に異様だった。
顔立ちは整っている。
若い。
しかしそこに“人間らしさ”はなかった。
感情の抜け落ちた静けさ。
生きているはずなのに、鼓動を感じさせない存在。
視線を向けられた瞬間。
まるで“測られた”ような錯覚が走る。
帝王は動かない。
ただ、そこにいるだけ。
それだけで、空気が重く沈む。
息が、しづらい。
喉が、乾く。
メリクは無理やり膝をつかされる。
ゴンザレスとアルナも、それに倣う。
床に額がつきそうになるほど、深く頭を垂れる。
声を出す者はいない。
出せない。
静寂が、しばらく続いた。
やがて──
「……遅い」
低く、短い一言。
それだけで、空気がさらに冷え込む。
メリクの肩が、びくりと震えた。
「巡歴、と言ったか」
帝王の声は淡々としている。
感情がない。
それが、逆に恐ろしい。
よく聞けば、その声は僅かに重なっている。
単一ではない響き。
誰かの声が、奥に混じっているような。
「強者となるための旅」
わずかな間。
「進化の発現は」
問いではない。
確認でもない。
ただの事実の提示。
沈黙。
誰も答えない。
答えられない。
その沈黙を、帝王は否定しない。
ただ——
「不要だな」
切り捨てた。
その一言で、すべてが決まる。
メリクの呼吸が止まる。
ゴンザレスの歯が、ぎり、と鳴る。
アルナの指先が、わずかに震える。
「貴様は、弱い」
まっすぐに、言い放たれる。
「王に相応しくない」
容赦はない。
情もない。
ただの、断定。
その瞬間──
帝王の背後の影が、わずかに遅れて揺れた。
本人の動きと、ほんの僅かにズレる。
気のせいだと片付けるには、不自然なほどに。
メリクの視界が、揺れる。
何かを言おうとした。
だが、声にならない。
その時だった。
玉座の背後。
重厚な布の奥から何かが、動いた。
次の瞬間。
一人の青年が、軽やかに前へと踏み出した。
メリクと──
同じ顔。
同じ髪。
同じ瞳。
だが。
“中身”が違う。
空気が違う。
そこに立つだけで、圧がある。
完成されている。
メリクが、息を呑む。
「……なに……それ……」
かすれた声。
帝王は、答えた。
「代替だ」
簡潔に。
「貴様の代わりとなる存在」
青年は、ゆっくりと微笑む。
その仕草すら、洗練されていた。
「初めまして──」
言葉を紡ごうとして、
ふと、止まる。
そして、どうでもいいことのように言い直した。
「……いや、必要ないか」
興味がない。
そう言わんばかりに、視線を外す。
メリクを、見ていない。
“価値がないもの”として。
帝王が続ける。
「今後、この者が王子である」
その言葉が落ちた瞬間。
広間の空気が、完全に固定された。
誰も、動かない。
動けない。
「ゴンザレス、アルナ」
名を呼ばれる。
二人の肩が跳ねる。
「以後、この者に仕えよ」
命令。
絶対。
拒否など、あり得ない。
……はずだった。
だが。
ゴンザレスの拳が、震えていた。
歯が鳴る。
呼吸が荒くなる。
アルナの唇が、わずかに白くなる。
目が揺れる。
恐怖。
理解している。
逆らえば、どうなるか。
それでも──
それでも。
ゴンザレスが、立ち上がった。
ぎこちなく。
今にも崩れそうな足で。
帝王の魔力が、わずかに軋む。
空間そのものが重くなる。
「……っ……できません……!」
声が震えている。
喉が張り付いたように動かない。
それでも、絞り出す。
「俺は……こいつの……」
ちらりと、後ろを見る。
メリク。
膝をついたままの、王子。
「……仲間です……」
アルナも、ゆっくりと立ち上がる。
足が震えている。
ドレスの裾が、かすかに揺れる。
「……わ、わたしも……」
声が裏返る。
それでも、続ける。
「この子の……側に、いたい、です……!」
視線が、帝王へと向く。
恐怖で、涙が滲む。
それでも逸らさない。
帝王は、ただ見ていた。
まるで価値を測るように。
感情はない。
その奥にあるのは、明確な“選別”。
「……ほう」
感心したような声。
だが、温度はない。
「命に背くか」
その一言で、
空気が“死んだ”。
魔力が、満ちる。
重い。
圧し潰されるような圧力。
床が、きしむ。
ゴンザレスの膝が、折れそうになる。
アルナの呼吸が乱れる。
それでも——
二人は、前に立った。
メリクを、庇うように。
「俺らの主人は、この人を置いて、
他にいません」
「この方は、私たちの、すべてなんです」
帝王の目が、わずかに細まる。
「ならば、追放とする」
その言葉に、
場の空気が、ほんのわずかに緩む。
追放で済むんだ、と。
だが、
「余は、貴様らを追放したな」
静かに、言う。
「では——」
間。
その一瞬が、永遠のように長い。
「なぜ、ここにいる?」
誰も、理解できない。
だが。
本能が、理解する。
“これは、終わりだ”と。
「貴様らは、誰だ」
冷たい声。
「帝国の民ではないな」
結論。
「ならば——敵だ」
その瞬間。
帝王の背後に、黒い揺らぎが広がった。
人の影ではない。
形を持たない、何か。
それが、ゆっくりと呼吸するように脈打つ。
魔力が、膨れ上がる。
闇が、集まる。
逃げ場はない。
終わりだ。
メリクの意識が、揺れる。
視界が白く染まる。
その中で浮かぶものがあった。
レムール。
無表情で、どこか優しい男。
何も語らない、あの背中。
そして額に触れた、あの時。
『君たちに祝福を。どうか生きて、彼を助けて』
声が、蘇る。
彼とは、いったいだれだったのだろうか──
次の瞬間。
メリクの額が、煌めいた。
温かい光。
優しい光。
だが、確かな力。
次いで、ゴンザレスとアルナの額も瞬いた。
帝王の魔力と、ぶつかる。
異質な力同士が、空間を歪ませる。
ほんの一瞬。
帝王の瞳の奥に——
興味が宿る。
光が、三人を包み込む。
ゴンザレスが目を見開く。
アルナが息を呑む。
メリクが、かすかに笑った。
(あぁ、レムール……
君はどこまでも、僕らを守ってくれるんだね)
そして世界が、反転した。
光が弾ける。
音が消える。
気配が消える。
三人の姿も消えていた。
静寂。
完全な静寂。
帝王は、動かない。
ただ、わずかに目を細める。
「……逃げたか」
その声に、感情はない。
ただ一つだけ。
ほんのわずかな興味が、宿っていた。




