10.星の詩、嵐の海にて
リステラは覚悟を決め、手を取り、恐る恐るだがしっかりと透明な橋に足をつけた。
人一人が乗っても、強風にさえびくともしない橋は、リステラへ想像以上の安心感を与えた。
その安堵を確かなものにしている極め付けのものは、橋の外縁にある欄干だろう。
真ん中を悠々と歩くレムールには必要のない手すり。
であれば、それが誰のためのものなのか、それがわからないリステラではなかった。
(ふふっ……優しいのね)
レムールの心根に触れたリステラは、指で欄干をなぞりながら微笑んだ。
そして何事もなかったかのように小走りでレムールに追いつく。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
代り映えのしない穏やかな海を肴に、他愛ない話に花を咲かせる二人
ふと後ろを振り返ると、海岸は随分と遠くに見えた。
稼いだ距離を実感しながら、ふぅっとリステラは一息付く。
「結構歩いてきましたけど、先は見えませんね……」
「今で半分ぐらい、でしょうか。
少し休憩なされますか?」
「いえ、それには及びません!
まだまだ体は動きますから」
「それはなにより。
ですがやはり、補給は大事ですよ」
レムールは先のブドゥを取り出し、リステラの目の前へ差し出す。
そして片方を口の中に放り込み、甘く噛み潰した。
リステラは一応受け取りはしたが、歓喜と遠慮が闘っているようで、食べるのを躊躇っていた。
「いやそんな、えっでもやっぱりいただきますありがとうございます」
葛藤は一瞬で消え、すぐさまブドゥを口に頬張った。
満面の恍惚を顔中に湛えて、幸せそうな表情を作るリステラをレムールは眺めていた。
と、不意にレムールは自分の鼻に水滴が落ちるのを感じた。
雨だ。
わかりきっている雨の発生源を一目見ようと、レムールは空を仰いだ。
気づくと暗雲は広がり、突風が海を荒らし始めていた。
たちまち豪雨が視界を埋め、雲中には稲妻が響き渡る。
先へ進もうにも時すでに遅く、夜のように暗い海のど真ん中に立ち止まることを余儀なくされた。
「急などしゃぶり困っちゃうなぁ。
海の天気は変わりやすいっていうけどこんなに変わるって知らなかったー! あれ、変わりやすいのは山だっけ?」
「山ですね。
それにしても、これは少し参りました。流石に道は視界が確保できないと開けません」
「では、私が一等級風魔法でなんとか払ってみます。頑張ります」
リステラは両手を閉じて開いてを繰り返し、アップを始めた。
だが、レムールがそれを制止する。
「待ってください。何か、聞こえます」
レムールに言われてリステラも耳を澄ませる。
この天災の渦中では聞き取れるものは自然の音しかないはずだが、
この場において異質な音がリステラの耳に入った。
「これは……歌?」
微かではあるがそれは確かに歌だった。
老人のか細い消え入るような声。
大男の張り上げる野太い声。
婦人の落ち着いた高い声。
子供の叫ぶような明るい声。
色とりどりの様々な声たちが混ざり合い、重なりあい、歌へと昇華し続けている。
壮絶な騒音下にあっても聞こえてきたのは、驚くことに誰もが知っているものだという。
"嵐の海を征くキミへ
空の果てへ向かうキミを
僕は追いかけていけないけれど
ここでずっと応援してる
キミの無事を祈っている
どうかキミに幸あれよ
どうかキミに幸あれよ
「これ、シュテルネーアに伝わる童謡ですよ。
国民全員が知っています!
でもどうしてこの歌が?」
その問いの答えは、嵐の中にて見えた船だった。
歌を乗せ、暗闇を押して進むくたびれた漁船。
今にも沈没しそうな何隻もの船が、レムールたちを囲んだ。
リステラは船とコンタクトを取ろうと口を開けたが、
「ヒッ!」
出てきたのは呼び声ではなく短い叫び声だった。
船には話しかけられる相手が一人もいなかったのだ。
リステラは青ざめた顔で隣に立つレムールの裾を握った。
レムールは当然気づくが、気づかないふりをして裾を熱魔法で温める。
その甲斐あってかリステラの顔に血の気が戻り、十分な声で話せていた。
「誰もいないのに、はっきり聞こえる。
懐かしい『星の詩』……」
『星の詩』という名の童謡をレムールは思い出していた。
確かに、シュテルネーアに滞在中、街を歩く子供が元気よく歌っていたのを見ていた。
ゆっくりとした曲調に合った誰かを応援するような歌詞。
短い期間だったが、覚えるには十分な時間だった。
茫漠な悪天の海に幽霊船。
異様な光景だが不思議と怖ろしさはない。
歌われる『星の詩』が勇気づけるものであるからだろうか。
無人の船は歌を歌いながらレムールたちを追い越し、左右に列をなして進むべき道を作った。
雨風で今にも沈みそうな船体には高らかにマストが挙げられている。
そしてその先端は青白く発光していた。
まるで燃えるように佇むように。
それは間違いなく、明らかに、
レムールたちへと向けられた道標だった。
「私たちを案内してくれている?」
「えぇ。罠であるかもしれませんが」
「それでも、行くしかないですよね。
頼りにさせてくださいね、レムールさん」
「はい。
どうあっても、なんとかしますよ」
ともる火を視界の両端に捉え、レムールは右手を前に突き出し、左手でそれを支える。
レムールが力を入れた瞬間、正面の空間が歪み、嵐の中に透明な穴ができた。
「驚いた。
本当になんとかしちゃった……」
トンネルと呼ぶべきそれは嵐と完全に分断されており、走り抜けるのに適していた。
「──コホン。
行きましょう。今、やれることを」
咳ばらいをし、体内から喀出したものを拭き取った紙を魔法で燃やしてリステラへと声を掛けた。
そして二人は、激励の歌を背に走り出す。




