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名前を呼んだ日

サークルの部室は、いつも通り騒がしかった。


笑い声。

誰かのツッコミ。

机を叩く音。


その全部が、少し遠くに聞こえる。




ひよりは、いつも同じ場所に座っていた。


端の席。

壁際。


誰とも目が合わない位置。




「じゃあ次どこ行く?」

「カラオケじゃね?」


みんなが一斉に立ち上がる。


流れに乗るように、部屋は一気に空いていく。




ひよりは、動かなかった。


スマホの画面を見たまま。




気づけば、部室には二人だけになっていた。




「……あれ?」


声がした。




顔を上げると、けんすけがいた。


スマホを見ていたはずなのに、こっちを見ている。




「ひよりちゃん、残るの?」




心臓が、少しだけ跳ねた。




(なんで名前…)




「え、あ…はい…」


小さく答える。




けんすけは、特に気にした様子もなく笑う。




「ひよりちゃんさ」




距離が、少しだけ近い。




「なんでみんなと話さないの?」




一瞬、言葉が止まる。




「いや、別に責めてるわけじゃなくてさ」


「気になっただけ」




軽い。

でも、逃げ道はない。




「あとさ」




少し間。




「彼氏いるの?」




「……え?」




頭が追いつかない。




(なんでその話になるの)




「い、いないです…」




けんすけは「あ、そうなんだ」って軽く言った。




それ以上、突っ込んでこない。




少しだけ、空気がゆるむ。


「てかさ」




けんすけが、机に肘ついてこっちを見る。




「ひよりちゃん、名前かわいいよね」




また、止まる。




(なんで知ってるの…)




「一回も話したことないのに」


思わず口に出た。




けんすけは、ちょっと笑った。




「え、普通に覚えてるよ?」


「同じサークルだし」




“普通”って言われたことが、少し引っかかる。




ひよりの中では、普通じゃなかったから。


「てかさ」


けんすけが、少しだけ真面目な顔になる。




「ほんとは話したいんでしょ?」




一瞬、頭が真っ白になる。




(ちがう)


そう思った。




(別に、そんなこと…)




でも、その言葉の続きが出てこない。




「さっきもさ」


「みんなの方、何回か見てたじゃん」




ドクン、と心臓が鳴る。




(見られてた)




慌てて視線を落とす。




(違う、あれは…)


(ただ、たまたま…)




でも、浮かんでくるのは

さっきの光景だった。




笑ってる輪。

楽しそうな声。




そこに入りたいと思った、自分。




(……あ)




言葉にされて、初めて気づく。




今まで、ずっと


“できない理由”ばかり探していたこと。




本当は、ただ――




「……入りたい、です」




気づいたら、口に出ていた。




自分の声なのに、少しだけ震えている。




けんすけは、少しだけ笑った。




「そっか」




その一言に、余計なものが何もなかった。




否定も、同情も、評価もない。




ただ、“分かったよ”っていう温度だけ。




その瞬間、少しだけ肩の力が抜けた。




(この人は…)




“わかろうとしてる”




初めて、そう思った。




「じゃあさ」




けんすけが立ち上がる。




「今度、一緒に行く?」




ドアの方を見ながら。




「さっきのやつ」




カラオケ。




ひよりは、少しだけ迷う。




怖い。


でも――




さっきより、ほんの少しだけ


“行きたい理由”の方が強かった。




「……はい」




今度は、ちゃんと聞こえる声。




けんすけが振り返る。




「よし、決まり」




その笑顔を見たとき、




胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなった。




(なんだろう、これ…)




まだ名前のない感情。


でも、嫌じゃない。




ドアが開く。




外の騒がしさが流れ込む。




ひよりは、小さく深呼吸して立ち上がる。




その背中を見ながら、


けんすけは軽く手を振った。




ひよりも、少しだけ手を上げる。




ぎこちないけど、


さっきより、少しだけ自然に。




その一歩は、


小さくて、


でも確かに前に進んでいた。

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