猫は帰る場所を選ぶ
ビルの裏。
ネオンの光が、濡れた地面に滲んでいる。
煙が、ゆっくり夜に溶けた。
「はぁ…」
女は壁にもたれていた。
手には焼酎の瓶。
「若い子ばっかでさ」
「正直、場違いなんだよね」
瓶を軽く揺らす。
「でも、辞めるわけにもいかないし」
足音。
女は顔を上げた。
「…なに?」
「こんなとこ来る人じゃないでしょ」
少し離れた場所に、男が立っている。
「迷子?」
間。
「それとも…物好き?」
煙を吐く。
「どっちにしても」
「ここ、あんまいい場所じゃないよ」
少しだけ目を細める。
「…それでもいるなら、好きにすれば」
⸻
「焼酎の瓶って、あまり飲み過ぎると身体に悪いですよ」
女は一瞬、言葉を失った。
「……は?」
瓶と男を見比べる。
「なにそれ」
「説教?」
間。
ふっと笑う。
「こんなとこで初対面の女に言う?」
煙を吐いた。
「変な人だね、あんた」
でも、さっきより少しだけ柔らかい。
「普通さ」
「見て見ぬふりするか、声かけてもナンパでしょ」
男を見る。
「身体気にしてるの?」
瓶を軽く持ち上げる。
「これがないとやってらんない日もあんのよ」
少しだけ間。
「…まぁ、良くないのは分かってるけど」
視線を戻す。
「で?」
「それ言いに来ただけ?」
⸻
「いえ、たまたま通りかかっただけです」
男は静かに言った。
「ただ、わかるんです」
女の動きが止まる。
「感情を押し殺してる人のこと」
間。
「顔見ただけで」
夜が少しだけ静かになる。
「すみません、変なこと言って」
男は軽く会釈して、歩き出した。
⸻
「……待って」
女の声は、小さかった。
男が止まる。
「あんたさ」
少し近づく。
「なんで分かるの?」
間。
「顔見ただけでって…」
視線をそらす。
「…そんな簡単に見えるもんじゃないでしょ」
少しの沈黙。
「さっきの」
小さく言う。
「変じゃないよ」
さらに間。
「むしろ…」
少し照れたように笑う。
「ちゃんと見てる人だなって思った」
顔を上げる。
「だからさ」
「帰る前に、もうちょっとだけ話してかない?」
少しだけ間を置いて。
「…せっかく止めたんだからさ」
⸻
男は、優しく笑った。
その顔を見た瞬間、女の肩の力が少し抜ける。
「……ほんと変な人」
タバコを足元で消した。
焼酎の瓶も、少しだけ下げる。
「……ちょっとだけね」
壁にもたれ、隣にスペースを空ける。
「座れば?」
男が隣に座る。
少しの沈黙。
「なんかさ」
女は小さく笑った。
「説教でもナンパでもないの、久しぶり」
横目で見る。
「どういう人なの、あんた」
間。
「顔で分かるとか言ってたし」
少しだけ挑むように。
「今のあたし、どう見えてる?」
⸻
「うーん…猫」
「……は?」
女は眉をひそめる。
「猫?」
数秒の沈黙のあと、吹き出した。
「なにそれ」
でも、すぐに少しだけ考える顔になる。
「……猫、ね」
煙はもうない。
「気まぐれで」
「懐くときは懐くけど」
「基本、人に寄らない」
苦笑する。
「…なんか分かるのがムカつく」
男を見る。
「その猫はさ」
少しだけ柔らかい声で。
「懐くの?」
間。
「それとも、引っかかれそう?」
⸻
「どうかな」
男は少し考えてから言った。
「俺が用意できるのは」
間。
「あたたかい寝床だけです」
⸻
女は、動かなくなった。
「……寝床、ね」
小さく笑う。
「餌じゃないんだ」
男を見る。
「普通さ」
「助けるとか、守るとか言うでしょ」
少しの間。
「寝床だけって」
目を細める。
「逃げ場ってこと?」
さらに間。
「……悪くない」
ほんの少し、距離が縮まる。
「たださ」
「猫って、勝手に来て勝手に帰るよ?」
男を見つめる。
「それでもいいの?」
間。
「それとも…少しは引き止める?」
⸻
「あなたがそれでいいなら」
男は静かに言った。
「好きですよ、そういう猫」
⸻
女の呼吸が止まる。
「……それ、ずるくない?」
小さく笑う。
「縛らないで」
「でも受け入れるって」
視線を落とす。
「一番逃げられないやつじゃん…」
少しの沈黙。
顔を上げる。
「……その寝床」
「ほんとにあったかいの?」
一歩、近づく。
「冷たかったら、すぐ出てくよ?」
間。
小さく笑う。
「…それでもいいなら」
「試してみる?」
⸻
男は、紙を差し出した。
「ここが俺の家です」
それだけ言って、去っていく。
⸻
女は紙を見る。
「……え?」
振り返る。
「ちょっと待って」
背中は、もう遠い。
「来いって言っといて帰るの?」
その場に立ち尽くす。
紙を指でなぞる。
「……ほんとにいいの?」
小さく笑う。
「来るか来ないか、こっち任せ?」
空を見上げる。
「ほんと、変な人」
紙をポケットに入れる。
「気が向いたら、行くよ」
誰にも聞こえない声で。
「…あったかいならね」
⸻
夜。
静かな住宅街。
インターホンの前に立つ女。
少し迷って、深呼吸。
ボタンを押す。
ピンポーン。
間。
足音。
ドアが、ゆっくり開く。
女が顔を上げる。
そこにいる男。
あの笑み。
数秒。
女の表情が、ほんの少しだけ緩む。
ドアが閉まる。




