職質のあとで
少し蒸し暑い夜だった。
「はぁ…また時間の無駄だったし」
女はため息をついた。
「なんであんなのしかいないの…」
腕を組んで歩く。
ヒールの音が、少し強い。
「仕事の方がまだマシ」
そのまま歩いていた視線が、ふと止まる。
「…で?」
少しだけ近づく。
「あなたは何?」
「こんな時間にうろうろして」
じっと見る。
「職質、いい?」
口調は軽い。
でも、目の奥には少し疲れが残っていた。
「はぁ…めんどくさいけど」
少しだけ間。
「…逃げないでよ?」
男は、少し驚いたように笑った。
「お巡りさん」
額の汗に気づく。
「大丈夫ですか?」
ペットボトルの水を差し出す。
女は、一瞬固まった。
「……え?」
視線が、水と男の間を行き来する。
さっきまでのイライラが、ほんの少しだけ緩む。
「……あ、どうも」
受け取る。
「別に…大丈夫だけど」
「ちょっと暑いだけ」
一口飲んで、息をつく。
「……ありがと」
男を見る。
「普通、職質されてる側が気遣う?」
少しだけ笑う。
「変な人」
でも、そのまま少しだけ近づく。
「でも…嫌いじゃないかも」
空気が変わる。
「じゃあさ」
少しだけ軽くなる声。
「そのまま、ちょっと話聞かせてよ」
「どこ行くとこだったの?」
「あのペットショップに」
男は指をさす。
「飼い猫のおもちゃを買いに」
女は、そっちを見る。
「猫、飼ってるんだ」
少しだけ興味が出る。
「どんな子?」
距離が、少し縮まる。
「おもちゃ選び、こだわるタイプでしょ?」
軽くからかう。
「ちゃんと遊んであげてる?」
少し間。
「……いい飼い主っぽいね」
優しいトーン。
「その子、幸せだと思うよ」
視線を戻す。
「じゃあそのついでに」
少しだけ笑って。
「ちょっと付き合ってよ」
「見てみたいし、その猫のおもちゃ選び」
「え、いいんですか」
男が少し戸惑う。
「お巡りさん、仕事は?」
女は肩をすくめる。
「まぁ…今はパトロール中だから」
「問題なしってことで」
少しだけ真面目な顔。
「さっきまでイライラしてたし」
「ちょっと気分変えたいの」
すぐ崩れる。
「それに」
「“変な人”の行動、見届けるのも仕事だから」
一歩前に出て、振り返る。
「ほら、行くよ」
「逃げたら職質再開だからね?」
少しだけ笑う。
「…猫のおもちゃ、楽しみ」
ペットショップの前。
「ここ、昔からあるんです」
男が言う。
「ほら、あそこにいるでしょ」
奥にいる老夫婦。
「この店の人も、何匹も猫飼ってて」
男は自然に声をかける。
「こんにちは、おじさん」
その様子を、女は横で見ていた。
「常連なんだ」
少しだけ、空気がやわらぐ。
店の中。
どこかあたたかい。
「こういうお店、いいね」
小さくつぶやく。
「ちゃんと“誰かの場所”って感じする」
棚を見ながら。
「あ、この羽のやつ好きそう」
少し楽しそう。
「動きがいいと食いつくんだよね」
ふと、男を見る。
「…ほんとに大事にしてるんだね、その子」
少しだけ優しい目。
「どれにする?」
並んで立つ。
「一緒に選ぼ?」
男は、次々とおもちゃを手に取る。
「これなんかよさそうで…」
気づけば、両腕いっぱい。
女は一瞬固まる。
「え、ちょっと待って」
「買いすぎでしょ!!」
笑いをこらえきれない。
「どんだけ甘やかすのその子」
ひとつずつ見る。
「これも?これも?全部?」
少し近づいて。
「完全に親バカだね」
でも、そのあと少しだけ柔らかくなる。
「…でもさ」
ひとつおもちゃを手に取る。
「こういうの、いいと思う」
男を見る。
「ちゃんと“喜ぶ顔”想像してるでしょ?」
少し間。
「そういうの、大事だよ」
そして、少しだけ笑う。
「でも全部はダメ」
「選ぶのも愛情だからね?」
軽く腕をつつく。
「ほら、厳選しよ?」
少しだけ距離が近い。
その空気の中で、
女はふと気づく。
さっきまでのイライラが、
どこにも残っていないことに。
そしてもう一つ。
(この人といると、ちょっと楽かも)
名前も、まだちゃんと知らないのに。
それでも――
少しだけ、
次も話してみたいと思った。




