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第55話 隣に立つ

 研究所の試験区画の前で、悠真は三度目の深呼吸をしていた。


 別に自分が何かをするわけではない。

 扉が開くのを待っているだけだ。

 それなのに、胸のあたりが妙に落ち着かない。視線の置き場も、手のやり場も決まらない。壁際に寄ると落ち着かないし、中央に立つのも邪魔な気がする。結局、試験区画の前で中途半端に立ち尽くすしかなかった。


「お前、待ってるだけなのにそんな消耗することある?」

 横で圭介が呆れたように言う。

「うるさい」

「いや、うるさいじゃなくてさ」

「圭介」

 九条が端末から目を離さずに言う。

「少し黙っていてください」

「先輩、悠真に甘くない?」

「今この場で余計な刺激は不要です」

「ほら、甘い」

 圭介はそう言いながらも、少しだけ口元を緩めていた。こいつもたぶん、ちょっと緊張している。


 少し離れたところで、牧瀬が腕を組んで立っている。

 疲れている顔だった。ここ数日まともに寝ていないのだろう。けれど、その目だけはきちんと前を見ていた。疲労の下に、最後まで責任を持ってここへ持ってきた人間の意地みたいなものがある。


「最終チェック、終わりました」

 九条が言う。

「可動域、出力、平衡制御ともに許容範囲です」

「範囲内ならいい」

 牧瀬が短く返す。

「お披露目して、その場で転ぶなよ」

「その言い方」

 悠真が思わず言う。

「縁起でもないだろ」

「転ばないためにやったんだよ、こっちは」

 牧瀬はそこでようやく悠真を見た。

「ただ、騒ぐな」

「騒がない」

「本当か?」

「……たぶん」

「たぶんなんだ」

 圭介が横で吹き出した。


 扉の向こうで、何かが切り替わるような小さな駆動音がした。

 悠真の喉が急に乾く。

 九条が端末を閉じる。

 牧瀬さんが一歩だけ前へ出て、解錠を行った。


 白い扉が、静かに左右へ開く。


 最初に見えたのは、黒だった。


 以前の少年機体より、少し高い。

 肩の線は広がり、黒金の輪郭は同じ色のまま深さだけが増している。細かったはずの立ち姿が、今は静かに地面を掴んでいる感じがした。重いわけではない。ただ、立っているだけで前よりずっと“隣に並ぶ存在”に見える。

 胸の奥が、一瞬うまく動かなかった。


 ノワールだった。


 わかる。

 わかるのに、見慣れない。

 思っていたよりずっと格好いい。思っていた以上に、青年の輪郭をしている。今までと同じ黒金のはずなのに、その立ち方ひとつで距離の測り方が変わってしまう。


 その隣に、白が出てくる。


 ブランは白い柔らかさを残したまま、でも幼さだけでは立っていなかった。白銀の輪郭は以前より伸び、軽い印象はそのままに、すこしだけ凛々しさが混ざっている。耳はちゃんとそのままだ。しっぽもある。かわいさを残したいという要望を、本当に仕様へねじ込んだのだろうと思わせる白い線だった。

 右腕も、もう義肢の延長には見えない。白い全体の輪郭へ自然に組み込まれていて、痛々しさではなく“選ばれた未来”としてそこにある。


「どう!?」

 最初に口を開いたのは、やっぱりブランだった。

 少し低くなった声が試験区画の中で弾む。以前より落ち着いた声域のはずなのに、言い方がまるで変わっていないせいで、そこでようやく少し息ができる。

「すごいでしょ」

 その言い方も、その得意げな目も、ちゃんとブランだった。


 悠真は何か言おうとして、言えなかった。

 喉のところで言葉が変なふうに引っかかる。

 圭介が先に声を出す。

「うわ、マジででかくなったな」

「でしょ!」

「お前はそういうとこ素直に反応しすぎだろ」

 牧瀬が言う。

「いやでも、これは言うだろ」

 圭介は白と黒を見比べる。

「ブランもちゃんとかっこよくなってるし、ノワール、お前それ反則だろ」

「反則?」

 ノワールが、少しだけ首を傾げた。


 その声で、悠真はまた胸の奥を掴まれた気がした。


 低い。

 前より少し低くなった。

 それだけなのに、一瞬だけ、誰か別の人の輪郭が透けた気がする。晃一の声をそのまま思い出せるわけじゃない。思い出そうとすると、たいていもう少し遠くへ逃げる。でも今のノワールの声には、確かにあの父の面影が一瞬だけ混じる。


 それが嫌じゃなかった。

 むしろ、痛いくらい自然に胸へ落ちた。


 ノワールは悠真のほうを見た。

 その目の置き方が、前と同じだった。

 慎重で、少しだけ不安そうで、それでもまっすぐ見る時の角度が、いつものノワールだった。


「兄さん」

 その呼び方で、ようやく息が戻る。

 青年の輪郭で、その声で、それでも“兄さん”と呼ぶ。

 その一言だけで、見慣れない輪郭の奥にいるのがちゃんとノワールだとわかった。

「どうでしょうか」

 少しだけ間がある。

「歩行バランスは安定しています。ですが、旋回時にまだ僅かな癖が残っていて」

「そこから入るのかよ」

 圭介がすかさず突っ込む。

「感想を聞いてるのに報告するな」

「必要事項かと思いました」

「そういうとこだよ」

 ブランが笑う。


 悠真はそのやり取りを聞きながら、ようやく本当に安心した。

 見た目は変わった。かなり変わった。正直、かなり動揺している。目の前のノワールを恋人として見てしまう感じが、今までより急に現実になって、少し困るくらいだった。

 でも、喋り方も、間も、慎重さも、いつものノワールだ。

 知らない誰かじゃない。

 ちゃんとノワールのまま、未来へ進んだのだとわかる。


 その安心があるから、逆に動揺もごまかせなくなる。


「兄さん?」

 ノワールがもう一度呼ぶ。

 悠真は慌てて返事をしようとして、少し声が掠れた。

「……あ、うん」

「問題がありましたか」

「ない」

「では」

「ない、けど」

 悠真はそこで一度黙る。

 何と言えばいいのかわからない。格好いいとそのまま言うのも、何か悔しい。いや悔しくはないけど、ちょっと危ない。危ないって何がだ。

 頭の中で変な混乱が起きる。


 それを横からブランが面白がる。

「お兄ちゃん、かおあかいよ」

「うるさい」

「赤いです」

 九条が言う。

「客観的にも」

「なんで参加してくるんだよ」

「観測結果です」

「それ言えば何でも許されると思うなよ」


 ノワールの耳が、ほんの少しだけ揺れた。

 たぶん照れている。けれど、今の輪郭だとその照れ方さえ少し前より破壊力があるのがよくない。

 悠真は一度、視線を逸らしてから、ちゃんと見直す。

 ノワールもブランも、自分で選んだ輪郭を持って、ちゃんとそこにいる。


「……似合ってる」

 ようやく出た言葉は、それだった。

 でも、言った瞬間に、ノワールの目がはっきりやわらかくなる。

 それだけで十分だったらしい。


「ありがとうございます」

 声が少し低くなったせいか、その礼の言い方に前より落ち着きがある。

 あるのに、うれしさを隠しきれていないところは全然変わっていなかった。

 悠真は、そのことにまた少しだけ救われる。


「ぼくは?」

 ブランが身を乗り出す。

「ブランも似合ってるよ」

「ほんと?」

「ほんと」

「かわいい?」

「……かわいいし、かっこいい」

「やった」

 ブランが白い耳をぴんと立てる。

「ほら、両立してる」

「すごい執着だな」

 圭介が笑う。

「だいじだもん」

「まあ、たしかに似合ってる」

 圭介は改めて白い輪郭を見る。

「前より大人っぽいのに、ちゃんとブランだし」

 その言い方に、ブランはちょっと得意そうに胸を張った。


 牧瀬は少し離れたところで、そのやり取りを黙って見ていた。

 疲れた顔のままだった。けれど、その疲れの奥に、ここまで形にした人間だけが持つ小さな誇りがあるのを、悠真は初めてちゃんと見た気がした。

「動作確認、続けるぞ」

 ぶっきらぼうに言う。

「見た目だけ良くても意味はない」

「わかってます」

 ノワールが即答する。

「わかってるー」

 ブランも言う。

 声の高さは少し落ちたのに、その返事の軽さは前と同じで、九条がわずかに口元を緩めた。


     *


 歩行テストは、見ていて少し不思議だった。


 以前より高くなった輪郭で、ノワールとブランが並んで歩く。

 ブランの足取りは少し軽く、ノワールの歩き方は前より静かに安定している。白と黒が、前より自然に“青年の並び”として試験区画を横切っていく。

 それなのに、角を曲がる時の間合いとか、ブランがほんの少しだけ先へ出る癖とか、ノワールがさりげなくその進路を整える感じとか、細かいところはいつもの二人だった。


「旋回」

 牧瀬さんが言う。

 二人が同時に向きを変える。

 ノワールは滑らかだが、終端でわずかに重心の癖が残る。

 ブランはそこで一瞬だけ勢いがつきすぎて、しっぽでバランスを取った。


「今の見た?」

 ブランがすぐ言う。

「しっぽ、役に立った」

「最初から立つ想定だ」

 牧瀬さんが返す。

「設計なめるな」

「すごい」

 ブランは素直に笑う。

「じゃあ、これ正解なんだ」

「一部な」

 そのやり取りも、なんだか良かった。


 ノワールはテストを終えて、悠真の前まで戻ってきた。

 歩幅が前より少し大きい。視線の高さも違う。近くへ来られると、さっきよりもっと落ち着かなくなる。

 でも、その立ち止まり方が慎重で、悠真の真正面に来る前にほんの少しだけ速度を落とすところが、やっぱりノワールだった。


「兄さん」

「うん」

「並んでも、よろしいですか」

「……何が」

「確認です」

 ノワールは少しだけ目を伏せる。

「隣に」


 その言い方に、胸の奥がひどく静かに揺れた。

 ただ青年機体になったのではなく、本当に“隣に立つ”ために来たのだとわかる。


「いいよ」

 悠真が言うと、ノワールは隣へ並んだ。

 前より自然な高さだった。

 以前の少年機体でも隣にいることはできた。できたけれど、今は“並ぶ”という言葉の意味が少し変わっている。横に立つだけで、同じ時間の中にいる感じが前より強くなる。


 悠真はその横顔を見る。

 黒金の輪郭。静かな肩の線。前より低くなった声の残響。その全部が、新しい。

 新しいのに、目の置き方も、呼吸の置き方も、緊張した時に耳の角度が少しだけ変わるところも、ちゃんと知っているノワールだった。


「……ちゃんと、隣だな」

 思わずそう言う。

 ノワールがほんの少しだけ目を見開く。

 それから、うれしさを押さえきれなかったみたいに、でも大きくはしゃがないまま、静かに笑った。

「はい」

 その一言が、前と同じ慎重さで落ちる。

 悠真はそれだけで、また少し泣きそうになる。


 ブランが向こうから身を乗り出した。

「ぼくも、となり!」

「お前は忙しいな」

「だって、ぼくも見てほしい」

「見てるよ」

「かわいい?」

「かわいいし、かっこいい」

「よし」

 白い耳が満足そうに揺れる。


 圭介がその様子を見て、少しだけ鼻で笑った。

「なんつーか」

「なんですか」

 九条が聞く。

「未来って感じ」

 その言い方は圭介にしては少しだけ静かだった。

 九条は返事の代わりに、試験結果を保存した。

 牧瀬さんは何も言わなかったけれど、視線だけが一度、白と黒の輪郭を確かめるように追っていた。


 悠真はもう一度、ノワールを見る。

 新しい輪郭。

 でも、そこにいるのはいつものノワールだ。

 そのことが、ひどくうれしくて、ひどく安心した。


 変わった。

 でも、変わっていない。

 だからこそ、本当に未来へ進んだのだと思えた。

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― 新着の感想 ―
凄いな、本当に作ったんだ… 二人が生き生きとしてるのを見てると微笑ましい。 …これ元の肉体はどうなったんだろう
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