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最終話 壊れたままで、名前を呼ぶ

 その日の夕飯は、鍋になった。


 理由はいくつかある。

 青年機体になったノワールとブランの歩行テストが予定より長引いたこと。牧瀬が「今日はもう細かい検証はしない」と言いながら、結局最後まで数値を見ていたこと。九条が買い置きの野菜を確認して、「消費期限的に本日が最適です」と言ったこと。圭介が「鍋なら肉入るよな」とだけ言ったこと。


 そして、悠真が何となく、全員で同じ鍋を囲むところを見たくなったこと。


 それは、誰にも言わなかった。


     *


「だから俺は帰るって言ってるだろ」


 玄関先で、牧瀬がもう三回目の同じ台詞を言った。

 白衣は脱いでいる。研究所用の端末は鞄にしまっている。帰る準備としては完璧だった。完璧なのに、その真正面にブランが立っていた。


 青年機体になったブランは、前より少し視線が高い。

 白い輪郭はまだ見慣れない。耳としっぽは同じなのに、立っている高さと肩の線が違うだけで、部屋の中での存在感が少し変わる。

 けれど、眉を寄せて牧瀬を見上げるような顔だけは、ほとんど変わらなかった。


「食べてけばいいじゃん」

「何でだよ」

「ごはんあるから」

「それは理由になってない」

「なってるもん」


 ブランは即答した。

 右腕は、今はもう仮の義肢ではない。白い外装の中に自然に組み込まれて、先ほど見た時よりもずっと身体の一部みたいに見える。それでも、指先を握る時にまだ少しだけ慎重になる癖があった。


 悠真はそれを見ていた。

 見すぎないようにしながら、でも見ていた。


「牧瀬さん」

 九条が台所から顔を出す。

「人数分で準備しています」

「いつから」

「最初からです」

「最初から俺が食う前提だったのか」

「来ると思いました」

「来たんじゃなくて連れてこられたんだよ」

「結果として来ています」

「そういう言い方するな」


 圭介がソファから笑う。

「諦めたほうが早いですよ、牧瀬さん」

「お前ら、俺に対する遠慮がどんどんなくなってるな」

「遠慮してほしいんですか?」

「してほしい時もある」

「今日は無理ですね」


 圭介はあっさり言った。

 牧瀬はそれを聞いて、深い息を吐く。

 諦めた顔だった。


「……三十分だけだ」

「鍋を三十分で食べる人間、いや」

 ブランが言う。

「人間の定義に鍋の速度を入れるな」

「じゃあ一時間」

「交渉するな」


 ノワールが横から静かに言った。

「牧瀬さん」

「今度は何」

「座ってください。兄さんが落ち着きません」

「俺のせいか?」

「はい」

「断定するな」


 悠真はそこで、少し咳き込んだ。

「いや、俺は別に」

「落ち着いていません」

 九条が言う。

「客観的にも」

「先輩も参加しないでください」


 そう言った時には、もう少しだけ笑っていた。


     *


 鍋は、思ったより大きくなった。


 白菜、ねぎ、豆腐、きのこ、鶏肉、つみれ。それに圭介が勝手に買い足した豚肉が入った。買い物の時点で「鍋なら何でも入る」と言い張った結果だった。


「何でもは入りません」

 九条が淡々と言う。

「入ったじゃん」

「入れただけです」

「結果として入ってるなら勝ちだろ」

「三崎くん」

 九条はお玉を持ったまま、静かに目を細めた。

「次に勝手な買い足しをする場合、会計も担当してください」

「すみませんでした」


 圭介が即座に謝った。

 ブランが笑う。

 ノワールも、ほんの少しだけ口元を緩める。


 その笑い方も、少し変だった。

 いや、変なのは見慣れていない悠真のほうかもしれない。


 ノワールは前より肩幅がある。鍋を覗き込む時の角度が違う。箸を持つ手も、少し大きくなった。向かいに座っているだけで、同じ食卓の見え方が少し変わる。

 ブランもそうだ。白い耳を揺らしながら湯気を避ける仕草はそのままなのに、身体の輪郭はもう子どものままではない。右手で取り皿を支えようとして、少しだけ遅れて、それでもちゃんと支える。


 悠真は、胸の奥が何度も変なふうに鳴るのを感じていた。


「兄さん」

 ノワールが言う。

「何?」

「取り分けます」

「いや、自分で取れる」

「熱いです」

「それはお前もだろ」

「私は耐熱が」

「そういう問題じゃなくて」


 言い合いながら、結局ノワールが豆腐を一つ悠真の皿へ入れる。

 その所作が前より少しだけ滑らかで、悠真はまた何も言えなくなった。


「お兄ちゃん、見すぎ」

 ブランが言う。

「見てない」

「見てる」

「見てません」

 九条が言う。

「三秒以上、同一対象を注視していました」

「先輩」

「観測結果です」

「それ便利すぎるだろ」


 圭介が笑いながら肉を取る。

「まあでも、見ちゃうだろ。実際すごいし」

「すごいでしょ」

 ブランが胸を張る。

「お前が作ったわけじゃないだろ」

「ぼくが要望出した」

「耳としっぽとかわいさな」

「だいじ」

「はいはい」


 牧瀬は黙って鍋を見ていた。

 湯気の向こうにいるその顔は、研究所で見た時より少しだけ疲れて見える。いや、たぶん実際に疲れている。青年機体の調整には、相当な負荷があったはずだ。


 それでも、牧瀬はここにいる。

 机ではなく、端末の前でもなく、食卓の端に。

 取り皿を持って、文句を言いながら、ちゃんと鍋を食べている。


「牧瀬」

 悠真は思わず呼んでいた。

「何」

「……ありがとう」


 場が少しだけ静かになった。

 言ったあとで、悠真は自分でも少し驚く。

 今日だけの話ではない。

 ノワールとブランをここまで連れてきたこと。

 壊れたところを、ただ壊れたところのまま終わらせなかったこと。

 牧瀬自身がたぶん一番嫌だったはずの責任から、それでも逃げなかったこと。


 全部を言葉にするには、鍋の前では重すぎる。

 だから、ありがとう、だけになった。


 牧瀬は一瞬だけ箸を止めた。

 それから、あからさまに嫌そうな顔をした。

「やめろ。飯が食いづらくなる」

「ごめん」

「謝るな。それも食いづらい」

「面倒くさい人だな」

 圭介が言う。

「お前よりましだ」

「いや俺はかなり扱いやすいですよ」

「どこが」


 ブランが笑う。

 九条が静かに白菜を取り分ける。

 ノワールが悠真の皿を見て、「もう少し肉を」と言いかけ、悠真が「もういい」と止める。


 普通の食卓だった。

 普通、というには、少し変な食卓だった。

 青年になった黒いアヌビスと白い白虎がいて、研究所の技術者がいて、大学の先輩と友人がいて、自分がいる。

 普通ではない。

 でも、ここにいる全員にとって、たぶん今はこれが生活だった。


     *


 鍋の湯気が少し落ち着いたころ、ノワールが小さく声を出した。


「兄さん」

「うん」

「今日、私の声を聞いた時」


 悠真は箸を止めた。

 ノワールは、鍋ではなく自分の取り皿を見ている。


「一瞬、何かを思い出していましたか」


 その問いは静かだった。

 責める声ではなかった。確認する声でも、ただの観察でもない。少しだけ不安が混じっている。


 悠真はすぐには答えられなかった。


 鍋の湯気が上がる。

 テレビもつけていない部屋で、誰も茶化さなかった。

 圭介も、珍しく黙っていた。


「……父さんのこと」

 悠真は言った。

「少し」


 口にした瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。


 ノワールは目を伏せる。

「やはり」

「嫌だったわけじゃない」

 悠真は慌てて言った。

「本当に。嫌だったんじゃない」


 ノワールは顔を上げる。

 赤金の目が、真っ直ぐこちらを見る。その目はもう、以前より少し高い位置にある。


「声が似ていた、とか、そういうことでもないんだと思う」

 悠真は言葉を探す。

「いや、少しはあったのかもしれない。でも、それより」


 湯気の向こうで、黒金の輪郭が揺れる。

 その隣で、ブランの白い耳が少し伏せられている。


「父さんがいないことを、思い出した」


 部屋が静かになった。


「でも」

 悠真は続ける。

「お前たちがいることも、同時にわかった」


 言ってから、自分でも少しだけ驚いた。

 そういうことだったのだと思う。


 父さんはいない。

 その事実は、今も変わらない。

 どれだけノワールの声に面影を見ても、どれだけブランが白いぬいぐるみを抱いても、どれだけ食卓が賑やかになっても、失ったものが戻ってくるわけではない。


 でも、今ここにいる人たちは、失ったものの代わりではなかった。


 ノワールはノワールだった。

 ブランはブランだった。

 牧瀬は牧瀬で、九条は九条で、圭介は圭介で。

 そして悠真は、晃一の息子である前に、今この食卓に座っている一人だった。


「父さんのことを思い出すと」

 悠真は言う。

「前は、そこだけ穴みたいだった」

「穴」

 ブランが小さく繰り返す。

「うん。そこに触ると、全部落ちる感じがした」


 ノワールもブランも、何も言わない。

 それがありがたかった。


「でも今日は」

 悠真は鍋を見る。

 豆腐が一つ、少し崩れている。圭介が入れすぎた肉がまだ残っている。九条が整えた野菜は均等なのに、ブランが取ったところだけ少し乱れている。


「穴は、まだある」

 言葉にすると、少しだけ息が楽になる。

「でも、穴の周りに、ちゃんと席がある」


 牧瀬が箸を置いた。

 九条が目を伏せる。

 圭介が、何か言おうとしてやめた。


 ブランは右手で自分の取り皿を支えている。

 まだ少しぎこちない。でも、落とさない。ちゃんと支えている。


「お兄ちゃん」

 ブランが言う。

「うん」

「ぼく、ここにいるよ」

「知ってる」

「ノワールも」

「知ってる」

「牧瀬も」

「なんで俺をそこで出す」

「いるじゃん」

「いるけど」

「九条も圭介も」

「俺、ついでみたいじゃん」

 圭介が言う。

「いつもついでみたいな入り方するからでは」

 九条が返す。

「先輩、今日も切れ味あるな」


 少し笑いが起きた。

 その笑いの中で、悠真は胸の痛みが少しだけ別の形になるのを感じた。


 消えない。

 消えないけれど、痛みだけではない。


 ノワールが静かに言う。

「兄さん」

「うん」

「私は、晃一さんの代わりにはなれません」

「ならなくていい」

「はい」

 ノワールは少しだけ息を吐く。

「それでも、兄さんの隣には立ちたいです」


 その言葉は、研究所で聞いた時よりも、ずっと食卓に似合っていた。

 白い試験区画ではなく、湯気と取り皿と少し乱れた箸の中で聞くと、その願いがもっと生活のものに聞こえた。


「立ってるよ」

 悠真は言った。

「今も」

「座っていますが」

「そういうとこだよ」


 ブランが笑った。

 ノワールも、少しだけ遅れて笑う。


     *


 鍋の最後は、雑炊になった。


 圭介が「やっぱ締めは米だろ」と言い、九条が「量を考えてください」と言い、ブランが「卵ふたつ」と言い、牧瀬が「俺はもう食わない」と言いながら結局小さな茶碗を出した。


 ノワールは、雑炊をかき混ぜる九条の手元を真剣に見ていた。

「手順を記録しておきます」

「何で」

 悠真が聞く。

「兄さんが好む可能性があります」

「好むけど」

「では必要です」

「そういうの、すぐ必要にするな」


 ブランが右手で卵の殻を割ろうとして、少しだけ失敗した。

 殻のかけらが小皿に落ちる。

 ブランは一瞬むっとした顔をしたが、今度はすぐにやり直した。


「取れた」

 白い指先で、小さな殻をつまむ。

 少しだけ時間がかかった。でも、取れた。

「見た?」

「見た」

 悠真が言う。

「見ました」

 ノワールも言う。

「観測しました」

 九条も言う。

「なんか増えた」

 ブランが笑う。


 牧瀬はそれを見て、ほんの一瞬だけ口元を緩めた。

 すぐにいつもの顔へ戻したが、悠真は見逃さなかった。


「牧瀬、今ちょっと笑った?」

「笑ってない」

「笑ったよ」

 圭介が言う。

「うるさい」

「笑った」

 ブランも言う。

「お前ら、本当に遠慮がないな」


 そう言いながら、牧瀬はブランの右手を見た。

 そこには、以前の腕はない。

 同じものには戻らない。

 でも、今ここで卵の殻をつまんだ手がある。


 悠真はその手を見て、さっき自分が言った言葉をもう一度思う。


 穴の周りに、席がある。


 壊れたところの周りにも、生活がある。

 消えた人の周りにも、名前がある。

 戻らないものの周りにも、今いる人たちがいる。


 雑炊がよそわれる。

 湯気が立つ。

 それぞれの前に茶碗が置かれていく。


 九条が箸を整える。

 圭介が熱いと言いながらすぐ食べようとする。

 ブランが「待って」と止める。

 ノワールが悠真の分を少し冷ます。

 牧瀬が「そこまでしなくていいだろ」と言う。

 悠真が「いや熱いの苦手だし」と言う。


 その全部が、何でもないことみたいに進む。

 でも、何でもないことではなかった。


 悠真は茶碗を両手で持った。

 温かい。

 指先に湯気が触れる。


 ふと、父の名前が胸を通った。


 晃一。


 声に出したわけではない。

 でも、もうその名前を思い浮かべただけで全部が崩れるわけではなかった。

 痛い。

 寂しい。

 戻ってこない。


 それでも、自分はここにいる。


 ノワールがいる。

 ブランがいる。

 牧瀬がいる。

 九条がいる。

 圭介がいる。

 湯気があって、食卓があって、少しうるさい会話があって、茶碗の中には熱い雑炊がある。


 悠真は、ゆっくり息を吸った。


「いただきます」


 声にすると、思ったより普通だった。

 でも、その普通さが、胸に残った。


「いただきます」

 ノワールが続く。

「いただきまーす」

 ブランが言う。

「いただきます」

 九条が言う。

「いただきます」

 圭介が言う。

「……いただきます」

 少し遅れて、牧瀬も言った。


 それぞれの声が、食卓の上で重なる。


 悠真は雑炊を一口食べた。

 熱くて、少し舌を焼きそうになって、でもうまかった。


 生きている、と思った。


 大げさな実感ではなかった。

 泣くほどの感動でも、劇的な救いでもない。

 ただ、温かいものを食べている。

 隣に誰かがいる。

 名前を呼べる相手がいる。

 名前を呼んでくれる相手がいる。


 壊れたままで、戻らないものを抱えたままで、それでも今日の夕飯は続いている。


「兄さん」

 ノワールが呼ぶ。

「何?」

「熱くありませんか」

「熱い」

「では、次はもう少し冷ましてから」

「いや、自分でできる」

「しかし」

「過保護」

 圭介が言う。

「必要な配慮です」

 ノワールが言う。

「出た」


 ブランが笑い、九条が静かに湯飲みを置き、牧瀬が呆れたように息を吐く。


 悠真も、笑った。


 穴はまだある。

 傷も、記憶も、失った名前も、全部なくならない。


 それでも。


 名前を呼べば、返事がある。

 茶碗を持てば、温度がある。

 席を見れば、誰かがいる。


 そのことだけで、今日は十分だった。


 悠真はもう一度、茶碗を持ち直す。

 湯気の向こうで、ノワールとブランがこちらを見ている。

 牧瀬がうるさそうにしながら、結局雑炊をもう一口食べている。

 九条と圭介がまた何か言い合っている。


 全部が、ここにあった。


 悠真は小さく息を吐いて、もう一口食べた。


 生きている。


 今、自分はここで、生きている。

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― 新着の感想 ―
ああ…終わってしまった… お父さんは居ないけど、ちゃんと存在してるって事だよな、この食卓に居る人は皆悠真の言う通り父という穴に集まった者達だからなぁ… ノワールは前と比べて無理に堪える様子もなくなった…
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