第53話 青年になりたい
秋の終わりだった。
スーパーの帰り道、悠真は右手に買い物袋、左手に長ねぎを抱え、少し後ろを歩く二人を振り返った。
「遅いぞ」
そう言うと、ブランがむっとした顔をする。
「おそいんじゃないもん」
言い返しながら、白い白虎の少年ロボは、左手と仮の右腕で紙袋を抱え直した。右腕はまだ義肢の仮段階で、動くには動くが、細かな動きは不安定だ。袋の底が少し傾いて、そこから食パンの端が覗く。
ノワールが無言でそれを受け取った。
「重心がずれています」
「わかってるもん」
「わかっているなら、最初からそう持ってください」
「言い方」
悠真が口を挟むと、ノワールは一瞬だけこちらを見て、それから少しだけ目を伏せた。以前より静かな仕草だった。破局の痕は、もう目立つ傷ではない。だが、なくなったわけでもない。ノワールはときどき、こうして何でもない場面で、自分の動きや言葉を一拍ぶんだけ遅らせる。
それでも、ちゃんとそこにいる。
そのことが、悠真には今も時々、胸の内側をひどく静かに叩いた。
商店街の角で、揚げ物屋の前を通り過ぎる。
夕方の光は薄く、ガラスに映る三人の姿もぼんやりしていた。
悠真はそこで、ふと立ち止まった。
店のガラスに、自分とノワールが並んで映っていた。
自分はもう二十歳で、大学二回生として外を歩いている。ノワールはその少し下で、肩幅も足の長さも、まだ少年の域を出ない。隣に立っている。立っているのに、どこか決定的に、並んではいない。
その視線に気づいたのか、ノワールも足を止めた。
「どうしました」
「いや」
悠真は答えて、すぐには続けられなかった。
ブランだけが先に気づいた。
「ノワール、ちっちゃいね」
「ブラン」
「ぼくもだけど」
本人に悪気がないのはわかる。
わかるからこそ、ノワールはすぐ叱れないらしかった。
代わりに、少しだけ唇を引き結ぶ。
それから、何でもないような顔で歩き出そうとして――止まった。
「……兄さん」
小さく呼ばれる。
「ん?」
ノワールは商店街のガラスに映る自分を見たまま、しばらく黙っていた。
ブランがきょとんとしている。
「私、子どもに見えますか」
唐突な問いだった。
悠真は目を瞬いた。
「今さらだな」
「はい」
「いや、そういう意味じゃなくて」
悠真が言葉を探しているあいだに、ブランがずいっと前に出る。
「ぼくは?」
「お前もまだだいぶ子どもっぽいだろ」
「えー」
「なんでそこで傷つくんだよ」
ブランは明らかに傷ついた顔をした。
ノワールは、その横でまだガラスを見ている。
「嫌いではありません」
低く言う。
「今の身体も、嫌いではないです」
その言い方が静かすぎて、悠真は思わず顔を上げた。
「でも」
ノワールは、ようやくこちらを向く。
「この身体で終わりたくはありません」
商店街の騒がしさが、そこで一瞬だけ遠くなった気がした。
ブランが、ぱちぱちと瞬きをする。
「え、なにそれ」
次の瞬間には、白い耳がぴんと立った。
「ぼくも!」
「何がですか」
「ぼくもこの身体で終わりたくない!」
ノワールが横目で見る。
「今、便乗しましたね」
「してないもん」
「しました」
「でもほんとだもん」
悠真は、二人を見比べた。
笑ってしまいそうになる。だが、笑って流していい種類の言葉ではないことも、すぐにわかった。
ノワールの声には、さっきまでの買い物や揚げ物の匂いや、商店街のざわめきとは別の芯があった。
それは、不満ではなく、願いだった。
*
「嫌な予感しかしません」
牧瀬は、第一声でそう言った。
研究所の作業机に肘をついたまま、露骨に顔をしかめている。
その正面には、ノワールとブランが並んで座っていた。悠真はその少し後ろ。九条はタブレットを抱え、圭介は壁にもたれて、最初から面白がる気配を隠していない。
「まだ何も言ってないです」
ノワールが抗議する。
「言う前から嫌な予感がする程度には経験を積んだんだよ、こっちは」
牧瀬は即答した。
「で。何」
ノワールとブランが顔を見合わせる。
先に口を開いたのは、ブランだった。
「せいねんみたいな機体って、つくれないの?」
牧瀬の眉間に、深いしわが刻まれた。
圭介が吹き出す。
「うわ、真正面」
「笑わないでください」
ノワールがぴしゃりと言う。
「いや、お前までそっちなんだなって」
牧瀬は椅子に深く背を預けた。
「無理」
「早い」
悠真が反射で言う。
「いや、無理っていうか、話が雑すぎるんだよ。『青年みたい』ってなんだ。機体の拡張には骨格再設計、駆動バランス、同期率の再計算、義肢との接続――」
「ほら逃げた」
圭介が言う。
「逃げてない。正しい説明をしてる」
「正しいこと並べて嫌がってるだけじゃん」
牧瀬は露骨に舌打ちしそうな顔をしたが、しなかった。
「だいたい、お前たちまだ安定期に入ってからそんなに経ってないだろ。今の機体に慣れるのが先だ。成長設計なんてそのあとだ」
「でも、先があるんですよね」
ノワールが言う。
「理論上は、だ」
「じゃあ、ないわけではないんですね」
牧瀬が黙る。
その横で、ブランが身を乗り出した。
「ぼく、もうちょっとかっこよくなりたい」
「語彙」
九条がぼそっと言う。
「だってほんとだもん」
ブランは唇を尖らせる。
「かっこよくなりたいし、手も、もっとちゃんとしたいし」
そこで、仮の右腕を見下ろす。
「なんか、ずっと途中ってやだ」
その一言で、部屋の空気が少しだけ変わった。
牧瀬も、さっきまでの露骨な嫌そうな顔を、そのままにはしていられなくなったらしい。
目線だけが、ブランの右腕へ落ちる。
「途中」
ノワールが、静かに繰り返した。
「はい」
それから、自分の膝に置いた手を見る。
「私も、たぶん、そうです」
悠真は黙って立っていた。
ここで口を挟いでいい気がしなかった。
ノワールは少しだけ俯いたまま、続ける。
「兄さんの隣に、今の私のまま座ることはできます」
その言葉に、悠真の喉がひりついた。
「でも」
ノワールは言う。
「立つなら、もう少し先の私で立ちたいです」
圭介の軽い空気が、そこで完全に消えた。
九条もタブレットを下ろし、牧瀬はもう理屈を並べる顔をしていない。
「今の身体も、嫌いではありません」
ノワールは言う。
「この身体で、兄さんと生活してきました。ブランとも、皆とも、この身体でいました」
ゆっくり顔を上げる。
「でも、だから終わりにしたくないんです」
悠真は、何か言おうとして、やめた。
胸の奥のいちばん柔らかいところを、まっすぐ押された感じがした。
うれしい、だけではない。
怖い、だけでもない。
ここまで来たのか、という感覚が、遅れてじわじわ押し寄せる。
ノワールは、視線を逸らさなかった。
「兄さんの隣に立ちたいと、私が望んでいます」
それは告白の続きに聞こえたし、告白とは別の言葉にも聞こえた。
恋愛だけではなく、生き方の表明だった。
ブランも、そこで便乗した顔をやめた。
少しだけ背筋を伸ばす。
「ぼくも」
白い瞳が、今度はまっすぐ牧瀬を見る。
「ノワールと同じだからじゃなくて、ぼくも、ぼくで、先がほしい」
小さく息を吸う。
「こわれたところのつづきじゃなくて、ぼくがえらぶ、つぎのからだ」
言いながら、自分で少し驚いたような顔をした。
でも、もう引っ込めなかった。
「ぼくだって、ずっと守られるだけでいたくない」
牧瀬が、ようやく椅子から背を離した。
「……言いたいことはわかった」
その声は低い。
いつものように、適当に笑って流せる声ではなかった。
「わかってない顔してる」
圭介が言う。
「うるさい」
牧瀬は額を押さえた。
「簡単に言うなよ」
その言い方は、誰かを叱るというより、自分へ向けたものに近かった。
「お前たちの機体は、見た目の話じゃない。存在の安定に直結する。成長設計を入れるってことは、今の均衡をもう一度触るってことだ。負荷も、同期も、記憶域の保持も、全部最初から見直しになる」
顔を上げる。
「危ないんだよ」
ブランが、少しだけひるんだ。
ノワールはひるまない。
「危険だから、望んではいけませんか」
牧瀬は答えなかった。
沈黙が落ちる。
その沈黙を破ったのは、悠真だった。
「俺」
自分の声が少し掠れた。
「今のままでいい、とは言わない」
ノワールがこちらを見る。
ブランも見る。
「今のお前らが大事なのは本当だ」
悠真は言う。
「このままでも、ちゃんと大事だ」
そこから先を、少しだけ言いよどむ。
「でも、次を望むなら……それも、閉じたくない」
ノワールの目が、ほんのわずかに揺れた。
ブランは、泣きそうな顔で笑う。
「兄さん」
その呼び方が、今は前よりずっと静かに胸へ入る。
牧瀬は、机の上の端末へ手を置いたまま動かなかった。
逃げ道を探しているようにも見えたし、もう逃げ道がないとわかっているようにも見えた。
「……本気か」
低く言う。
「本気です」
ノワールが答える。
「ほんき」
ブランも重ねる。
「お前らなあ」
牧瀬は、そこで一度だけ目を閉じた。
破局のあとから、彼は何度も設計図を書き直してきたのだろう。
壊れたものを残すための図面。消さないための調整。未来ではなく、まず現在を保つための設計。
そこへ今、目の前の二人が、新しい要求を持ってきた。
戻すためでも、保つためでもない。
この先を選ぶための設計。
悠真は、牧瀬の顔を見ていた。
この人は簡単には折れない。
でも、もう昔のこの人でもない。
長い沈黙のあと、牧瀬は端末を開いた。
「……条件がある」
圭介が「出た」と小さく言う。
九条は何も言わない。ただ、口元だけがわずかに緩んだ。
「まず、これは“見た目を変える遊び”じゃない」
牧瀬は言う。
「お前たちの将来設計だ。やるなら、全部一から詰める。負荷試験も、模擬同期も、生活動作も、義肢との統合もだ」
ブランの右腕を一瞥する。
「ブラン、お前は特にそこを誤魔化さない」
「はい」
珍しく素直な返事だった。
「ノワール」
「はい」
「お前は……」
そこで少しだけ言葉が詰まる。
「お前は、隣に立ちたいんだろ」
ノワールは、静かに頷いた。
「なら、立てるだけじゃ駄目だ」
牧瀬は低く言う。
「中途半端な願望で設計する気はない。どう立ちたいのか、自分で言え。曖昧なままなら作らない」
ノワールの耳が、ほんの少しだけ立つ。
それは緊張にも見えたし、うれしさにも見えた。
「……はい」
牧瀬は深く息を吐いた。
まるで負けたみたいな顔だった。
実際、少しは負けたのだろう。
かつて“戻す側”に立ち続けた人が、今は“作る側”へ回ろうとしている。
「本当にやるなら」
端末の新規画面を開く。
「ちゃんと設計する」
そこには、まだ何もない白いフレームが表示されていた。
何にでもなれる前の、空白の設計図だった。
ブランが、机の縁へ身を乗り出す。
「耳はこのままがいい」
「早い」
圭介が笑う。
「そこ大事だもん」
ノワールは、その白い画面をじっと見ていた。
戻るためではない。
消えないためだけでもない。
次を選ぶための、まっさらな余白。
やがて、ノワールは言った。
「肩は、今より少しだけ広いほうがいいです」
悠真が思わず吹き出す。
「具体的だな」
「必要なことです」
ノワールは真顔で言った。
「兄さんの隣に立つので」
その言葉に、今度は悠真が黙る番だった。
圭介がにやにやし、ブランが「ぼくも!」と騒ぎ、九条がまた口元だけで笑う。
牧瀬は面倒くさそうな顔のまま、入力欄を開いた。
「……じゃあ、まず希望条件を全部出せ」
白い画面の上に、最初の線が引かれた。
それは、誰かに与えられる身体ではなく、自分で選ぶ次の未来の、最初の線だった。




