第52話 湊から
午後の光が、机の端だけを白くしていた。
大学から戻って、レポートを一つ片づけて、夕方まで少し時間がある。仮住まいから今の部屋へ移っても、悠真はこういう隙間の時間の使い方があまりうまくなっていなかった。
ノワールとブランは買い物に出ている。九条は研究所。圭介は講義のあとそのままバイトだと言っていた。部屋の中が珍しく静かで、その静けさが少しだけ手持ち無沙汰だった。
引き出しを開けたのは、ただ充電器を探していただけだった。
奥に、薄い封筒があるのが見えた。
何が入っているのかは、見なくてもわかった。
白い封筒。折れ目のないまましまわれていたそれの表に、短く名前が書いてある。
悠真へ。
差出人は、その下に小さく、湊。
ずっと、開けていなかった。
あの日のあと、警察や研究所や大学や家のことに追われて、気づけば毎日が勝手に過ぎていた。封筒が届いたのはもっと前だ。見た。差出人も見た。そのまま引き出しへ入れた。
忘れていたわけじゃない。
ただ、手をつけないままにしていた。
悠真は一度、封筒を持ち上げて、また戻した。
机の端へ視線を逃がす。
ぬいぐるみが二つ並んでいる。父が最後に渡した、黒いアヌビスと白い白虎。前より少しくたびれて見えるのは、よく触られているからだ。
ノワールとブランの気配がない部屋で、その二つだけが静かにこちらを見ていた。
今日なら開けられる、というはっきりした理由はなかった。
でも、今日は開けないままにする理由も、少しだけ薄かった。
もう一度、封筒を手に取る。
紙は軽いのに、妙に重たかった。
*
手紙は、一枚だけだった。
短い。思っていたよりずっと短い。
長い謝罪も、説明も、なかった。
そのことに、少しだけ肩の力が抜けて、それから別のところが硬くなった。
字は、整っているのにところどころ躓いたみたいに見えた。
配信は止めています。
止めたというより、動かせないままです。
休止の文だけは出しました。
アカウントは消していません。
動画も残したままです。
消すと、何もなかったみたいで、それも違う気がしたからです。
盤上パンタはたぶんもう動かないと思います。
でも、消したとも言い切れません。
あの名前でしか触れられなかったものがあったのも、本当だからです。
研究所には、まだいます。
いるという言い方が正しいのかはわかりません。
手伝っているというより、残っている設計とログの後始末をしている感じです。
役に立っているのかも、正直よくわかりません。
君に言われたことは、まだ痛いです。
痛いままで、たぶんいいんだと思っています。
ノワールとブランのことを、ときどき考えます。
前みたいには考えられません。
あの二人のことを、もう奇跡とは呼べないし、呼びたくないです。
名前で考えてしまいます。
それが良いことかどうかはわからないけど、前とは違うのはそこです。
ノワールとブランに、元気でいてほしいとは書かないほうがいい気がします。
そんな資格はたぶんないから。
でも、そう思ったのは本当です。
君の生活の邪魔をしたいわけじゃありません。
返事もいりません。
ただ、何も言わないままなのも違う気がしたので、書きました。
湊
追伸
白いほうも黒いほうも、という言い方をしなかっただけ、少しはましになったのかもしれません。
そこで終わっていた。
悠真は、最後の一行をしばらく見ていた。
少しだけ皮肉で、少しだけ自分で自分を刺していて、でもたぶん本気でそう思っている書き方だった。
湊らしい、と言ってしまっていいのかもわからない。
でも、その迷いごと込みで、たしかに湊の文だった。
返事はいらない。
そう書いてある。
それはたぶん、気遣いではない。返事をもらえる位置に自分はいないと、湊も知っているのだろう。
そこまで知っていて、それでも書いた。
そのことが、妙に残った。
許したわけではない。
許せるとも思わない。
手紙一枚で何かが片づくほど、軽いことは起きていない。
でも、読まなければよかったとも思えなかった。
手紙を持つ指先に、少しだけ汗がにじんでいる。
悠真は息を吐いて、机の端へ視線を落とした。
封筒をまたしまうことはできた。
引き出しの奥へ戻して、見なかったことにすることも。
けれど、その前に、ノックがした。
「兄さん」
ノワールの声だった。
「入ってもよろしいですか」
「……うん」
扉が開く。
ノワールは中へ入ってきて、悠真の手元を一瞬だけ見た。差出人の文字が視界に入ったのだろう。赤金の目がほんの少しだけ細くなる。
でも、何も聞かない。
代わりに、湯気の立つマグカップを机の上へ置いた。
「紅茶です」
「ありがと」
「少し冷えますので」
「うん」
ノワールはそのまま、少しだけ黙っていた。
悠真も、手紙を持ったまま何も言わない。
説明することはできる。読んだ、と言うことも、短く話すことも。
でも今は、言葉にすると少し違う気がした。
ノワールが手紙の本文を覗くことはなかった。
ただ、机の上に置かれた封筒と、その横にあるぬいぐるみを見て、それから悠真のほうへ視線を戻す。
「兄さん」
「ん?」
「無理に捨てなくても、大丈夫です」
静かな声だった。
優しい、と言ってしまうには少し違う。
もっと、今ここにあるものをそのまま置いていいと言う声だった。
悠真は少しだけ笑ってしまう。
「捨てるかどうかで悩んでる顔してた?」
「少し」
「まじか」
「はい」
ノワールも、わずかに口元を緩めた。
そのやり取りで、何かが軽くなるわけではなかった。
湊がやったことは消えない。
湊が抱えていた痛みも、だからといって免罪されない。
たぶんこの先も、会いに行くとは思えないし、返事を書く気もまだなかった。
それでも、完全に無にできる相手ではないのだとだけは、わかってしまった。
悠真は手紙を折り直す。
封筒へ戻す。
そして引き出しの奥へしまう代わりに、机の端、本とぬいぐるみのあいだへ置いた。
視界からは消えない。
でも、抱えていなければいけない距離でもない。
そのくらいの場所だった。
ノワールはそれを見て、何も言わなかった。
言わないまま、マグカップを悠真の手元へ少しだけ寄せる。
その時、廊下の向こうからブランの声がした。
「お兄ちゃーん、ノワール、牛乳こぼしたー」
「こぼしていません」
ノワールが即座に返す。
「倒しかけただけです」
「それはこぼす一歩手前なんだよ」
悠真が言うと、廊下の向こうでブランが笑う。
その笑い声を聞きながら、悠真は机の上の封筒をもう一度だけ見た。
戻れない。
でも、切れてもいない。
その線を、今はもう少しだけこの部屋に置いておいてもいい気がした。
「兄さん?」
「うん。今行く」
悠真は立ち上がる。
机の端には、封筒が残ったままだった。




