第51話 途中
研究所の調整室は、いつ来ても少しだけ冷たい。
壁際に並んだ工具も、点検用の端末も、白い照明も、全部がきちんとしすぎている。その整い方が、今日は余計に嫌だった。
ブランは調整台に座ったまま、右肩の先に接続された義肢を睨んでいた。
白いフレームに、まだ仮段階の外装。形だけ見れば、腕だった。腕なのに、自分のものではない感じが消えない。
「握って」
牧瀬が言う。
声音はいつも通りだった。柔らかくもしないし、励ましもしない。ただ必要なことだけを置いてくる。
ブランは返事をしないまま、右の義肢を動かした。
指先が少し遅れて閉じる。
閉じるだけならできる。
でも、そこから先が駄目だった。テーブルの上の樹脂カップを掴もうとして、つるりと取り落とす。軽い音がして、九条が無言で拾った。
「反応が半拍遅い」
九条が端末へ記録する。
「把持圧も不安定です」
「見りゃわかる」
ブランはむっとして言った。
九条は「そうですね」とだけ答えて、また記録へ戻る。
そのやり取りが、余計に腹が立つ。
左側には悠真が立っている。
少しだけ前のめりで、でも手は出さない。出したいのを我慢しているのが見える。わかるから、なおさら言いたくなる。
「だいじょうぶ」
先に言ってしまう。
言ってから、言われてもいないのに何でそんなことを言ったのかと、自分で少し苛立った。
ノワールは部屋の隅にいた。ブランの一番近くにいたいくせに、近づきすぎると邪魔になると知っている距離だ。
赤金の目がじっとこちらを見ている。
助けたそうなのも、でも助けると怒られるかもしれないと思っているのも、両方見える。
「もう一回」
牧瀬が言う。
「今度は慌てるな」
「慌ててない」
「慌ててるやつはみんなそう言う」
腹が立つ。
でも言い返す前に、また試すしかない。
カップ。
掴む。
上がる。
少し持てる。
その瞬間、指先の圧が急に強くなって、べき、と情けない音を立ててカップが潰れた。
白い樹脂がひしゃげる。
沈黙が落ちた。
ブランはそれを見下ろしたまま、動けなくなる。
カップひとつ、まともに持てない。持てたと思ったら、今度は壊す。
「……やだ」
小さく出た声は、自分でも思ったより幼かった。
「ブラン」
悠真が呼ぶ。
「だいじょうぶって言った」
「大丈夫じゃないだろ」
その返しが優しすぎなくて、余計にむかつく。
「だいじょうぶだもん」
「いまカップ潰したじゃん」
「みればわかる!」
言った瞬間、部屋の空気が少しだけ固まった。
悠真は黙る。
ノワールの耳がわずかに伏せる。
九条は端末を持ったまま目だけ上げた。
牧瀬だけが、変わらない。
「続ける?」
その問い方が、選ばせているようで、でも逃がしてはいない。
ブランは義肢の先を睨んだまま、唇を尖らせる。
「……やる」
「じゃあ次」
牧瀬は即座に言った。
「ボタン」
調整台の脇に置かれた小さな入力パネルが点灯する。日常動作の確認用だ。押すだけ。押すだけなのに、押すだけが妙に難しい。
義肢の指先を伸ばす。
近づく。
触れる。
ボタンの縁をかすめて、違うところを押してしまう。電子音が変なリズムで鳴った。
「違う」
「わかってる」
「力点が散ってる」
「わかってるってば」
「なら、なおさら落ち着け」
ブランはぎゅっと奥歯を噛む。
できないことが積み重なると、身体の右側だけじゃなくて、胸の真ん中まで妙に重くなってくる。
右腕を失ったときのことは、もう夢みたいに遠いところもあるのに、こういう時だけ、まだずっとあの続きにいる気がする。
なくした。
直してる。
足してる。
でも、それだけ。
ずっと、壊れたところの続き。
義肢の指先がまたボタンの横を滑った。
「もうやだ」
今度は、はっきり言葉になった。
「やだ」
義肢を引っ込める。
「こんなの、ぼくの腕じゃない」
誰もすぐには何も言わなかった。
その静けさが、また腹立たしい。
励まされるのも嫌だけど、黙られるのも嫌だった。
「ずっと途中って感じする」
勝手に続く。
「なおしてるだけみたいで、やだ」
右肩の先が熱い。熱いのは痛みというより、うまくいかなさがそこへ溜まっている感じだった。
「できるって言うのに、変だし」
「ブラン」
今度はノワールだった。
落ち着いた声だったけど、その落ち着きの下に心配がある。
「手伝いは」
「いらない」
反射で言ってしまう。
ノワールが少しだけ傷ついた顔をする。
それを見て、余計に自分が嫌になる。
悠真が一歩だけ近づきかけて、止まった。
待ってくれているのがわかる。
待たれることさえ、今は少し痛い。
牧瀬が、そこで初めて少しだけ黙った。
ブランではなく、義肢の接続部を見る。その視線は逃げていない。見るべきところを見て、それからようやく言う。
「そうだよ」
ブランが顔を上げる。
「それは、お前の前の腕じゃない」
牧瀬の声は低い。
「同じものにはならない」
それは慰めではなかった。たぶん、慰めようともしていない。
「だから、“同じ腕”にしようとするな」
白い照明の下で、牧瀬の目だけが妙にまっすぐだった。
「これから使う腕にするしかない」
部屋が静かになる。
ブランは何も言えなかった。
そんなこと、わかっている。わかっているのに、わかっているだけじゃ追いつかないから、こんなに腹が立つ。
「……これ、ぼくのじゃない」
さっきより小さい声で言う。
「まだな」
牧瀬は答えた。
「まだ?」
「使えば変わる。変える気があるなら、なおさら」
牧瀬は端末を一度見てから、もう一度ブランを見る。
「壊れたところの続きをやってるだけだと思うなら、そこで終わる」
言い方は冷たい。
でも、切り捨ててはいなかった。
「次にしたいなら、次の使い方を覚えろ」
ブランは眉を寄せたまま、その言葉を飲み込めずにいた。
九条が静かに補助台の上へ、別のものを置く。
小さな白虎のぬいぐるみだった。
少し毛並みがくたびれている。仮住まいのソファに置かれている、あれと同じ型だ。
「把持対象、変更します」
九条が言う。
「軽く、変形しにくいもののほうが、反応確認に向いています」
「ぬいぐるみ」
ブランが言うと、九条はうなずいた。
「好きでしょう」
「そういう言い方」
「事実です」
相変わらずの調子だった。変に優しくしない。そのことが、少しだけ楽だった。
ブランは息を吐く。
右の義肢を見て、白虎のぬいぐるみを見る。
やだ。
まだ変だ。
自分の腕じゃない。
でも、そこで終わるのも、なんだかもっと嫌だった。
ゆっくり右腕を伸ばす。
指先がぬいぐるみの腹に触れる。
前より少し遅れが少ない。
閉じる。
柔らかい感触が指先へ返る。
力を入れすぎると潰す。
弱すぎると落ちる。
その間を、探す。
持ち上がった。
ほんの少しだけ。
でも、落ちなかった。
ブランは息を止める。
誰も何も言わない。
褒めない。騒がない。ただ見ている。
持てている。
変な感じだ。
変なのに、ちゃんとある。
右の先に、何かを持っている感覚がある。
自分のものではないような、でも今たしかに自分が動かしたものの感覚。
そのまま数秒。
やがて腕がぶれて、ぬいぐるみは台の上へ戻った。
落ちたのではなく、戻した。
そこが違った。
ブランはしばらく黙ったまま、右腕の先を見る。
嬉しいのか悔しいのか、自分でもよくわからない顔をしていたと思う。
「……まだ変」
ようやく出た言葉は、それだった。
でも、その声はさっきまでより少しだけ低かった。
「そうだろうね」
牧瀬が言う。
「今日は今日の変さが減っただけだ」
「やな言い方」
「事実だ」
でも、その事実の置き方には、前より少しだけ先があった。
ノワールがそこで、ごく小さく息を吐いた。
助けたかったのを我慢していたぶん、力が抜けたのがわかる。
悠真も、ようやく肩を落とす。
ブランはそれを見て、少しだけ気まずくなった。
「……さっきは、ごめん」
ノワールに向かって言う。
ノワールはすぐに首を振る。
「いいえ」
「よくない」
「それでも」
ノワールは少し迷ってから言った。
「手伝いたいのは本当ですが、今は、待つほうが正しいと理解しています」
「なにその言い方」
「事実です」
九条と同じ返しだった。
ブランはむっとしたあと、ちょっとだけ笑う。
「へん」
*
その日の調整が終わったころには、右肩のつけ根まで疲れていた。
仮住まいへ戻る道でも、ブランは少し不機嫌だった。
でも、朝みたいな尖り方ではない。疲れていて、苛立ちも残っていて、でも何かが少しだけ違う。
部屋へ入ると、ソファの端に置いてあった白虎のぬいぐるみが目に入った。
いつもの場所。
いつもの顔。
ブランはそこで立ち止まる。
「ブラン?」
悠真が振り返る。
でも、今度はすぐには手を出してこない。
待っている。
ブランは右の義肢を見る。
今日ずっと腹が立っていた腕。
変な腕。
まだ、自分のじゃない感じが残る腕。
それでも、ゆっくり伸ばす。
ぬいぐるみに触れる。
少し位置を直す。
掴む。
持ち上げる。
ぎこちない。
きれいじゃない。
でも、落ちない。
白虎のぬいぐるみが、右腕の中にちゃんといる。
ブランはそれを少しの間だけ見て、それから胸の前へ引き寄せた。
左腕ほど自然じゃない。
でも、抱けた。
誰も大げさに褒めなかった。
悠真も、ノワールも、九条も、ただ見ていた。
その見方がよかった。
できたことを大事件にされないのが、今は少しありがたい。
「……まだ、きらい」
ブランはぬいぐるみを抱いたまま言う。
「うん」
悠真が答える。
「でも」
そこで言葉を探す。
途中。
嫌だ。
まだ変。
その全部は本当だった。
でも、それだけじゃなくなってしまったことも、本当だった。
「でも、これ」
右腕を少しだけ上げる。
「つづき、だけじゃないかも」
誰もすぐには何も言わなかった。
その沈黙が、今度は嫌じゃなかった。
ブランは白虎を落とさないよう少しだけ抱き直す。
ぎこちなくて、まだ途中で、好きにもなれていない。
それでも、行き止まりではないのかもしれないと思った。
そのことだけは、ちゃんと自分でわかっていた。




