第50話 初デート
最初に言い出したのは、ブランだった。
「それ、もうでーとでは?」
朝食の席で、白い白虎は左手だけで器用にスプーンを回しながら、いかにも何でもないことみたいに言った。
悠真は味噌汁を吹きそうになって、あわてて口元を押さえる。
「な、なんの話だよ」
「きょう、ふたりで出かけるやつ」
「ただの外出」
即答したのはノワールだった。
黒金のアヌビスは、いつもより数ミリだけ背筋を伸ばして座っている。普段から姿勢はいいのに、今日は明らかに良すぎた。
「必要な日用品の補充と、兄さんの気分転換を兼ねた」
「すいぞくかん」
ブランがにやりとする。
「必要な日用品、すいぞくかんに売ってる?」
ノワールが一瞬だけ黙った。
悠真はその沈黙のせいで、余計に顔が熱くなる。
今の仮住まいに移ってから数か月。共同体の生活は、壊れたまま何とか回り始めていた。ノワールもブランも、傷の痕を残したままちゃんとそこにいる。悠真も大学へ戻り、九条は以前より少し遅く眠るようになり、圭介は相変わらず勝手に晩飯を食いに来る。
その生活の延長で、昨日、ノワールがぽつりと言ったのだ。
「兄さん。もしよければ、今度、二人で出かけませんか」
その時はうまく飲み込めなかった。
でも、うなずいた。
うなずいた瞬間から、たぶん二人とも、ずっと変だった。
圭介がトーストをかじりながら言う。
「まあでも、デートじゃん」
「圭介」
「違うなら違うでいいけど、じゃあそんなに服を見直さなくてもいいだろ」
悠真の肩が跳ねた。
「見てねえよ」
「見てた」
九条が無慈悲に言う。
「三回着替えています」
「数えるなよ……」
「ノワールは五回です」
ノワールが、静かに箸を置いた。
「最適化です」
「最適化」
ブランがくすくす笑う。
「でーと、むずかしいねえ」
悠真はうつむいたまま、味噌汁を飲む。
向かいに座るノワールも、赤金の目をわずかに伏せていた。
誰がどう見ても、ただの外出ではなかった。
*
家を出るまでが、まず大変だった。
悠真は玄関で靴紐を結び直してから、左右が違う靴を履いていたことに気づいた。
ノワールは出発前に「財布、学生証、充電残量、路線、館内の混雑予測、帰路、緊急時の迂回経路」と小声で確認していて、悠真に「そんな遭難前みたいなチェックいる?」と言われて完全に固まった。
「……兄さん」
玄関先でノワールが小さく言う。
「はい」
「本日は」
「うん」
「失敗しないよう尽力します」
その言い方があまりに真面目で、悠真は笑いそうになった。でも笑ったらたぶんノワールは本気で傷つくので、必死でこらえる。
「俺も」
「はい」
「尽力する」
ノワールが少しだけ目を見開いて、それから本当にわずかに笑った。
「ありがとうございます」
見送りに出たブランが、わざとらしく大きく手を振る。
「いってらっしゃーい。しんこきゅうしてね」
「お前は何目線なんだよ」
「けんぶつ」
「最低だな」
「圭介」
九条が静かに言った。
「帰宅後の茶化しは禁止です」
「え、先回りで?」
「空気を悪くする可能性が高いので」
「お前、こういう時だけ妙に優しいよな」
「観察の結果です」
九条はそこで悠真たちを見た。
「楽しんできてください」
さらりとした声だった。でも、その一言には以前より少しやわらかいものが混じっていた。
悠真は「行ってきます」と言った。
ノワールも言う。
「行ってきます」
その並びだけで、また少しだけ胸がうるさくなる。
*
水族館は思ったより混んでいた。
暗い館内。青い光。大きな水槽の前を、ゆっくり人が流れていく。
選んだのはノワールだった。歩く速度が自然と落ちる場所で、会話が途切れても不自然じゃなくて、並んでいても変に目立たないから、らしい。たしかに理にかなっている。理にかなっているのに、入館して十五分で、二人ともかなり変だった。
「……」
「……」
並んで歩く。
並んで歩くだけなのに、いつもと違う。
家の廊下も、台所も、食卓も、一緒にいた。大学の帰りにコンビニへ寄るくらいならあった。けれど、今日のこれは全部が違った。
今日は、恋人として二人で外にいる。
そう思った瞬間に、悠真の中の何かが毎回どこかへ飛ぶ。
「兄さ――」
ノワールがそう言いかけて止まる。
「……悠真さん」
今度はそれがあまりにぎこちなくて、悠真は思わず吹き出した。
「なんで敬語なんだよ」
「失礼しました」
「いや、失礼とかじゃなくて」
ノワールが少しうろたえる。
「恋人同士の呼称について、まだ最適な解が見つかっていません」
「解とか言うなよ」
「しかし」
ノワールは真剣そのものだった。
「『兄さん』は家族呼称としての情報量が強すぎる可能性があります」
「でも今までずっとそれだったし」
「はい」
「無理に変えるほうが変だろ」
そう言ってから、悠真は少しだけ声を落とす。
「……俺は、兄さんでいい」
ノワールが止まる。
水槽の青い光が、その黒い輪郭をやわらかく染める。
「本当ですか」
「本当」
「恋人らしくなくても?」
「恋人らしさって、なんだよ」
悠真が言うと、ノワールは少し考えてから、
「手を繋ぐこと、でしょうか」
と真顔で返した。
今度は悠真が止まった。
「……いきなり主題に入るな」
「すみません」
「謝るなって」
「いえ、段取りとしては、まず空気をほぐしてから」
「だから段取りで考えるなよ」
そう言いながら、悠真もひどく意識していた。
手。
手を繋ぐ、という単語が出た瞬間から、隣のノワールの左手が視界に入ってしまって仕方がない。
家ではもっと自然に触れてきたはずなのに、今日は駄目だった。
今日の接触は全部、意味を持ちすぎる。
そのあともしばらく、二人は展示を見るたびに変な事故を起こした。
ノワールは飲み物を買うタイミングまで事前に計算していたくせに、悠真が「ありがとう」と受け取っただけで挙動が一瞬止まる。
悠真は悠真で、ノワールが少し近づいただけで「近いな」と思ってしまい、そのたびに勝手に身体を硬くする。
傍から見れば、仲のいい二人連れでしかない。
たぶん誰も、本人たちだけが一大事だと思っているとは気づかない。
*
大水槽の前は、少しだけ人が少なかった。
巨大なガラスの向こうを、ゆっくり魚の群れが流れていく。
暗い青の中で、光だけが静かに揺れていた。
悠真とノワールは並んで立ち止まる。
会話がなくても、不思議と苦しくない場所だった。
「兄さん」
ノワールが言う。
「うん」
「水の中は、少し似ています」
「何に」
「私たちに」
悠真はノワールを見る。
ノワールは水槽を見たままだった。
「同じ向きに泳いでいるようでも、全部違う形で、違う速さで、でも一緒のところにいる」
言ってから、ノワールは少しだけ困ったように笑う。
「うまく言えません」
「いや」
悠真は小さく首を振る。
「わかる気がする」
その返事に、ノワールの肩から少し力が抜けたのが見えた。
少し沈黙が落ちる。
水槽の光だけが揺れる。
「……兄さん」
「ん?」
「今日は、もっと、うまくできると思っていました」
その声は、さっきまでの理路整然としたものとは少し違っていた。
「何が」
「全部です」
ノワールは正直に言った。
「兄さんの隣に立つなら、もっと自然に振る舞えると」
「自然に?」
「はい」
「全然自然じゃないけど」
悠真が言うと、ノワールは少しだけうつむく。
「はい」
「俺もだよ」
ノワールが顔を上げた。
「俺も今日、めちゃくちゃ変だし」
「そうでしょうか」
「そうだよ」
悠真は苦笑する。
「家出る前から、何回服見たと思ってる」
「三回です」
「数えるな」
「九条が」
「九条先輩、そういうとこあるよな……」
二人で少し笑う。
笑ったあと、悠真はガラス越しの青を見たまま続ける。
「うまくやりたかったの、俺も同じ」
自分で言うと、少し照れくさかった。
「その……せっかく、こういうの、できるようになったし」
「はい」
「ちゃんとしたかった」
ノワールが黙って聞いている。
「でも、ちゃんとしてるかどうかより」
悠真は言葉を探した。
「今日、一緒にいることのほうが、たぶんもう大きい」
ノワールが、ゆっくり瞬く。
「……兄さん」
「うん」
「それは、とても」
そこで一度、言葉が切れる。
ノワールは感情を整えるみたいに、小さく息を吸ってから言った。
「うれしいです」
その一言の重さで、悠真の胸が少し痛くなる。
うれしい。
そういう普通の単語が、この二人にはまだ少しだけ重い。
でも重いまま言えるようになったのだと思うと、それだけで何かが報われる気がした。
*
ベンチで休んだあと、出口へ向かう通路は少し暗かった。
売店の光が遠くに見える。
人通りもさっきより少ない。
並んで歩いて、また少し沈黙が落ちる。
でも今度の沈黙は、午前中のものよりだいぶ柔らかかった。
その時、ノワールの左手が、ほんの少しだけ動いた。
動いたのに、何も起きない。
起きないまま、また元の位置へ戻る。
見えてしまった。
悠真は、しばらく迷った。
迷ってから、自分の右手を少しだけ横へ出す。
それだけで、心臓が変な鳴り方をする。
ノワールは二秒くらい気づかないふりをして、それから、恐る恐る触れた。
指先が当たる。
逃げない。
もう少し触れる。
ようやく、ほんの少しだけ手を繋ぐ形になる。
自然ではなかった。
ぎこちなかった。
でも、ちゃんと繋いでいた。
ノワールが小さく息を呑む音がした。
「兄さん」
「うん」
「手」
「そうだな」
「繋がっています」
「実況するなよ」
悠真が言うと、ノワールは本当に少しだけ笑った。
「確認です」
「確認できた?」
「はい」
それからノワールは、今度は少しだけ指に力を入れた。
「……とても、うれしいです」
さっきと同じ言葉なのに、今度はもっと近いところへ落ちてきた。
悠真は何か返したくて、でも上手い言葉が出なかった。
だから、同じくらい不器用に指へ力を返す。
「俺も」
それだけ言う。
それだけで十分伝わったらしく、ノワールはまた少しだけ目を伏せた。
完璧じゃなかった。
たぶん今日一日、何一つ完璧にはできなかった。
でも、隣にいた。
変な失敗をして、余計に意識して、ぎこちなくなって、それでも帰り道にはちゃんと手を繋げている。
それでよかったのだと思えた。
*
帰宅すると、玄関を開けた瞬間にブランが顔を出した。
「おそい」
「普通だろ」
「顔みればわかる」
「何が」
「うまくいったんだねえ」
悠真が即座に振り返ると、ノワールがまだほんの少し耳を伏せたまま立っている。
どうやら、手を繋いだ余韻がまだ完全には抜けていないらしい。
「わかりやす……」
「三崎くん」
九条の声が飛ぶ。
「茶化さない約束です」
「俺まだ何も言ってない」
「言う顔です」
「それ顔で裁くのやめろって」
台所のほうから、少しだけ笑いをこらえる気配がした。
九条だった。
その空気に触れて、悠真はようやく肩の力を抜く。
帰ってきた、と思った。
壊れたまま続いている共同体。
そこへ、今日の二人もちゃんと帰ってきた。
隣でノワールが、小さく言う。
「兄さん」
「ん?」
「また、行ってもいいですか」
悠真は少しだけ笑う。
「完璧にできるようになってから?」
ノワールが一瞬真顔で考えそうになったので、悠真は先に続けた。
「今の冗談だからな」
「……はい」
「また行こう」
ノワールの目が、やわらかく細くなる。
「はい」
それで十分だった。
完璧じゃなくても、次がある。
次も、隣にいられる。
その事実だけで、今日の失敗は全部、ちゃんと甘かった。




