第49話 名前を呼ぶ
数週間後の朝、台所にはまだ仮住まいの匂いが残っていた。
新しい部屋の匂いとも、よく知らない洗剤の匂いとも違う。急いで揃えた食器棚、借りもののテーブル、段ボールを片づけきったあとにも消えない、落ち着ききらない生活の匂いだった。
九条が味噌汁の火を止める。圭介は食卓の端でまだ半分眠そうな顔をして、トーストをくわえたままスマホを見ていた。テレビはついていない。その代わり、窓の外の車の音と、湯気の立つ音と、ブランの小さな鼻歌が部屋を回っている。
「はみだし、はみだし、だいせいかい」
途切れ途切れの、外れた節回し。前なら悠真はうるさいと言っていたかもしれない。今は言わない。
ブランは左手だけでスプーンを持っていた。右腕の欠損はそのままだ。肩口の白い外装は整えられているが、まだ仮の処置でしかない。研究所から届いた簡易の補助具は、今日の午後にもう一度調整が入る予定になっていた。
冷蔵庫の横には、その時刻が牧瀬の字で貼ってある。昨日ここへ寄って、九条にだけ必要なことを伝えて帰っていったのだ。
九条はそのメモを一度見て、鍋の横に箸を三膳、スプーンを一本、左側へずらして置いた。
ノワールは味噌汁の椀を並べていた。棚から取った順ではなく、座る位置に合わせて、湯呑みの向きまできちんと揃える。そこだけ妙に手慣れて見えて、悠真は一瞬だけ目を止めたが、何も言わなかった。
テーブルの向こう、低い棚の上には、黒いアヌビスと白い白虎のぬいぐるみが並んでいる。揃いきっていないのに、そこにあるのがもう当たり前みたいな顔をしていた。
「圭介、パン取って」
悠真が言うと、圭介が「あいよ」と皿を寄こす。
「ブラン、ジャムそっちついてる」
「えっ」
「口」
「どこ」
「そこじゃわかんねえよ」
圭介が笑って、ティッシュを一枚抜いて渡す。ブランは左手で受け取ろうとして、うまくいかず、持ち直した。誰も手を出さない。見ていないふりでもなく、かわいそうだからでもなく、そのくらいはもう自分でやれると知っている顔で見ている。
悠真は自分の湯呑みを持ち上げ、一口飲んだ。熱い。
父のことを、考えない日はない。牧瀬の顔も、盤上パンタの声も、ラボの光も、簡単には剥がれない。研究所からの連絡も続いている。ブランの補助具の件、ノワールの点検の件、経過観察の件。終わったことより、続いていることのほうが多い。
薄い封筒が一度だけ届いた。差出人の欄にあった名前を、悠真はまだまともに見返していない。引き出しの奥にしまって、どこにあるかだけ覚えている。
それでも朝飯は要る。パンは四枚では足りなくて、ブランの分は端を小さく切ったほうが食べやすい。ノワールは味噌汁のねぎを残さない。圭介は支度が遅いくせに食べるのは早い。九条は黙っていても、誰の手がどこで止まるかを見ている。
悠真は、それを前より先に考えるようになった。面倒だと思う日もある。味噌汁をよそう順番ひとつで、食卓の流れが変わることも知った。
「ノワール」
黒い耳が、ぴくりとこちらを向いた。
「皿、もう一枚ある?」
「あります」
返事はすぐだった。棚を開ける手も迷わない。
「ブラン」
「なに」
「こぼすなよ」
「もうこぼしてないもん」
少し拗ねた声。その隣で、圭介が吹き出す。
九条は味噌汁をよそいながら、「今からです」とだけ言った。
一瞬だけ空気が止まって、すぐに崩れた。ブランが「くじょーいじわる」と言い、圭介が笑い、ノワールは聞いていないみたいな顔で最後の椀を置いた。
その置き方まで、きれいすぎて少し腹が立つ。けれど、腹が立つなら、見ている余裕があるということでもあった。
壊れたものは壊れたままだ。戻らないものは戻らない。けれど、朝は勝手に来るし、腹も減る。
ノワールが皿を置く。
ブランが椅子を引きずる。
圭介がコップを取る。
九条が最後の一人分を運んでくる。
悠真はもうためらわなかった。
「ノワール、座れ」
「はい」
「ブランも」
「うん」
それから、いつもみたいに言う。
「いただきます」




