第48話 帰るまで
処置区画が静かになっても、誰もすぐには動けなかった。
補助アームの待機音だけが残っている。さっきまで白く焼けていた光景が、急に機械の部屋へ戻ってしまったみたいだった。床には影が落ちている。人の数だけあるはずなのに、足りない気がした。
ブランは処置台の端で眠っていた。
気を失っているのか、眠っているだけなのか、悠真にはまだ判別がつかない。白い肩は上下している。左手は開いたまま、何かを掴みそこねたみたいに力が抜けていた。
ノワールは目を開けていたが、焦点が少し遅れる。呼べば反応する。けれど、いつもの速さではない。
「ノワール」
黒い耳が、遅れてこちらを向いた。
「……はい」
返事はあった。
それだけで、悠真はようやく息を吐いた。
九条が端末を閉じる。
「今夜は帰せます」
事務的な声だった。
慰めるための音ではない。
「ただし、経過観察は必要です。ノワールは深部ログの干渉が残ってる。ブランは出力も身体側も落ちてる。補助具の再調整は明日。今日は無理をさせないでください」
「無理って、どこから」
悠真が聞くと、九条は一拍だけ黙った。
「起きているだけで、たぶん十分きついです」
圭介が小さく息を呑む。
それ以上、誰も軽いことを言えなかった。
牧瀬は少し離れた場所で、回収したデータを端末へ移していた。手だけが動いている。顔はひどく静かで、静かすぎて見ていられない種類のものだった。
作業が終わると、牧瀬は端末を九条へ渡した。
「再分離直後の波形と、補助具の暫定設定を入れてある」
声はもう割れていない。割れていないが、それで平気になったわけでもなかった。
「朝までに追加で送る。足りないところがあれば連絡してくれ」
九条が短くうなずく。
牧瀬の視線が、そのあと一度だけ悠真たちへ来た。
ノワールと、眠ったままのブランと、それを見ている悠真へ。
「……今日は連れて帰れ」
悠真は返事をしなかった。
できなかった、のほうが近い。
牧瀬もそれ以上は何も言わず、処置区画を出ていった。足音は最後まで規則正しかった。背中だけが少し、規則から外れていた。
圭介が先に動いた。
「ブラン、俺が抱える」
「いや、俺がやる」
ほとんど反射で出た声だった。
圭介は一瞬だけ悠真を見て、それから「そっか」と言った。
ブランを抱き上げると、思ったより軽い。軽いのに、壊れものを持っているみたいで腕に力が入る。頬が顎に触れる。起きる気配はない。
けれど、運びやすいように抱え直した瞬間、ブランの左手が胸元の布を細く掴んだ。
「……おにいちゃん」
寝言みたいな声だった。
呼ばれただけで、悠真の腕に余計な力が入る。
「いる。ここ」
返すと、ブランの指先からわずかに力が抜けた。眠ったまま、息だけが浅く続いている。
ノワールは処置台から降りようとして、着地でわずかにふらついた。
悠真が片手を出す。ノワールは数秒迷ってから、その手首にだけ触れた。
「歩けるか」
「……歩けます」
言い切ったあとで、ノワールは一度だけ目を伏せた。
できる、と言う声だった。平気だ、ではなかった。
研究所の通路は、来たときよりずっと長く感じた。
誰も急かさない。九条が少し前を歩き、圭介が後ろで荷物を持つ。エレベーターの扉が閉まる直前、処置区画の白い壁が見えた。悠真はそちらを見たが、何も思いつかなかった。
父さん、という呼び方だけが喉の奥に残っていた。
戻ったとは、まだ言えない。
消えたとも、言い切れない。
でも腕の中にいる重さは、今ここにある。
それで十分だと、まだ思える段階ではなかった。
それでも、連れて帰るしかなかった。
外へ出ると、夜気が白かった。
研究所の光を離れた途端、ブランが腕の中で小さく身じろぎする。起きたのではない。ただ、寒さに反応しただけみたいだった。ノワールがそれを見て、自分の上着の前を無言で押さえる。
「部屋、先に暖房入ってます」
九条が言う。
「仮住まいだけど、今はあそこがいちばんましです」
悠真はうなずいた。
帰る場所、という言い方にまだ慣れない。
神代家でもない。研究所でもない。名前のついていない中継地点みたいな部屋だ。それでも、今夜はそこへ行く。
車に乗り込む前、ノワールが一度だけ立ち止まった。
「兄さん」
「ん」
「……ブラン、いますか」
悠真は抱え直した白い身体を少し持ち上げる。
「いるよ」
それを聞いて、ノワールはようやく乗り込んだ。
座席に腰を下ろしたあとも、視線はしばらくブランから離れなかった。呼ばれれば返事はするのに、自分からは何も言わない。その代わり、ブランの足先がシートの端にぶつかりそうになるたび、ためらうみたいに手を伸ばして位置を直した。
仮住まいの鍵を開けると、まだ段ボールの匂いがした。
圭介が先に灯りをつけ、九条が暖房の温度を上げる。悠真はブランを寝かせる場所を探し、ノワールは玄関の内側でしばらく動かなかった。
「ノワール」
呼ぶと、黒い耳がまた遅れて動いた。
「入れ」
ノワールは小さくうなずく。
それから、自分の足で敷居をまたいだ。
居間へ入ってすぐ、ノワールの足が止まる。
寝かせたブランのそばまで行って、膝をついた。
「……兄さん」
「なに」
「このまま、起きますか」
悠真は答えられなかった。
答えられないまま、ブランの肩にかかった毛布を少しだけ引き上げる。
「起きるよ」
言い切るには根拠が足りない。
それでも、そう言うしかなかった。
ノワールは数秒黙ってから、ブランの開いたままの左手を見た。触れる直前で止めて、代わりに毛布の端だけを整える。
「……そうでないと、困ります」
低い声だった。泣いてはいない。泣けるほど、もう余力がないみたいだった。
その夜は、誰もこれを家とは呼ばなかった。




