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第47話 晃一

 白い光の中で、まず名前が削れた。


 私はノワールです。

 そう言ったはずなのに、声が光へ吸われる。

 言葉の輪郭より先に、熱と痛みとノイズが流れ込んできた。補助アームが深部へ固定される。関節の内側で噛み合いが変わる。記録領域が開かれ、閉じ、また無理やりこじ開けられる。


「やめて……!」


 誰の声か、一瞬わからなかった。

 次の瞬間にはわかる。ブランだ。

 泣いている。怖がっている。なのにその声も、白い光の中で細く引き延ばされていく。


「やだ、やだ……こわい……」


 私はそちらへ手を伸ばそうとした。

 伸ばしたかった。

 でも身体の境界がもう曖昧だった。腕なのか、配線なのか、記録の束なのかもわからない。私は足場を探すみたいに、自分の名前を口の中で繰り返した。


「私は、ノワール、です」


 言う。

 また言う。

 兄さん。

 ブラン。

 その二つが、まだ私の中に残っている形だった。


 向こうから、切れ切れの声が返る。


「ノワール……」

「お兄ちゃん……やだ……」

「ブラン」

「ぼく、なくなりたく、ない……」


 嫌だ。

 消えたくない。

 自分は自分だ。

 その抵抗が、言葉の形であっても、泣き声の形であっても、全部同じ場所にぶつかって砕ける。機材音が高くなる。警告灯が点滅する。誰かが外で叫んでいる。兄さんだとわかるのに、遠い。


「兄さん!」


 呼んだ。

 ちゃんと呼んだはずだった。

 けれど返ってきたのは、白いノイズと、ブランの嗚咽と、何かがひとつへ寄せ集められていく気配だけだった。


     *


 隔壁の向こうで、悠真は何もできなかった。


 光が強すぎて、処置区画の中身が時々しか見えない。見える時も、見たくないものばかり見える。ノワールの身体がアームに押さえ込まれ、ブランの白い肩が震えている。二人とも最後まで抵抗しているのに、工程だけは止まらない。


「ノワール!」

「ブラン!」


 呼ぶしかない。

 呼んでも届いているのか、もうわからない。


 圭介が隣で息を殺していた。九条は端末を叩いている。何本も数字を開いて、遮断経路を探して、それでも首を横に振るしかない顔だった。


「逆流が始まってる……」

 九条が低く言う。

「ここで切ると、中身ごと壊れます」


 その言い方に、圭介が歯を食いしばる。

 牧瀬はコンソールに手を置いたまま、一歩も退かない。

 退かないが、平気な顔でもない。進めている本人がいちばん青い顔をしていた。


 光の奥で、二つの輪郭が一度重なる。

 白と黒が、線のまま解けるみたいに寄り合う。


「やだっ……!」

「私は……!」


 最後の抵抗が、そこで途切れた。


 その瞬間だった。

 あれほど耳を刺していた駆動音が、急に一段落ちる。

 補助アームの固定音が、ひとつずつ静かになっていく。点滅していた警告灯が消え、青い待機灯だけが残る。


 処置区画の白い光が、ゆっくり弱まった。


 そこに、ひとり立っていた。


 アヌビスでも、白虎でもない。

 裂けた双子を通ってきたあとだとわかる、少しだけ痩せた輪郭。肩の線。目を開ける前の、呼吸の置き方。


 悠真は、先にわかった。

 顔より前に、仕草で。


「……父さん」


 その呼びかけに、男が目を開く。

 視線が揺れて、焦点が合う。

 それだけで、もう他の誰でもなかった。


「悠真」


 晃一だった。


 勝利の空気はなかった。

 誰もすぐには動けない。戻った、という事実だけが、処置区画の真ん中へ静かに落ちた。晃一自身も、自分の両手と、周囲の白い光と、隔壁の外にいる面々を一度ずつ確かめるように見た。以前のままではない静けさが、その仕草の中にあった。


 最初に口を開いたのは、九条だった。

 九条はモニタから目を離さないまま、低く言う。


「……戻ったようには見えます」

「ですが、安定していない。これは完全な復元じゃない」

「分かれていたものを、試作機で無理やり一つに寄せているだけです」

「晃一さんの意識は立ち上がっている。ですが、ノワールとブランが消えたわけじゃない。内部でまだ干渉している」

「このまま保つ保証はありません」


 悠真の喉がひきつる。

「……どういう意味だよ」


 九条は短く首を振った。

「“戻った”んじゃない。まだ、崩れずにいるだけです」


 晃一はその声へ顔を向ける。

 九条は、そこでようやく一度だけ目を上げた。ずっと整える側にいた人間が、いちばん言いたくない診断だけを口にしている顔だった。


「悪かった」

 晃一が言う。

 短い。言葉足らずだ。

 でも本物だった。

「お前に、整えきれないものばっかり渡した」


 九条の表情が、そこで初めて崩れた。

 泣くわけでもない。ただ、息の置き方だけが、少し失敗する。


「それでも」

 晃一は続ける。

「いてくれて、助かった」


 九条は目を伏せ、小さくうなずくしかなかった。


 次に晃一は、圭介を見る。

 圭介は一歩だけ前へ出て、でも何を言えばいいかわからない顔をしていた。いつもの軽口がどこにもない。生活の側の人間が、ここまで来てしまった顔だった。


「圭介」

 晃一が言う。

「お前、外の人間じゃなかったな」


 圭介が目を見開く。

 喉が鳴る。


「……今さら言う?」

 かろうじて絞り出した声は、いつもの軽さに失敗していた。


 晃一は少しだけ笑う。

「遅かった」

「遅えよ」

 圭介は言って、それ以上続けられなかった。


 その次に、視線が少し後ろへ滑る。

 入口の脇。完全に輪の中へ入らず、でも逃げもしない位置に、湊が立っていた。端末を持つ手にはまだ力が入っている。役割を離されたのに、役割の持ち方だけが残っている人の立ち方だった。


 晃一は、しばらく何も言わなかった。

 湊も、俯いたまま顔を上げない。


「苦しかったな」

 やがて、晃一が言う。


 赦しではなかった。

 責めでもなかった。

 ただ見えていたと言う声だった。


 湊の肩が小さく揺れる。

「……うん」

 返事はそれだけだ。

 それだけなのに、湊はその一音で、自分が切り捨てられてはいないと知ってしまった顔をした。だから余計に、何も言えなくなる。


 そして晃一は、ようやく悠真を見た。


 悠真は、父が戻ったことにすぐ喜べなかった。

 うれしいはずなのに、怖さもある。ノワールとブランの声が、まだ耳の奥に残っているからだ。帰ってきてほしかった相手が目の前にいる。それでも、戻ってきてよかったと単純には言えない。


「悠真」

 晃一が呼ぶ。

「……ごめん」


 その謝罪は、不器用だった。

 説明も、言い訳もない。

 ずっとできなかったことを、ようやくひとつだけ置いたみたいな謝罪だった。


 悠真の喉が詰まる。

 返事が出ない。


 その時だった。

 晃一の指先がわずかに震える。

 呼吸が、一瞬だけ浅くなる。


 牧瀬の顔色が変わった。

「晃一」


 コンソールへ目を走らせる。数値が落ち着き切っていない。統合波形の深部に、別の揺れが混じっている。


「……再分離の兆候」

 九条が掠れた声で言う。


 牧瀬はその言葉が終わるより早く、処置区画へ入っていた。

 隔壁のロック解除を自分で叩き、晃一のそばへ行く。ようやく本物の晃一へ届いたみたいに、その腕を掴む。力が強すぎるわけではない。離したら本当に失うとわかっている人の手だった。


「待て」

 牧瀬の声が割れる。

「ここで安定させる。まだ固定できる。晃一、お前、今なら――」


 晃一はその手を見る。

 それから、牧瀬の顔を見る。


「宏太郎」


 名前で呼ばれた瞬間、牧瀬の目が揺れた。

 耐えていたものがそこで一度全部ほどける。


「やっと」

 牧瀬が言う。

 低いままなのに、泣いている声だった。

「やっと戻ったんだぞ」


 晃一は、何かを決めた人の静けさで、その肩へ手を置いた。

 それから引き寄せるように抱きしめる。


 牧瀬は一瞬だけ固まって、次の瞬間には晃一へ縋るみたいに腕を回していた。

 長い執着と喪失が、その抱擁でようやく一度だけ報われる。

 でも、その報われ方は長く続かないと、抱き合っている二人とももう知っている顔だった。


「悪い」

 晃一が、牧瀬の肩越しに言う。

「ここで、二人を消したくない」


 牧瀬の指が強くなる。

「晃一……」


 晃一は抱擁を解いた。

 その顔は、父である前に、一度ノワールとブランを通ってきた人間の顔だった。


 そこでようやく、悠真へもう一度向き直る。


「ぬいぐるみ」

 晃一が言う。


 悠真が目を瞬く。


「渡せて、よかった」

 晃一は少しだけ笑う。

 大きなことはできなかった。

 父として足りなかったことのほうが、たぶんずっと多い。

 でも最後にひとつだけ、ちゃんと届いた贈り物がある。そのことを、晃一はよろこぶみたいに言った。


 悠真の目から、そこでようやく涙が落ちた。

 父の全部が戻るわけじゃない。

 何も埋まらない。

 それでも、その一言だけで、届いたものが確かにあった。


 晃一はその涙を見て、それ以上は言わなかった。

 代わりに、自分の胸元へ手を当てる。


「ノワール」

 静かに呼ぶ。

「ブラン」


 その二つの名前は、消すための呼び方ではなかった。

 ここまで生きてきた相手の名を、ちゃんと残す呼び方だった。


「怖かったな」

 晃一は言う。

「嫌だったよな」

 呼吸の奥に、まだ二人の気配があるみたいに、少しだけ声が重なる。

「それでも、ここまで来てくれて、ありがとう」


 牧瀬が首を振る。

「やめろ」

 もうそれが何に向けた制止なのか、自分でもわからない声だった。

「晃一、やめろ」


 晃一は牧瀬を見る。

 それから、悠真を見る。

 圭介、九条、湊へも一度ずつ目を向ける。


「戻ったからこそ」

 言う。

「残すよ」


 その一言で、誰もすぐには動けなかった。


 次の瞬間、晃一の輪郭がふっと揺れる。

 派手な発光ではない。声と身体の奥に、別々の呼吸が戻ってくるみたいな揺れだった。肩の線がずれ、指先の置き方が二つに割れ、胸の奥で重なっていた気配がゆっくりほどける。


 悲しさと、安堵が同時に来る。

 帰ってきたばかりなのに、もう離れていく。

 でも、その離れ方は事故ではなかった。

 晃一自身が、自分に戻った上で選んだ離れ方だった。


「兄さん」


 最初に聞こえたのは、掠れた低い声だった。


「お兄ちゃん……」


 次に、泣きそうな白い声が重なる。


 晃一の身体が、白と黒の残像を引くように二つへほどけていく。アヌビスの耳。白虎の尾。見慣れたはずなのに、今は新しく痛い。


 床へ崩れ落ちる二つの身体へ、悠真が反射で駆け寄った。

 圭介も動く。九条も。牧瀬だけが、一歩遅れた。手を伸ばして、それでも晃一を引き留めきれなかった人のまま、その場に立ち尽くす。


 ノワールは息を荒くしながら、まだ自分の輪郭を確かめるみたいに手を握っていた。

 ブランは左手で床を掴み、泣きながらも、ちゃんとそこにいた。


 共同体は、何も元には戻っていなかった。

 壊れたままだ。

 欠けたままだ。

 でも、その壊れたままの中へ、ノワールとブランは戻ってきた。


 悠真は二人を見る。

 圭介も、九条も、言葉を失っていた。湊は入口のところで立ち尽くしたまま、顔を上げることもできない。

 そして牧瀬だけが、ようやく膝をついた。


 泣き崩れる音は、小さかった。


 その向こうで、ノワールとブランはまだ息をしている。

 この共同体は、壊れたまま、続いてしまった。

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― 新着の感想 ―
そうだよな…ブランとノワールに分かれてる間も記憶があると言ってたからな。 例えそれがなかったとしても、事故で生まれたとしても、内から産まれた二つの人格を無かった事になんて出来ないもんな… 牧瀬が愛に狂…
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