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第46話 ここにいる

 白い光が、さらに一段だけ強くなった。


 それを見た瞬間、悠真の身体が先に動いた。

 考えるより早かった。

 処置区画の境界へ踏み込み、降りてきた補助アームの間を抜けようとする。止めなければと思った。今ここで止めなければ、本当に始まってしまうと、遅すぎるくらいはっきりわかった。


「悠真!」

 圭介の声が飛ぶ。


 同時に、補助員が二人がかりで腕を掴んだ。医療用の薄い防護袖が視界の端で揺れる。振りほどこうとしても、相手はこういう時に暴れる人間を止める訓練だけは受けている動きだった。足が滑る。肩が軋む。


「離して!」

 叫ぶ。

「まだ、ブランもノワールも――」


「下がれ」


 低い声だった。

 怒鳴っていないのに、その一言で空気が硬くなる。


 牧瀬が、メインコンソールの前からこちらを見ていた。

 白い照明に照らされた顔は、疲れているはずなのに妙に冷えている。感情がないわけじゃない。むしろ逆だ。抑え込みすぎて、熱が低いところで燃えている顔だった。


「これ以上、工程を乱すな」


「乱してんのはそっちだろ!」

 悠真は振りほどけないまま言う。

「勝手に進めるなよ!」


 処置台の向こうで、ブランが肩を震わせた。

 ノワールは補助アームへ片手をかけたまま、まだ離されまいとしている。さっきまで歌っていた喉が、今は息を呑むたびにかすかに鳴っていた。


「なんで勝手に決めるんだよ」

 悠真は言う。

「なんで、またそうやって、もう決まったみたいな顔で――」


「決めなきゃいけない大人がいる」

 牧瀬は返した。

 やはり低いままの声だった。

「ここで止まって、全部を曖昧にしたまま残すほうが無責任だ」


「無責任?」

 悠真の喉がひりつく。

「無責任って、どっちが」


「お前だ」

 牧瀬は言った。

「お前がここで、見えてしまったものに情を引かれて、何も決められなくなるのが一番無責任だ」


 その言葉で、胸の奥の柔らかいところがそのまま殴られたみたいだった。

 見えてしまったもの。

 情を引かれて。


 違う、とすぐには言えなかった。

 違わない部分があるからだ。


「……そうやって」

 悠真は言う。

 息が乱れる。

「そうやって、父さんの代わりみたいな顔するなよ」


 その場にいた全員が、ほんの一瞬だけ息を止めた気がした。

 九条が目を上げる。圭介が何か言いかけて、飲み込む。


 牧瀬は、すぐには怒らなかった。

 ただ、こめかみのあたりがわずかに強張る。


「代わりで済ませたくないから、ここにいる」

 返ってきた声は静かだった。

「晃一の代わりでも、お前の父親の代わりでもない。そんな雑なもので済ませたくないから、俺がやるしかないって言ってる」


「じゃあなんで、こんなふうに決めるんだよ!」

 悠真は叫んだ。

「なんで、ノワールもブランもいるのに、なかったことにするみたいに――」


「なかったことになんかしてない」

 牧瀬の声が、一段だけ深くなる。

「見えてる。聞こえてる。人格が立ってることも、恐怖も、選び始めてることも、全部わかってる」


 そこで初めて、ほんの少しだけ感情が表へ出た。


「わかってるから、止めるんだ」


 悠真は言葉を失う。


 処置区画の中で、ブランの小さなすすり泣きが続いていた。

 ノワールが何か言おうとして、補助アームに押し返される。機材の駆動音が低く唸る。時間だけが、容赦なく進んでいる。


「これは残していい形じゃない」

 牧瀬は言う。

「見えているからこそ、固定させられない」

「何がだよ」

 悠真の声が割れる。

「何が残していい形じゃないんだよ」


 牧瀬は一度だけ、ノワールのほうを見た。

 それからブランを見る。

 その視線には痛みがあった。痛みがあるのに、そこで止まらない。


「父だった存在が、裂けたまま、別の人格として息子へ恋愛感情を向けてる」

 言葉を選んでいるのに、逃げない声だった。

「それを、見えてるからって、そのまま肯定して残していいわけがない」


 ノワールの指先が止まった。

 悠真の胸の奥も、一緒に止まったみたいだった。


 たぶんそれが、牧瀬にとっていちばん耐えられない線なのだとわかる。

 倫理だけじゃない。理屈だけでもない。晃一と、壊れた神代家と、自分が知っていたはずの家族の形への執着が、全部そこへ集まっている。


「父さんを返してほしいって思ったのは、本当だよ」

 悠真の口から、言葉がこぼれた。

 叫びじゃなかった。喉の奥から、ひどく痛そうに出た声だった。

「返ってきてほしいって、思った。ずっと思ってた」


 補助員に掴まれたまま、視線だけは逸らさない。


「俺が壊した」

 言う。

「俺が、変なこと考えて、あんな機械に触って、父さんを壊した」

 胸の奥が焼ける。

「だから逃げられない。悪いのは本当だ。間違ってたのも本当だ」


 牧瀬がまっすぐこちらを見る。

 その目の奥に、初めて少しだけ揺れが走る。


「でも」

 悠真は続けた。

 声は震えていた。

 震えているのに、そこから先だけは引けなかった。


「でも、ノワールとブランも、もうなかったことにはできない」


 九条が目を閉じる。

 圭介が息を詰める。


「父さんを返してほしいと思ったのは本当だ」

 悠真はもう一度言う。

「でも、ノワールとブランも、本当にここにいる」

 喉が痛い。

 それでも言う。

「間違ってても、俺はここにいる」


 その一線だけは、自分でも驚くくらいはっきり出た。

 父に言いたかった言葉かもしれない。

 自分自身へ言い聞かせてるのかもしれない。

 牧瀬へぶつけているのかもしれない。

 全部重なっていた。


「ここにいて、見てしまったんだよ」

 悠真は言う。

「だから、もう切れないんだよ」


 牧瀬は、しばらく何も返さなかった。

 処置区画の白い光が、二人のあいだだけ別の場所みたいに冷たく見える。


「……そうか」

 やがて、低く言う。

「ようやく、そこまで来たか」


 その言い方には嘲りがなかった。

 むしろ、もっと嫌なものがあった。認めたうえで、なお切るしかないと判断する人の声だ。


「だからこそ」

 牧瀬は続ける。

「お前を、その間違いの中に置いたままにはできない」


「は?」


「見えてしまったから残す、で済ませたら」

 牧瀬の声が低く落ちる。

「お前は一生、自分が壊したものに縛られて立ち止まる。晃一も、ノワールも、ブランも、全部を同じ傷の中に置いたままになる」


「そんなの――」


「ここで切らなきゃ、もう戻れなくなる」


 戻る。

 その言葉が、処置区画の白さより冷たく聞こえた。


「戻るって何だよ」

 悠真は言う。

「誰が。どこに」


「晃一が、晃一へだ」

 牧瀬は即答した。

「神代家が、神代家の壊れ方をこれ以上深くしないためにだ」


「壊れ方?」

 悠真は笑いそうになる。

 最低な笑いだと、自分でもわかる。

「もう壊れてるだろ。今さら、正しい壊れ方とかあるのかよ」


 その言葉に、牧瀬の顔が初めてはっきり歪んだ。

 怒りというより、刺さったのだとわかる顔だった。


「ある」

 低く言う。

「少なくとも、こんなふうに壊していい家じゃなかった」


 そこで悠真は、初めて見た。

 牧瀬の中に、晃一だけじゃない別の執着があることを。

 母がいた頃の神代家。晃一がまだ晃一だった頃の空気。自分が勝手に守れなかったと思い込んでいる何か。

 この人も、この人なりに、失った家の中でずっと止まっていたのだと。


 でも、それでも。


「だからって」

 悠真は言う。

「だからって、今ここにいるやつらを切っていい理由にはならないだろ」


 処置区画の中で、ブランが小さく泣いた。

「や、だ……」

 掠れた声だった。

 ノワールがすぐに反応する。

「ブラン!」

 補助アームが駆動し、金属のロック音が重なる。


 九条が初めて前へ出た。

「牧瀬さん」

 短い。

 それだけなのに、止めろと聞こえる声だった。


 牧瀬は九条を見ない。

「九条、お前は黙ってろ」


 その一言で、九条の顔が強張る。

 でも本当に黙った。今ここで主役を奪うわけにはいかないと、わかっている沈黙だった。


「悠真」

 牧瀬が呼ぶ。

 昔から知っている相手へ向ける呼び方のまま、でももう甘さはほとんどなかった。


「お前が罪を引き受けるっていうなら、なおさらだ」

 言う。

「引き受けるってことは、感情で守りたいものだけ選んで残すことじゃない」


「選んでねえよ」

 悠真は返す。

「見えたから言ってるんだよ」


「俺だって見えてる」

 牧瀬の声が、そこで初めて割れた。

 大声ではない。だが抑えていたものが裂けたのだとわかる。

「見えてるから、こんなにしんどいんだろうが」


 空気が止まる。


 牧瀬自身が、その声に一瞬だけ驚いたみたいだった。

 でも、もう戻さなかった。


「晃一が裂けた時から、ずっと」

 低く続ける。

「見えてるよ。お前がどれだけ壊れたかも、あいつらがどれだけ人格を持ってしまったかも。ブランが怖がってることも、ノワールがああやって自分を名乗るしかなくなったことも」


 ノワールが、処置区画の向こうでかすかに目を見開く。


「全部見えてる」

 牧瀬は言った。

「見えてるからこそ、これ以上進めたら、もう誰も戻れないところへ行く」


「戻るなよ」

 悠真は言う。

 自分でも驚くくらい、静かな声だった。

「戻るなよ、もう」

 胸が痛い。

「俺ら、戻る話してんじゃないだろ」


 牧瀬が、そこで初めて言葉を失った。

 ほんの短い間だけ。


 その隙間に、処置区画の中から音が変わる。


 これまで準備段階だった駆動音が、一段深い連続音へ変わった。補助アームの角度が固定される。白いパネルの縁に走っていた待機灯が、順番に青へ切り替わっていく。


 九条がはっと顔を上げた。

「認証が進んでる」


 圭介が悪態を飲み込むみたいに息を吐く。

「おい、もう始まってんじゃねえかよ」


 悠真も牧瀬も、同時に振り向いた。


 ブランの周囲に配置された補助ユニットが、本当に稼働へ入っている。

 ノワールの足元にも固定ガイドがせり上がり始めていた。誰かの指示で進んでいるのではない。さっき出た命令が、既定手順の中で止めどころを越えてしまったのだ。


「止めろ!」

 悠真が叫ぶ。


 牧瀬もコンソールへ手を伸ばす。

 けれど、その一拍で遅い。


 ロックが落ちる。

 白い光が、処置区画全体を包み込む。


 ブランが怯えた声を上げる。

 ノワールが境界へ身体をぶつける。

 九条が端末へ飛びつく。圭介が悠真の腕を掴む。補助員たちが一斉に動く。


 その混乱の中心で、悠真と牧瀬だけが、一瞬だけ互いを見た。


 わかりあえない。

 たぶん最後まで。


 でも、その一瞬でだけ、見えたものがある。

 牧瀬が、正しさだけでここに立っているわけじゃないこと。

 悠真が、罪から逃げるためじゃなく、罪ごと引き受けてここにいること。


 その把握だけを残して、光が全部を塗りつぶした。


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