第45話 消えたくない
医療棟の奥は、音が少なかった。
静かだから落ち着くわけじゃない。
必要な音だけが選ばれて残されている感じだった。
モニターの電子音。空調の低い唸り。遠くで閉まる自動扉。誰かの靴底が床を擦る短い音。
それ以外は、全部ここにいる人間の呼吸へ押し込められているみたいだった。
仮設の中枢処置区画は、白いパネルと透明な隔壁で切り分けられていた。
研究所の設備を急ごしらえで医療の形へ寄せた場所だと、一目でわかる。優しくもないし、休ませるための空気もない。ただ、間に合わせるための空間だった。
その中央に、共同体が揃っていた。
揃っている。
でも、前みたいに「揃った」とは、とても言えない。
ブランは処置台の上に半身を預けるようにして座っていた。右肩はまだ厚く固定され、その先には何もない。左手だけで薄いブランケットの端を握っている。耳は落ち着かなく揺れ、視線は定まらない。けれど、ちゃんとここにいる。
圭介はその近くに立っていた。九条は少し離れた端末卓のそばにいる。牧瀬は処置区画のいちばん奥、仮設のメインコンソールに片手を置いたまま、こちらへ顔を向けた。
悠真とノワールが入ってきた時、誰もすぐには喋らなかった。
圭介だけが、最初に一歩前へ出そうとして、でも途中で止まった。
「……来たか」
それだけ言う。
軽口はない。怒鳴りもしない。そういうのがもう通らない空気だと、全員が知っていた。
九条の目がノワールに向く。
無事だった、と言いたげな揺れが一瞬だけあった。でも、口には出さない。
牧瀬は、それらを一度に見た。
悠真と、ノワールと、その後ろにまだ居残っている湊の気配まで、おそらく全部把握している。把握しているのに、まず言ったのは別のことだった。
「黒いほうは、予定より早かったな」
その言い方に、ノワールの肩がわずかに強張る。
「私は」
低い声が出る。
「ノワールです」
牧瀬はすぐには返さなかった。
その代わり、ノワールの全身を一度だけ見た。裂けた装甲。まだ残っている武装解除後の痕。深部ログの負荷で少しだけぶれている立ち方。
「知ってる」
やがて、そう言う。
「知ってるうえで、急がないといけないって話をしてる」
悠真が歯を食いしばる。
また、その言い方だと思う。
見えているのに、その上から別の正しさで押し切る言い方。
「ブランを返して」
悠真は言った。
声は思ったより静かだった。
「迎えに来た」
ブランの耳がぴくりと動く。
顔が上がる。
「……お兄ちゃん」
その呼び方だけで、悠真の胸が痛む。
でもその次に、ブランはノワールも見た。
見るだけで、顔がぐしゃりと崩れそうになる。会いたかったのだと、言葉より先にわかってしまう顔だった。
「ノワール」
小さい声で呼ぶ。
ノワールはすぐには近づかなかった。
近づいたら、自分が何を言うべきか、もっと曖昧になるのがわかっているみたいだった。
それでも、目だけは逸らさない。
「来ました」
静かな声だった。
「ブランを、迎えに」
その一言で、ブランの顔が揺れる。
嬉しいのか、怖いのか、わからない。
たぶん両方だった。
牧瀬が低く言う。
「迎えに来た、で済む段階じゃない」
「済ませるつもりはないよ」
悠真が返す。
「でも、置いてくつもりもない」
また空気が張る。
誰も大きな声は出していないのに、どの言葉も引けないままそこに残る。
その時だった。
「やだ」
いちばん小さいはずの声が、いちばんはっきり聞こえた。
全員の視線がブランへ向く。
ブランはブランケットを強く握ったまま、肩を震わせていた。
「やだ」
もう一度言う。
「やだ、の」
言葉が崩れる。
「……やだ」
圭介が動きかける。
でも、すぐには触れなかった。昨日の夜、ここで本音を引きずり出した時と同じだ。今必要なのは落ち着かせることじゃなく、逃がさないことだとわかっている顔だった。
「ブラン」
ノワールが呼ぶ。
それだけで、ブランの目から涙が落ちる。
「やだ、の……」
息がうまく続かない。
「こわい」
それでも絞るように出す。
「ぼく、こわい」
昨日の恐怖が、まだ全然終わっていない声だった。
腕がないこと。痛いこと。眠るたびに、自分の輪郭が少しずつ薄くなる気がすること。ここにいる人たちが、自分のためだと言いながら、自分を別の名前へ寄せていくこと。
その全部が混ざっていた。
「こわいよ」
ブランは言う。
「なくなっちゃうの、やだ」
左手で自分の胸元を掴む。
「ブランで、いたい」
その言葉で、ノワールの顔が変わる。
静かに整っていたものが、ひどく近い痛みへ崩れる。
「それで、いいです」
ノワールが言った。
今度ははっきりと。
「それを言ってください。言わないで、優しくしないでください」
ブランが息を止める。
圭介も、九条も、牧瀬も、そこで初めてノワールのほうを見た。
「私は」
ノワールの声は少しだけ震えていた。
「あなたが、兄さんのためならいい、と言うのを聞きたくありません」
その言葉は、自分にも返っているみたいだった。
「私が、それで納得したくない」
「でも」
ブランが言う。
顔がぐしゃぐしゃのまま、必死に言葉を掴もうとする。
「でも、お兄ちゃん……」
悠真が動く。
けれどブランは悠真を見る前に、ノワールを見た。
「お兄ちゃんの、だいじ」
切れ切れだった。
「かえしたい」
それは綺麗な自己犠牲の声じゃなかった。
返したい。
でも怖い。
でも消えたくない。
全部が同時に本物だから、言葉がちぎれている。
悠真の顔が歪む。
自分が何を背負わせているのか、痛いほどわかる顔だった。
「返さなくていい」
言いかける。
でも、その言葉も簡単には出せない。
返してほしいと願ったのは自分だったかもしれないからだ。晃一を。父を。失ったものを。
それを今ここで、なかったことみたいに否定する資格が自分にあるのかもわからない。
その迷いごと、ノワールが前へ出た。
処置区画の白い床の上へ、一歩。
ブランの正面へ立つ。
「私はノワールです」
はっきり言う。
「晃一ではありません。設計図でもありません。兄さんが好きだから残りたいだけでもありません」
言いながら、喉が痛そうだった。
でも止まらない。
「私は、私としてここにいたい」
牧瀬の指先が、コンソールの端でわずかに動く。
揺れたのだとわかる。でも、その揺れは口にはならない。
「ブランも」
ノワールは続ける。
「ブランとして、ここにいてください」
ブランが泣きながら首を振る。
「でも、お兄ちゃんの……」
「わかっています」
ノワールが遮る。
その遮り方は強かった。
「わかっています。兄さんが失ったものが何かも、返したいと思ってしまうことも」
その上で、少しだけ息を吸う。
目を閉じる。
そして、本当に小さく歌い始めた。
「はみだし、はみだし、大正解……」
誰も動かなかった。
歌は、以前のような軽さではなかった。
湊の口から流し込まれた時の呪いでもない。ブランが送り出すために口ずさんだ時の優しさとも違う。
もっと切実で、ぎりぎりの声だった。
「きみは最初から、大正解……」
ノワールはブランを見ていない。
見ているのはもっと奥だ。
自分の中の、まだ揺れている何か。破局のあとでも残った、自分だけの輪郭。
この歌を、もう誰かから借りた意味では歌っていない。
自分が好きだと思った歌を、自分が誰かを言うために歌っている。
「ちがうってだけで、大正解……」
声は綺麗じゃない。
途中で掠れる。
でも止めない。
「きみのかたちは、きみだけの……」
ブランの目が揺れる。
圭介が息を飲む。
九条は、何も言えないまま見ている。
ノワールは最後の一節を、ほとんど祈りみたいに言った。
「どこにもない星の、設計図……」
歌い終わっても、すぐには誰も喋らなかった。
その沈黙の中で、ブランの肩だけが大きく揺れている。
「……やだ」
泣きながら言う。
「やだよ」
それはさっきよりも深い、ちゃんとした嫌だだった。
「ぼく、ブランでいたい」
左手で涙を拭こうとして、うまくいかない。
「ノワールといたい」
息が乱れる。
「お兄ちゃんとも、いたい」
そこまで言ってから、急に顔を歪める。
「でも」
その一語が、空気を変えた。
「でも、かえしたい」
ブランは泣きながら言った。
「お兄ちゃんの、だいじなひと……かえしたい」
悠真の胸が強く詰まる。
否定したい。
そんなことをお前が背負わなくていいと言いたい。
でも、それはもうブランの中で、自分で芽生えた気持ちでもあるのだとわかってしまう。
「兄のために、ではありません」
ノワールが言う。
すぐだった。
「兄さんのためだから、ではないでしょう」
ブランが顔を上げる。
「ブランが見てきた兄さんが、ずっと抱えていたから」
ノワールは続ける。
「だから、返したいと、ブランが思ってしまったんでしょう」
その言い方は、残酷なくらい正確だった。
「それは、ブランの気持ちです」
ブランの目が、また揺れる。
消えたくない。
でも返したい。
どちらも、自分の気持ちだと突きつけられてしまった顔だった。
圭介が、そこで初めて顔を覆うみたいに額へ手を当てた。
止めたいのに、どちらも否定できない。
そういう顔だった。
九条はまっすぐ立っていたが、手元の端末はもう見ていなかった。
整えるための数字や手順ではなく、今ここで言葉になっているもののほうがずっと重いと、否応なく知ってしまった人の沈黙だった。
牧瀬が、低く息を吐く。
「だからこそ」
誰もそちらを向きたくなかった。
でも、向くしかない。
牧瀬はブランとノワールを見ていた。
見えていないわけではない。全部聞いている。どちらがどんな恐怖を持っていて、どれだけ人格として立ってしまっているかも、たぶん誰よりわかっている。
「このままにはできない」
声は低い。
怒鳴らない。
「見えているからだ」
ブランの涙も。
ノワールの歌も。
その全部を含めて言う。
「ここまで来たからこそ、止められない」
「それ、ブランの前で言うのかよ」
圭介が呻くみたいに言う。
牧瀬は視線を逸らさなかった。
「言う」
短い。
「消えたくないと言う声も、自分でいたいと言う声も、聞こえてる。聞こえてるから、なお固定させられない」
ブランが怯えた目で見上げる。
ノワールの指先が、震える。
「最終段階へ入る」
牧瀬が言う。
その一言で、処置区画の外にいた補助員が動いた。
白いパネルの向こうで機材のロックが外れる音がする。照明が一段だけ強くなる。準備はもう、命令ひとつで進むところまで来ていた。
「待って」
悠真が言う。
でも、待ってくれという言葉に、もう誰も簡単には止まれない。
ブランが泣きながら首を振る。
「やだ」
もう一度。
今度は、はっきり。
「やだ、けど……」
そこで言葉が止まる。
ノワールが一歩踏み出す。
補助員が反応するより先に、九条がその前へ半歩だけずれた。止めるためでも、庇うためでもなく、ただ一瞬の間を作るためみたいな動きだった。
その間に、ブランが泣いたまま口を開く。
「でも……」
それ以上は出ない。
出ないまま、処置区画の照明だけが白く強くなる。
ノワールとブランのあいだに、補助用のアームが降りてきた。
誰かが端末で認証を通す音。
最終段階の準備が、本当に始まってしまう。
ブランは泣いていた。
ノワールは立ったままだ。
悠真は動きかけて、でも処置区画の境界の前で止まる。
圭介が歯を食いしばる。
九条は沈黙したまま、牧瀬だけを見ている。
そして牧瀬は、誰より傷ついた顔のまま、最後の指示を口にした。
「処置開始準備」
白い光が、さらに一段だけ強くなった。




