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第44話 湊

 旧神代家からここまで来るあいだ、悠真はほとんど何も喋らなかった。

 ノワールも同じだった。

 道は知っている。目的地も決まっている。ブランを迎えに行く。そのことだけは、二人とももう迷っていない。

 なのに、足を止めないために必要な言葉は、ほとんどなかった。


 研究所の外周に近づいたところで、まず気づく。

 いつもの白い建物ではない。

 照明のつき方からして違う。常夜灯みたいな静かな明るさではなく、作業のための光が要る場所だけを強く照らしている。搬入口のシャッターは半分だけ開き、白い車両が二台、既に待機したままだ。警備の人間も増えている。入口の認証盤には臨時のプレートが後付けされ、見慣れない封鎖表示がいくつも出ていた。


 間に合うかどうかの場所だ、と悠真は思った。


 ノワールが低く言う。

「西側の搬入通路なら、まだ薄いです」

「行ける?」

「はい」


 答えは短かった。

 短いが、誰かの指示を待つ声ではない。

 ノワールは壁際の影に沿って先へ進み、悠真もその後を追う。途中、白衣姿の研究員が二人、早足で通り過ぎた。端末を抱えている。片方が小さな声で何かを報告し、もう片方が即座に否定する。そのやり取りの端だけで、準備がもう始まっていることがわかる。


 連絡通路へ入ると、空気が冷たかった。

 消毒液と金属の匂いが混ざっている。床は白く、壁も白く、天井の照明は一定のリズムで並んでいる。そのはずなのに、今日は何もかもが少しずつ前のめりだった。遠くで扉が閉まる。カートの車輪が鳴る。誰かの靴音が角を曲がって消える。


 研究の場というより、準備が終わりきるのを待つ場所だった。


 曲がり角を一つ越えたところで、ノワールが足を止めた。

 悠真も反射で止まる。


 正面の壁際に、一人立っていた。


 端末を片手に持ち、無機質な廊下の中央ではなく、少しだけ避けるように脇へ寄っている。研究員の白衣は着ていない。ラボの認証タグは下げているが、それもきちんと自分のものに馴染んでいる感じがしない。

 そこにいること自体が、少し不自然だった。


 でも、顔を見ればわかる。

 盤上パンタだった。


 いや、盤上パンタの外側を、だいぶ削がれた後の顔だ。

 画面の向こうで見せていた整い方も、軽さもない。痩せたわけではないのに、顔が少し薄く見える。口元の笑みも、作ろうと思えば作れるのだろうが、今はもうそこまでやっていない。


 向こうが先に二人へ気づいた。

 端末から目を上げる。

 目が合う。


「……やっぱり」

 小さい声だった。

「来たんだ」


 その言い方に、悠真は眉をひそめる。

「まだここにいるのかよ」


 名前で呼べない。

 そもそも、自分はこいつの本当の名前を知らないのだと、その瞬間に思い出した。

 知っているのは、盤上パンタという名前だけだ。画面の中で笑っていた顔。わかるって言ったじゃんとぶつけた相手。共同体を壊した人間。そこまでは知っている。

 でも、その先の名前を、まだ知らない。


 男は、その躓きに気づいたみたいに少しだけ目を細めた。


「ひどいな」

 軽く笑おうとして、ちゃんと笑えなかった。

「まあ、当然か」

 一拍おいて、自分から言う。

「……湊」


 悠真は黙る。


「盤上パンタじゃなくて」

 男は続ける。

「湊。それが、俺の名前」


 廊下の空気が、ほんの少しだけ変わる。

 ハンドルネームの仮面が一枚剥がれた、それだけのはずなのに、言葉の温度が変わった。


「湊」

 悠真が繰り返す。

 その名を口にした瞬間、もう前みたいには呼べない気がした。

 盤上パンタは、画面の中の名前だった。

 湊は、今ここに立っている人間の名前だ。


「……で」

 悠真は言う。

「なんで、まだここにいる」


 湊は端末を持ち直した。

 研究補助に使うような薄い端末だった。ログ画面が開いたままで、しかしそれを持つ手つきには研究員の馴れた感じがない。借り物の役割を、最後まで返せないまま持たされているみたいな手つきだった。


「いるしかないから」

 湊は答える。

「俺が仕込んだログの位置も、設計の癖も、俺がいちばん知ってる。だから使われてる」

「手伝ってるのか」

「そう見えるなら、そうなんだろうね」

 少しだけ視線を落とす。

「贖罪とか、そういう立派な言葉じゃない」


 その声は静かだった。

 前みたいな熱はない。なくなったわけじゃないのかもしれないが、表に出して人を巻き込む段階はもう過ぎていた。


「逃げなかったんだな」

 悠真が言う。

「逃げたら、楽だったかもしれないのに」


 湊はそれにすぐ返さなかった。

 代わりに、悠真の隣に立つノワールを見た。

 その視線は長くなかったが、それだけで充分だった。

 湊にとってノワールが何だったのか。何を見て、何を欲しがって、何を壊したのか。その全部が、言葉より先にそこへ滲んでいた。


「楽にはならないよ」

 やがて湊が言う。

「見たものまで、なかったことにできないから」


 悠真は黙って聞く。

 ノワールも何も言わない。


「君に言われたろ」

 湊の声は低い。

「勝手に奇跡って呼ぶなって」

 一瞬だけ口元が歪む。

「まだちゃんと痛いよ、その言葉」


 悠真の喉が少しだけ動く。


「だから、もう前みたいには呼べない」

 湊は続けた。

「君たちのことも、あの家のことも、ただ都合よく光ってるものみたいには」

 そこで少しだけ息を切るみたいに間が空いた。

「痛くて、重くて、ちゃんと現実だったって、もうわかってる」


「わかってるなら」

 悠真が言う。

「なんでまだ、そっちにいるんだよ」


 湊はそれを責めとして受け取った。

 受け取ったうえで、言い返さなかった。


「戻る側にはいないから」

 その答えは妙にあっさりしていた。

「もう、そっちへ立てる人間じゃない」

「勝手に決めるなよ」

「決めたのは俺じゃないだろ」

 湊は静かに言った。

「自分でやったことのほう」


 それで言葉が止まる。

 言い争いに発展しない。発展できるほど、二人ともまだ元気じゃなかった。

 破局のあとで一度壊れた人間同士が、残った言葉だけを拾って投げている感じがした。


 ノワールが、そこで初めて口を開く。


「私は」

 短い音だけで、廊下の空気が少し張る。

「ノワールです」


 湊の目が、その声へ向く。


「知ってる」

 反射みたいに答えてから、自分の言い方に少しだけ目を伏せる。

「……いや、違うな」

 小さく首を振る。

「知ってる、じゃ足りない」

 ノワールをまっすぐ見る。

「そうだったんだって、今は思ってる」


 赦しを乞う言い方ではなかった。

 ただ、前の自分の見方が壊れた後に残った認識を、そのまま言っている声だった。


 ノワールはそれを受け取っても、表情をほとんど変えなかった。

 赦さない。

 でも、聞こえなかったことにもせず、そこへ立っている。

 それだけで充分に強い、と悠真は思った。


 遠くで、何かが切り替わる音がした。

 重い扉のロックが一段階外れたみたいな音だ。研究員の早足もさっきより増えている。ここで立ち止まっている時間は、たぶんあまり残っていない。


 悠真が言う。

「ブラン、どこ」


 湊は一瞬だけ廊下の奥を見る。

 そこに答えがあるみたいな視線だった。


「医療棟の奥」

 端末を少し持ち上げる。

「仮設の中枢処置区画。白い個体――」

 言いかけて止める。

 自分で言い直した。

「ブランは、そっち」


 その言い直しを、悠真は聞き逃さなかった。

 ノワールもたぶん。


「牧瀬がいる」

 湊は続ける。

「もう準備に入ってる」


「お前は」

 悠真が問う。

「そこにいんのか」


 湊は少しだけ困ったように笑う。

 前の盤上パンタが見せていた、人を引き込む笑いじゃない。自分の居場所の悪さを知っている人間の、薄い笑いだった。


「いるよ」

 言う。

「呼ばれたら、まだ」

「呼ばれたら?」

「俺が撒いた設計を剥がすなら、俺の手もいるって話」

 その口調には、自分を資材として差し出している人間の乾きがあった。

「都合いいだろ」


 悠真はすぐに返せなかった。

 怒りもある。軽蔑も、まだ消えていない。

 でも目の前にいるのは、ただ熱く燃えている悪役ではなかった。

 壊したものの前に立ち尽くしながら、そこから自分だけ消えることもできない人間だった。


「……もう」

 悠真が言う。

「同じ場所には立てないんだな」


 湊はその言葉に、すぐには頷かなかった。

 でも否定もしない。


「たぶんね」

 出てきた声は小さい。

「もう会わないかもしれないし」


 その響きに、悠真の胸の奥が少しだけ軋んだ。

 会わないほうがいいのかもしれない。

 会わないまま終わる気もした。

 それでも、ただの怪物として切り捨てたら、この痛みの形まで嘘になる。


 だから悠真は、最後まで怒鳴らなかった。

 赦しもしないまま、ただ言う。


「湊」


 名前だけを呼ぶ。

 それだけで、湊の肩がほんの少しだけ揺れた。


「……ブランを迎えに行く」

 悠真は続ける。

「今度は、置いてかない」


 湊は目を伏せる。

 その言葉を、たぶんまぶしいものとして受け取っている。まぶしいのに、自分のほうへ引き寄せる権利はもうないと知っている顔だった。


「そう」

 それだけ言う。

「うん。それがいい」


 ノワールが一歩だけ前へ出る。

 ほんの少しだ。

 でも、それだけで、もう連れてこられた存在ではないとわかる歩き方だった。


「行きます」

 ノワールが言う。

「兄さんと」


 湊はその言葉に、返事をしなかった。

 返事をしたら、たぶん何かが崩れるのだろうと思った。

 代わりに、廊下の脇へ身を引く。

 通路を塞がない位置へ、自然にずれる。


「左の隔壁を抜けて」

 端末を見たまま、低く言う。

「二つ目の処置区画。今ならまだ、人が薄い」


 止めないのか、と悠真は一瞬思う。

 でも、止める資格がないと思っているのだと、すぐにわかった。

 ここで警備を呼ぶこともできたはずだ。端末だって持っている。なのにしない。

 それは味方だからじゃない。

 味方じゃないまま、それでも最後に残った継ぎ目だけを差し出す人間の動きだった。


 悠真は通り過ぎる前に、一度だけ湊を見る。

 何か言うべきか、言わないべきか、自分でもわからない。

 結局、何も足さない。


 ノワールも立ち止まらない。

 ただ、湊の横を過ぎる瞬間に、ごく短く言った。


「私は、ここにいます」


 それだけだった。

 赦しでも断罪でもなく、存在の宣言だった。


 湊は何も返せなかった。

 返せないまま、二人の背中を見送る。

 悠真とノワールはそのまま廊下の奥へ進む。

 白い照明の下で、二人の影が長く伸びる。


 医療棟のさらに先、ブランと牧瀬のいる中枢区画のほうから、また一つ、重いロックの外れる音がした。


 もう時間がない。


 悠真は前を向く。

 ノワールも、隣で歩幅を合わせる。

 後ろを振り返らないまま、二人はさらに奥へ向かった。


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― 新着の感想 ―
いくらハッキングの仕掛人とはいえ牧瀬にとっちゃブランとノワールを壊しかけた張本人なんだから、施設に抱き込む時一悶着あっただろ絶対に… しかしノワールは自己の確立はもう固まってきてるのかな?いざ戻そうと…
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