第43話 いやだ
研究所の正面玄関は、夜なのに明るすぎた。
圭介は自動ドアの手前で一度だけ足を止めた。
前に来た時と同じ建物のはずなのに、空気が違う。受付の奥を行き来する人の歩幅が早い。いつもなら開いているはずの通路に仮設のパーテーションが立ち、警備会社の腕章をつけた人間まで増えている。端末を首から下げた研究員たちも、雑談の顔をしていない。全員が、今やっていることの先に期限があると知っている動きだった。
もう準備が始まっている。
その感触だけで、胃の底が冷えた。
「ご用件を」
受付の男が言う。
「三崎です」
圭介は言った。
「九条、いや、九条さんに会いに来た」
相手の目が少しだけ動く。検索する目だった。
「現在、案内できる者が」
「いいから呼んで」
言い方が少し強くなった。まずいと思ったが、引っ込められなかった。
「今、たぶん向こうも暇じゃないのはわかってる。でも、こっちもそうなんだよ」
受付の男は圭介をすぐには通さなかったが、完全に追い返しもしなかった。端末で誰かに連絡を入れる。その間にも、白いカートが二台、奥のエレベーターへ吸い込まれていく。金属音。扉の開閉音。どれも小さいのに、今日はやけに耳につく。
やがて、男が短く言った。
「九条氏は現在、移動制限中です」
「は?」
「担当者が来ます」
移動制限。
その言葉の冷たさに、圭介は眉をひそめる。
待たされるのかと思った次の瞬間、奥の通路から見覚えのある細い影が現れた。
九条だった。
白衣ではなく、濃い色のスラックスにシャツだけだ。端末は持っているが、いつもと違って胸元の認証タグが一枚少ない。顔色は変わっていない。変わっていないのに、歩く速さがいつもよりわずかに遅い。
「圭介」
名前を呼ばれる。
「何しに来たんですか」
「そっちこそ、なんかえらいことになってんだけど」
九条は受付の男を一度だけ見てから、小さく息を吐いた。
「権限が落とされました」
「やっぱそういう感じかよ」
「表向きは安全管理上の再編です」
「表向きじゃないほうは」
「ノワールの移送動線に、私が関わったと疑われています」
疑われています、の言い方が静かすぎて、逆に切迫して聞こえた。
「ブランは」
圭介が言う。
「どこ」
九条は一瞬だけ黙った。
答えるべきかどうか、ではない。
答えたら、ここで自分がもう完全に戻れなくなると知っている人の間だった。
「医療棟の臨時処置区画です」
やがて言う。
「整備室の奥。仮設の個室に移されています」
「行くぞ」
圭介は考える前に言っていた。
九条がわずかに目を見開く。
「無理です」
「無理でも行く」
「今の私の入域権限では」
「権限とか言ってる場合かよ」
そこで初めて、九条の表情がほんの少しだけ揺れた。
理屈はわかっている。でも、理屈で止まれるところは、たぶんもう過ぎていた。
「……監視カメラの死角は二つあります」
九条が低く言う。
「東側の搬入口と、医療棟連絡通路の曲がり角。どちらも長くは持ちません」
「なら十分」
圭介は九条の手首を掴んだ。
勢いよくではない。逃がさないためというより、行く方向を決めるために掴んだ手だった。
「圭介」
「あとで怒られろ」
「もう十分怒られる位置です」
「じゃあ一個増えても変わんねえだろ」
九条が、ほんの一瞬だけ目を伏せる。
それから、何も言い返さなかった。
*
連絡通路は、思っていたより静かだった。
明るい。床も壁も清潔だ。足音だけが妙に響く。途中ですれ違った研究員は二人とも圭介ではなく九条の顔を見て、すぐ目を逸らした。知らないふりではなく、見たくないものを見た時の逸らし方だった。
東棟へ入る扉の認証で、九条は一度だけ引っかかった。
赤いランプがつく。
圭介の背中が冷える。
だが九条は別のIDを差し込み、非常用の短時間開放を通した。
「それ、まだ使えんのか」
「いま切られました」
九条が通り抜けながら言う。
「通るなら今です」
扉が閉まる直前に二人で滑り込む。
その向こうはさらに静かだった。
整備室の奥、仮設の処置区画は、白いカーテンと透明パネルで無理やり仕切られていた。常設の病室ではない。研究設備を医療の形へ寄せて使っているのが一目でわかる。モニターの波形、無機質な照明、金属のワゴン。人を落ち着かせるための場所じゃない。
その一番奥の個室に、ブランはいた。
ベッドの上で上半身を少しだけ起こしている。
右腕は、まだない。
肩口は厚く保護され、その先に仮の接続端子が露出していた。そこから細いケーブルが数本伸び、モニターへつながっている。左手だけでシーツの端を握っていて、耳はぺたりと少し伏せ気味だった。
そして、ブランは圭介と九条を見た瞬間に、ひどく頑張って笑おうとした。
「……きた」
声が掠れている。
「へいき」
その一言で、圭介は胸の奥が痛くなった。
へいきなわけがない。
見たらわかる。本人だってわかってるはずだ。なのに最初にそれを言うあたりが、余計に痛い。
「全然へいきじゃねえだろ」
圭介が言う。
ブランは少しだけ口を尖らせた。
「へいきだもん」
「見えてる」
短く返すと、ブランの目が揺れた。
九条はベッドのそばまで来て止まった。
何か言うかと思ったが、言わない。言えないのだと、圭介にもわかった。
九条の視線は、肩口の処置部とブランの顔のあいだで行き来している。整える側の目だ。でも今、その目が役に立っていない。
「寝てろとか、だいじょうぶとか、そういうの今いらねえから」
圭介はベッドの脇へ寄った。
「ほんとのこと言えよ」
ブランが黙る。
左手の指がシーツを少しだけ強く握る。
「……ほんとのこと」
「うん」
「……」
「怖いなら怖いって言え」
その言葉が落ちた瞬間、ブランの耳がぴくりと震えた。
それでも、まだ笑おうとするみたいに口元が歪む。
「こわく、ない」
「見えてるって言ってんだろ」
圭介は声を荒げなかった。
ただ、逃がさないように言った。
「無理してんの、見えてる。言えよ。消えたくねえなら、そう言え」
そこまで言った時、ブランの目の奥で何かが切れた。
「……こわい」
小さい声だった。
でも、はっきり聞こえた。
「こわい」
今度は少しだけ大きくなる。
左手が、シーツではなく自分の胸元を掴んだ。
「ぼく」
言って、息が乱れる。
「ぼく、なくなっちゃう?」
九条が息を止める音がした。
「そんなこと」
言いかけて、言葉が出ない。
九条はそこで初めて、自分が今いちばん言いたいはずの大丈夫を、口にする資格がないと気づいたみたいな顔をした。
ブランはその沈黙に押されるように、続けた。
「こわい」
「やだ」
「ぼく、やだ」
切れ切れだった。
演説なんかじゃない。怖くて、言葉の順番も崩れたまま、出てくる。
「ノワールと……はなれたくない」
声が震える。
「お兄ちゃん、いなくなるの、やだ」
肩が大きく揺れた。
「ぼく、ブランで、いたい」
それはきれいな自己犠牲じゃなかった。
ただの、本当の嫌だだった。
「白い晃一」
低い声が、個室の入口からした。
三人とも振り向く。
牧瀬が立っていた。
いつから聞いていたのかはわからない。
白衣ではなく、昨夜からそのままみたいなシャツ姿だ。目の下には疲れがある。けれど立ち方は崩れていない。
その顔を見た瞬間、ブランの身体が小さくこわばった。
「……ブランです」
そう言い返す声も、さっきより小さい。
牧瀬は、その訂正を受け止めるみたいに一拍だけ黙った。
それから、ベッドのそばまで歩いてくる。近づき方は静かで、手つきも乱暴ではない。だから余計に逃げ場がない。
「怖いのはわかる」
牧瀬が言う。
嘘じゃない声だった。
「嫌なのも、消えたくないのも、わかってる」
ブランの目が揺れる。
わかると言われたことに、少しだけ縋りそうになる揺れだった。
でも、次の言葉が違った。
「わかってるから急ぐ」
個室の空気が冷える。
圭介が歯を食いしばる。
「おい」
牧瀬は圭介を見なかった。
見ているのは、ずっとブランだ。
「このまま固定させるほうが残酷だ」
低い声で言う。
「怖いからやめる、では終われない。今ここで止めたら、白い晃一の欠損も、黒い晃一の分離も、そのまま別の現実として固まる」
九条が、ようやく口を開く。
「それは、今ここにいるブランの恐怖を押し潰してでも優先することですか」
牧瀬の視線が九条へ向く。
怒ってはいない。けれど、もう返答の形が決まっている目だった。
「そうだ」
短く言う。
「押し潰したいわけじゃない。見えてるし、聞こえてる」
そこだけは、はっきりしていた。
「その上で、だからこそ戻す」
圭介が一歩前へ出る。
「ブランがこんだけ怖がってんのにかよ」
「怖がっているからだ」
牧瀬は言った。
「自分が誰なのかわからなくなるほど怖い状態を、このまま長引かせるほうが残酷だ」
「それ、ブランに言ってんのか」
圭介の声が少しだけ低くなる。
「白い晃一に言ってる」
その言葉に、ブランの顔から血の気が引くのが見えた。
白い晃一。
ブランじゃなく。
いま怖いと言った存在を、その名前の向こうへ押し戻す呼び方だった。
九条は、もう何も言えなかった。
ベッド柵へ置いた指先だけが、ほんの少し白くなる。
ブランは、怯えた目で牧瀬を見上げていた。
さっきまでなんとか保っていた強がりは、もう跡形もない。
左手だけでシーツを握りしめ、耳を伏せ、逃げ場を探すみたいに一度だけ圭介のほうを見る。
圭介は言葉を探した。
でも、うまく見つからない。
大丈夫なんて言えない。そんな無責任なことを言う場面じゃない。
だから何も言えなくて、代わりにベッドの端へ拳を置いた。
そこにいる、という置き方だった。
牧瀬はその沈黙ごと受け止めたうえで、もう一度だけ言った。
「だからこそ戻す」
個室の中にいる誰も、その言葉へすぐには返せなかった。
ブランは怯えたまま目を見開き、
九条は沈黙し、
圭介は歯を食いしばったまま動けず、
牧瀬だけが、見えている恐怖ごと前へ進む人の顔で立っていた。




