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第40話 もう戻すしかない

 翌朝、仮住まいは静かだった。


 誰も寝坊していない。

 九条は台所に立っていて、圭介も起きている。扉の向こうには、まだ眠っているブランの気配もある。人がいる音はちゃんとあるのに、部屋の上から薄い膜でも被せられたみたいに、どの気配も途中で吸われてしまう。


 ブランはまだ眠っている。

 昨夜の処置が長引いたせいで、朝食の時間になっても起きてこない。九条が一度様子を見に行って、まだ寝かせておいてくださいとだけ言った。


 ノワールは起きていた。

 起きていて、いつもよりさらに静かだった。

 背筋も、マグカップに触れる指先も、視線の置き方もきれいに整っている。けれどその整い方は、平静だからではなく、何かひとつでもこぼれたら止まらなくなるものを、身体の全部で押さえ込んでいるように見えた。


 昨夜のことを、悠真はまだうまく処理できていない。

 ノワールの告白。

 返せなかった自分の言葉。

 それでも、間違いだとは思っていないと伝えたこと。


 その全部が、まだ体の中で温度を持っていた。

 だから余計に、今この部屋に落ちている静けさが、何かが過ぎ去ったあとのものではなく、これから何かが起こる前のものに思えた。


 インターホンが鳴ったのは、九条が味噌汁の火を弱めた直後だった。


 誰もすぐには動かなかった。

 九条が一拍だけ止まり、それから端末を伏せて玄関へ向かう。


「私が出ます」


 その声だけが、妙にはっきりしていた。


     *


 牧瀬は大きなケースを二つ持って立っていた。


 寝ていない顔だった。

 でも、荒れてはいない。むしろ逆に、顔色の悪さごとどこかへ押し込めたみたいに静かだった。白衣ではなく濃い色のシャツにジャケットだけを羽織っていて、その無駄のなさが余計に冷たく見える。


「朝早くに悪い」

 そう言って中へ入り、靴を揃え、ケースを壁際へ置く。

 そこまでが妙に丁寧だった。


 九条が扉を閉める。

「何かありましたか」


 牧瀬はすぐには答えなかった。

 リビングの中央まで来て、悠真とノワールを見て、それからブランの眠っている部屋の扉へ一度だけ視線を向ける。


 その短い視線だけで、悠真の背中が冷えた。


「……もう」

 牧瀬が言う。

 声は低い。怒鳴っていない。なのに、今まででいちばん引けない響きだった。


「戻すしかない」


 部屋の空気が止まる。


 圭介が先に顔を上げた。

「は?」


「放っておける段階じゃない」

 牧瀬は続ける。

「これ以上ここに置くと、固定が進みすぎる」


 固定。

 その言葉が、悠真の胸に刺さる。


「白い晃一は、処置環境を研究所側へ移す」

 牧瀬は言った。

「右肩まわりの安定化も、義肢の前段階も、今の仮住まいでは足りない。黒い晃一も同じだ。深部ログの監視と再固定を、家庭環境のまま続けるのは危険すぎる」


 ノワールの耳が、ぴくりと揺れた。


「……私は」

 ノワールが口を開く。

「ノワールです」


 牧瀬は、その訂正を聞き流さなかった。

 聞いたうえで、まっすぐ見返す。


「知ってる」

 低い声だった。

「知ってるよ。知ってるうえで言ってる」


 そこに乱暴さはなかった。

 乱暴なら、まだ反発しやすかった。

 見えているのに、その上からなお別の名前へ寄せて受け取るから、痛い。


 九条が一歩だけ前へ出る。

「研究所側へ移す、というのは」

「白い晃一は今日のうちに医療棟へ」

 牧瀬は即答した。

「黒い晃一は隔離可能な区画へ。ログ監視を常時つける。動線は分ける」


 言われた内容を、九条は一瞬で理解した顔をした。

 理解して、それからほんのわずかに眉を寄せる。


「そこまでする必要がありますか」


 牧瀬の視線が九条へ向く。

「ある」

 短かった。

「今必要なのは安定じゃない。回収だ」


 その言葉で、九条の目が静かに止まる。


「ちょっと待てよ」

 圭介が立ち上がる。

「何だよ、それ。言い方からしてもうおかしいだろ。ノワールもブランもここで暮らしてるんだぞ」


「知ってる」

 牧瀬は言う。

「それも、昨日今日始まったものじゃないことも」

「だったら」

「だからだよ」


 その返しだけ、少しだけ熱が混じった。


「ここで積み上がったものが見えてるから、もう猶予がないって言ってる」


 圭介が言葉を失う。

 言い返したいのに、牧瀬が適当を言っていないのがわかるから、次が出ない。


「圭介くんは帰って」

 牧瀬は続けた。

「ここから先の処置も移送も、君を巻き込むラインじゃない。昨日まで一緒にいたことと、その責任は別だ」


 共同体の一員として立っていた場所から、外へ押し戻される音がした気がした。


 圭介の顔が強張る。

「……帰れって言うのかよ」

「言う」

 牧瀬は答えた。

「君を弾きたいわけじゃない。でも、ここから先は研究所側の責任で引き取る」


 正しい。

 正しいから、ひどい。


 圭介は歯を食いしばったまま、拳だけを握った。

 暴れなかった。

 暴れたところで残れないと、たぶんわかってしまったからだ。


 部屋の奥から、小さな物音がした。

 ブランだった。


 九条が振り向くより先に、ブランが眠たげな顔で扉のところに立つ。

 左手で枠を持って、右のない肩をかばうみたいに少しだけ身体を傾けている。


「……なに」


 その声に、誰もすぐ返せない。


 牧瀬が先に歩み寄った。

 しゃがみ込む動作まで丁寧だった。

「白い晃一」


 ブランの顔が曇る。

「ブラン」


 訂正は小さい。

 でも、譲れないものを抱えた声だった。


 牧瀬は一瞬だけ黙る。

 その沈黙のあいだも、手つきはやわらかい。


「今は、処置を優先する」

 牧瀬は言う。

「こっちへ来て。設備のある場所で診ないといけない」


 ブランは九条を見て、それから悠真を見た。

 最後にノワールを見る。


「ノワールも?」


 ノワールの指先が、目に見えるほど強張る。


「行くよ」

 牧瀬が答える。

「黒い晃一も、ここには置けない」


「やだ」

 ブランはすぐ言った。

 綺麗じゃない声だった。寝起きで、痛くて、怖くて、そのままの拒絶だった。

「やだ。いっしょが、いい」


 その一言で、悠真の胸の奥が強く痛む。


 牧瀬は困ったような顔をした。

 でも、引かない。

「今はだめだ」

「なんで」

「診る順番がある」

「やだ」


 左手だけで扉を握る力が強くなり、ブランの肩が震える。

 従順に頷かないことが、かえって今のブランの弱さをむき出しにした。


 ノワールが、一歩だけ前へ出た。

「ブラン」


 その呼びかけで、ブランが顔を上げる。


「行ってください」

 ノワールは言った。

「あなたの処置が先です」


 言い方は整っていた。

 整っているのに、その実、押し出しているのは自分だとわかってしまう声だった。


「でも」

「私は後から行きます」


 その約束が本当になるかどうか、ノワール自身にもわからないはずだった。

 それでも今はそう言うしかない。


 ブランはしばらく見ていたが、やがて小さく頷いた。

 頷いてしまったあとで、泣きそうな顔になる。


「……やだ」

 もう一度だけ、今度は小さく言った。


 牧瀬はその左手へ、自分の手を添える。

「わかってる」

 低く、静かな声だった。

「わかってるから、急ぐ」


 悠真はそのやり取りを、止められなかった。


 頭のどこかではわかる。

 ブランの身体に設備が要ることも、ノワールに監視が必要なことも、牧瀬が無茶を言っているわけではないことも。

 でも、それで納得できるわけではない。


「俺も行く」

 気づくと言っていた。


 牧瀬がこちらを見る。

 その目は、怒っていなかった。

 怒っていないのに、退ける時の目だった。


「悠真は来ないで」


 言われた意味が、すぐには入ってこない。


「……なんで」

「今日の移送は処置と管理のためのものだ。君が一緒にいると、あの二人が落ち着く場面もある」

 そこまでは、少しだけ救いに聞こえた。

 でも次が違った。

「同時に、固定も進む」


 昨夜聞いてしまったものを前提にした言葉だと、悠真にはわかった。


 ノワールの肩が、わずかに強張る。


「兄さんは」

 ノワールが何か言いかける。


 牧瀬がそれを遮った。

「今は離れて」

 声は低いままだった。

「責めてるんじゃない。これ以上失わせないためだ」


 その“失う”の主語が、誰なのか。

 もう隠されていなかった。


 悠真は何も返せない。

 昨日までの共同体の中で、自分が立っていた場所だけが、するりと抜け落ちていく。


 九条が静かに口を開く。

「移送車両は、研究所側で」

「手配済み」

 牧瀬が答える。

「十分後に着く。九条は同乗して」


「私も、ですか」


「必要だ」

 牧瀬は言った。

「君は現場を知ってる。処置補助もログ整理も、今はいちばん外せない」


 九条は頷いた。

 頷いてから、ほんの一瞬だけノワールを見る。

 それだけだった。


     *


 それからの時間は、早かった。


 ブランは最低限の荷物だけまとめられ、研究所用の簡易ケースへ薬と支持具が移された。圭介は一度だけ「手伝う」と言ったが、牧瀬は「そこまででいい」と止めた。その止め方が丁寧すぎて、余計に圭介の居場所を削った。


 ノワールも黙って自分の端末とジャケットを持った。

 昨日の告白が、まるでずっと前のことみたいに遠い。

 いや、遠くされたのだと悠真は思う。


「ノワール」

 呼ぶと、ノワールが振り向く。


 何を言えばいいのかわからない。

 行くなとも、一緒に行くとも、今は言えない。

 言えないまま、喉だけが痛くなる。


「……兄さん」

 ノワールのほうが先に言った。

 それだけで、胸の奥がひどく掴まれる。


「すみません」


 違う、と悠真は思う。

 謝るべきじゃない。

 でもその言葉を返す前に、牧瀬が動いた。


「黒い晃一」

 呼ばれる。

 ノワールの背筋が硬くなる。

「時間だ」


 それで会話は切れた。


 車両が着いたのは、本当に十分後だった。


 仮住まいの前に止まったのは、白い医療車両と、後方に窓の少ない黒いワゴンだった。牧瀬は先にブランを医療車両へ乗せる判断をした。痛み止めの追加投与と、揺れを抑える固定を優先するためだと説明された。


 その説明も、正しかった。

 正しいから、誰も止められない。


 ブランは乗り込む直前までノワールを見ていた。

「あとで」

 左手だけでシートの縁を掴みながら、必死に言う。

「あとで、くる?」


 ノワールは小さく頷いた。

「行きます」


 ブランはそれでやっと車内へ促された。

 扉が閉まる直前まで、その目だけが不安そうに開いたままだった。


 圭介は玄関の外まで出たあとで、そこで止められた。

 牧瀬は「ここから先は研究所側で引き取る」と繰り返しただけだった。強い言い方ではない。むしろ淡々としている。その淡々とした正しさが、圭介をいちばん外へ押した。


「……またな」

 やっと出たのは、それだけだった。


 ノワールが小さく頷く。

 圭介はそれ以上言わなかった。言えなかった。共同体の一員だったのに、その資格ごと返却される側に立っている顔のまま、一歩ずつ仮住まいから離れていった。


 九条は黒いワゴンのほうを引き受けた。


「こちらは私が」

 そう言って、運転席側から降りてきた研究所の補助員へ簡単な指示を出す。

「白い晃一の固定を先に。こちらは歩行可能ですから、後で問題ありません」


 補助員は迷わず医療車両のほうへ向かった。

 牧瀬もブランの固定を自分で確認するため、そちらへ回る。


 結果として、仮住まいの脇にある細い搬入口の前に、九条とノワールだけが残った。


 ほんの一瞬の、継ぎ目みたいな時間だった。


 九条は端末を見たまま言う。

「西側搬入口の監視が、四分だけ落ちています」


 ノワールが、ゆっくり顔を上げた。


「正面車両は五分後に出ます」

 九条は続ける。

「旧神代家の規制は、まだ西だけ甘い」


 そこまで言って、初めて端末から目を上げる。


「私は白いほうへ合流します」


 それだけだった。

 行ってくださいとは言わない。

 逃げろとも言わない。

 ただ、継ぎ目の位置だけを差し出す。


 ノワールは、しばらく動かなかった。

 その顔には、迷いがはっきり出ていた。

 このまま従えば、ブランのそばには行ける。

 逃げれば、悠真のところへ戻れるかもしれない。

 でも、それが正しいかはわからない。


「……なぜ」

 かすれた声で、ノワールが問う。


 九条は少しだけ目を伏せる。

「わかりません」

 返ってきた声は静かだった。

「ただ、このままだと、あなたが消える気がした」


 そこで一度だけ、九条の声が揺れる。

「それが正しいのかは、まだ断言できません」


 ノワールは、その言葉を受け取ったまま立っていた。

 それから、小さく息を吐く。


「ブランを、お願いします」


「はい」

 九条は即答した。

 即答してから、少しだけ間を置く。

「九分後には追跡が出ます」


 それも事実だった。

 事実だけを渡して、九条は横へずれた。


 ノワールはもう一度だけ医療車両のほうを見た。

 ブランがいる。

 牧瀬がいる。

 悠真は仮住まいの中だ。


 そして、自分の足で、西側へ向かった。


 駆け出しはしなかった。

 走れば異常になるからだ。

 最初の数歩は、歩くみたいに静かだった。角を曲がったところでだけ、黒い背中が一気に速くなる。


 九条は追わなかった。

 ただその場に立ち尽くし、端末の時刻だけを見た。


 三分。

 四分。


 それからようやく、医療車両のほうへ戻る。


「九条?」

 先に気づいたのは牧瀬だった。

「黒い晃一は」


 九条は一拍だけ呼吸を止める。

 その一拍のあとで、初めて言葉にした。


「移送経路を逸脱しました」


 牧瀬の顔から色が引いた。

 怒鳴らない。

 怒鳴らないまま、理解だけが一気に進む顔だった。


「いつから」

「今です」

 九条は答える。

「西側の監視が一時的に落ちています。追跡を上げますか」


 その問いは正しい。

 正しすぎて、牧瀬は数秒答えられなかった。


 ブランの固定はまだ終わっていない。

 医療車両は出す必要がある。

 黒いほうを追えば、白いほうが遅れる。

 白いほうを優先すれば、黒いほうは離れる。


 牧瀬は歯を食いしばり、すぐに指示を切った。


「白いほうを出す」


 それが答えだった。

 ブランを優先する。

 ノワールはそのあいだ、逃げる。


 九条は頷いた。

 その頷きが、従属なのか、裏切りの完了なのか、自分でもわからない顔だった。


     *


 悠真は、その全部を知らないまま部屋に残されていた。


 ただ、外の気配だけが慌ただしく変わったのはわかった。

 車の扉が閉まる音。誰かの早口。九条の声。牧瀬の低い指示。けれど言葉までは拾えない。


 やがて、車が一台だけ発進した。


 そのあと、しばらくしても、もう一台の出る音がしない。


 静かだった。

 数分前まで五人分の気配で詰まっていたはずの仮住まいが、急に広くて、空っぽになったみたいだった。


 テーブルの上に、冷めかけた味噌汁がある。

 ブランの使いかけのスプーン。

 ノワールが途中で置いたままのマグカップ。

 九条の閉じられた端末は、もうない。


 全部、ついさっきまでそこにいた共同体の痕だった。


 なのに、もう同じ場所にはいない。


 悠真は立ったまま、しばらく動けなかった。

 追えばいいのかもわからない。

 何を言えば引き止められたのかもわからない。

 わからないまま、ただ胸の奥にひとつだけ、遅れて形になるものがあった。


 このままお別れしていいはずがなかった。


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うおお…頼む、二人を消さないでくれ 危ない橋を渡る宣言はどこにいったんだよ…
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