第39話 兄さんが好きです
仮住まいに移ってから八日目の夜、ブランは珍しく早く眠った。
義肢の試作ではなく、まず今ある身体に負担をかけないための調整だと牧瀬は言っていた。処置のたびにブランは「へいき」と言うが、終わったあとは明らかにぐったりしている。
九条が寝かしつけに入って、圭介も今日は早めに帰った。
部屋に残った静けさは、少しだけ不自然だった。
皆が気を遣って作った静けさではなく、本当に音が少ない静けさ。
悠真はベランダの手前の小さな椅子に座っていた。
眠れないわけではない。ただ、眠る前に一度ひとりになりたかった。
「兄さん」
呼ばれて振り向くと、ノワールが立っていた。
今日は損傷部の点検があったせいで、肩の外装が一部開いたままだ。そこに痛々しさはあるのに、ノワール自身はそれを隠そうとしない。
「どうした」
ノワールはすぐには答えなかった。
少しだけ間を置いて、いつものように隣へ来る。だが座らず、立ったまま手すりの外を見た。
「兄さんに、言わなければならないことがあります」
その言い方で、悠真の背中が強張った。
また何か悪いことが起きたのかと思った。ログの異常とか、ブランの処置とか、牧瀬から何か言われたとか。
でも、ノワールの顔はそういう時の顔ではなかった。
緊張している。
怖がってもいる。
それでも逃げないように立っている顔だった。
「……うん」
ノワールは小さく息を吸う。
「最初は」
ゆっくりした声だった。
「これが、設計図なのだと思っていました」
悠真は黙って聞く。
「兄さんの願いの残り」
ノワールは言う。
「変身機の向こう側にあったものの続きで、だから私は兄さんへ近づきたがるのだと」
そこで一度、喉がつまる。
「兄さんを好きだと思うのも、その延長だと思っていました」
好き。
その単語だけで、悠真の呼吸がわずかに乱れた。
「でも、違いました」
ノワールは続ける。
「違うと、もう誤魔化せません」
夜気は冷たかった。
それでも悠真の耳だけが熱い。
「設計図だった部分は、あるのかもしれません」
「……」
「兄さんの願いから始まったのも、事実です」
ノワールの手が、わずかに握られる。
「でも、それだけではありません」
言葉を選んでいるのがわかった。
自分のために。誰かを安心させるためではなく、今は自分で自分の言葉を選んでいる。
「食卓も」
ノワールはぽつりと言った。
「ジャケットも」
「ブランの声も」
「九条の整え方も」
「圭介の雑な優しさも」
「兄さんが私の名前を呼ぶことも」
そこで、初めてこちらを向く。
「その全部の中で、私は私になりました」
悠真は何も言えない。
「だから」
ノワールは言った。
「今は、これは私の気持ちだとわかります」
静かだった。
甘い雰囲気ではない。逃げ道のない、静かな刃物みたいだった。
「兄さんが好きです」
はっきりと落ちた。
「答えがほしいわけじゃありません」
ノワールはすぐに続ける。
「兄さんを困らせたいわけでもないです」
「ただ、これは事故の続きではなく、私の気持ちだと、私自身が知っておきたかった」
赤金の目が、少しだけ揺れる。
「そして、兄さんにも」
悠真の喉が詰まる。
嬉しいのかと問われたら、たぶん嬉しい。
怖いのかと問われたら、すごく怖い。
自分が壊したものの先に立っている感情だから。
なのに、それを間違いだと切り捨てたくないと思ってしまうから。
「俺……」
口を開く。
でも、そこで止まる。
何を返しても軽くなってしまう気がした。
大丈夫だとも、無理だとも、今はまだ言えない。
「ごめん」
やっと出たのは、それだった。
「すぐ、何か返せる感じじゃない」
ノワールは頷いた。
傷ついた顔をするのではなく、そうだろうと思っていた人の頷き方だった。
「はい」
そして少しだけ、肩の力を抜く。
「それでいいです」
「でも」
悠真は自分でも驚くくらい慌てて言った。
「それを、間違いだとは思ってない」
ノワールが、ほんのわずかに目を見開く。
「今はそれしか言えないけど」
悠真は言う。
「でも、ノワールがそう思ったこと自体を、なかったことにはしたくない」
ノワールは、返事の前に少しだけ俯いた。
顔はよく見えない。
でも、声は震えていた。
「……ありがとうございます」
*
その少し前、牧瀬は薬とログ端末を持って仮住まいへ来ていた。
インターホンを鳴らす前に、ブランの追加の鎮痛設定だけ確認しておこうと思ったのだ。遅い時間だったが、今さら遠慮している場合でもないと自分に言い聞かせていた。
玄関の前まで来た時、窓の隙間から声が漏れた。
聞くつもりはなかった。
ほんの一言、耳に入ってしまっただけだった。
『今は、これは私の気持ちだとわかります』
牧瀬の足が止まる。
『兄さんが好きです』
呼吸を忘れた。
手に持っていた薬袋がかすかに鳴る。
それだけの音が、やけに大きく聞こえた。
父が裂けたこと。
事故が起きたこと。
人格が分かれたこと。
共同体ができてしまったこと。
全部、もう見てきた。
見えてしまっていた。
見えてしまったうえで、まだ晃一へ戻せる余地があると思っていた。
だが今、扉の向こうで言葉になったものは、事故の延長ではない。
設計図の残響でも、ハッキングの後遺症でも、息子の願いの単純な反復でもない。
人格を持ったまま、自分で選んだ恋情。
それが、晃一だったものから、息子へ向けて落ちた。
牧瀬は一歩も動けなかった。
怒りではない。
嫌悪でもない。
もっと冷たい、底の抜ける感覚だった。
ここで止めなければ、本当に別の存在になる。
いや、もうなっているのかもしれない。
それでも、ここで諦めたら、晃一を失ったことを自分が認めることになる。
それだけは、できなかった。
しばらくして、牧瀬は音を立てないように一歩下がった。
ノックはしない。
今扉を開ければ、自分の顔が何を言ってしまうかわからなかった。
*
研究所へ戻ったあと、牧瀬は灯りの落ちた解析室にひとりで立っていた。
机の上には、変身機の残骸から取ったサンプル、盤上パンタのログ、双子の深部データの写し。
見慣れたはずのものが、今夜は全部違って見える。
牧瀬は端末へ手を置く。
しばらくそのまま黙って、やがて低く息を吐いた。
「……もう」
声が、自分でも驚くほど冷えていた。
「戻すしかない」
誰に向けた言葉でもなかった。
宣言というより、決壊の音だった。
見えてしまったものを見なかったことにはしない。
だが、見えたからこそ、なお晃一を失わないほうへ倒れる。
その偏りが、今、はっきりと形になった。
解析室のモニターが静かに立ち上がる。
青白い光が、牧瀬の顔から最後の迷いを削っていった。




