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第41話 迎えに行く

 気づいた時には、仮住まいの前を通り過ぎていた。


 自分がどこへ向かっているのか、悠真はしばらくちゃんと考えていなかった。

 考えたくなかったのかもしれない。

 牧瀬の低い声も、圭介の押し殺した怒鳴り声も、九条の静かな横顔も、ブランの不安そうな目も、全部がまだ耳の奥に残っている。

 残っているのに、どこへ行けばいいのかわからなかった。


 ただ、足だけが知っていた。


 見慣れた道を曲がる。

 住宅街の角を抜ける。

 夜気は冷たいのに、頭の中だけがずっと熱を持っていた。


 旧神代家の前に立った時、悠真はようやく、自分がここへ帰ってきたのだと知った。


 帰ってきた、という言い方が正しいのかはわからない。

 もうここは帰る場所ではない。

 そう理解したはずなのに、身体のほうがまだ、ここを原点だと覚えている。


 玄関の前で少しだけ立ち尽くす。

 封鎖のテープは外されていたが、まだ人の気配はない。

 鍵を差し込む。

 回る。

 扉が開く。


 中は、暗かった。


 スイッチを入れる。

 白い灯りがついて、壊れたものの輪郭が浮かび上がる。


 床の擦れた跡。

 直しきれていない壁。

 運び出されていない棚。

 片づけようとして途中でやめたみたいな、箱の山。

 生活の痕跡はまだ残っているのに、それがもう生活としては繋がっていない。


 食卓の椅子が、一脚だけ少し引かれたままだった。

 誰かが立ち上がって、そのまま戻ってこなかったみたいに見える。

 ローテーブルの角には傷が残っている。

 ブランがいつも寄りかかっていたソファは、少しだけ位置がずれていた。


 息が苦しい。


 ここで、笑っていた。

 ここで、喧嘩していた。

 ここで、ノワールが皿を下げて、ブランが甘いものだけ先に食べようとして、九条が無言で直して、圭介がどうでもいいことを喋っていた。


 共同体だった。


 そう思った瞬間、胸の奥で何かがひどく痛んだ。

 共同体だった、ではない。

 今も終わっていないはずだと、そう言い返す声が、自分の中にまだある。


 悠真はゆっくり息を吐いて、靴を脱いだ。


 抜け殻の中へ上がり込むみたいだった。

 でも、抜け殻というには、あまりにも温度が残りすぎている。

 父のいない家のはずなのに、父の痕跡ばかりがある。

 共同体の壊れた家のはずなのに、ここで交わされた声がまだ壁に引っかかっている気がする。


 リビングの奥まで進んだ時だった。


 わずかな音がした。


 気のせいかと思うくらい、小さい音だった。

 布が擦れるみたいな音。

 悠真は反射で顔を上げる。


 暗がりの向こうに、黒い影が立っていた。


 一瞬、息が止まる。

 でもすぐにわかった。

 わかってしまった。


「……ノワール」


 黒金のアヌビスは、壊れたリビングの端に静かに立っていた。


 武装は解けている。

 けれど、傷は残ったままだ。

 肩口の装甲にはまだ新しい裂け目があり、腕の継ぎ目も完全には整っていない。ジャケットも着ていない。いつもの整った姿に戻りきれていないことが、一目でわかった。


 なのに、立ち方だけが妙に静かだった。

 連れてこられたのではない。

 ここへ来ると決めて、ここに立っている姿だった。


「……兄さん」


 その呼び方に、悠真の喉がひどく詰まる。


 ノワールは、いつものようには近づいてこなかった。

 悠真も、すぐには動けなかった。

 抱きしめたことはある。

 呼び戻したこともある。

 でも、あのあとで、いまここで、どう触れていいのかがわからない。


「どうして」

 ようやく出た声は、思っていたより掠れていた。

「どうして、ここに」


 ノワールは少しだけ視線を落とした。

「……気づいたら、こちらへ来ていました」

 言ってから、自分で少しだけ首を振る。

「違います。気づいたら、ではありません」

 静かな声だった。

「ここへ来たいと、思っていました」


 その言い直しが、妙に痛い。

 でも、うれしいとか、安心したとか、そういう簡単な感情では受け取れなかった。

 ノワールが自分で選んでここへ来たことが、今はただ重い。


「そっか」

 それしか言えない。

「……牧瀬さんは」

「気づいていると思います」

 ノワールは答えた。

「九条が、移送の確認を引き受けました」

 そこで少しだけ間が空く。

「そのあいだ、監視が一度だけ薄くなりました」

 悠真は息を呑む。


 言葉にしなくてもわかる。

 九条が作った継ぎ目だった。

 崩すためじゃない。

 ひとつだけ、抜けられる幅に整えられた継ぎ目。


「……止めなかったんだ」

「はい」

 ノワールは言う。

「止めませんでした」

 それきり、少し沈黙が落ちる。


 旧神代家の静けさは、仮住まいの静けさと違っていた。

 ここにはまだ、何も整っていない沈黙がある。

 壊れたままの家具と、壊れたままの二人と、言葉にならないものがそのまま置かれている。


 悠真は視線を逸らすように、棚のほうを見た。

 その時、棚の端に、見慣れた白と黒が目に入る。


 アヌビスと白虎のぬいぐるみだった。


 落ちてはいなかった。

 誰かが一度拾って、そこへ寄せておいたのだろう。

 少しだけ埃をかぶっている。

 それでも、あの時と同じ顔をしている。


 悠真は無意識に手を伸ばし、黒いほうを取った。

 布の感触は柔らかい。

 柔らかいのに、胸の奥へ刺さるみたいだった。


 父が最後に渡したもの。

 ノワールとブランが、まだよくわからないまま抱えていたもの。

 あの時は、それがこんな意味を持つなんて思ってもいなかった。


 ノワールも、白虎のぬいぐるみを手に取った。

 動作は慎重だった。

 壊れものを扱うみたいな手つきで、でも、そのぬいぐるみがただの物じゃないと知っている人の持ち方だった。


「……これ」

 悠真が言う。

「父さんが、最後に」

「はい」

 ノワールも低く答える。

「私たちに、渡したものです」


 また、沈黙が落ちる。


 でも今度の沈黙は、さっきまでのぎこちなさと少し違っていた。

 ぬいぐるみが間にあるせいかもしれない。

 晃一の不在と、ノワールとブランの始まりと、共同体の最初の形が、その小さい布の中に全部押し込まれている気がした。


 悠真は、黒いぬいぐるみを見たまま言った。


「このままさ」

 自分でも驚くくらい、小さい声だった。

「どっか行くことも、できるよな」


 言ってしまってから、息が止まりそうになる。

 ひどいことを言った気がした。

 でも、それは嘘じゃなかった。


 もう誰もいない場所へ行くこと。

 牧瀬の正しさからも、ラボからも、統合とか回収とか、そういう言葉からも逃げること。

 できないわけじゃない。

 本気でやろうと思えば、たぶんできる。


 ノワールは、その言葉に驚かなかった。

 むしろ、最初からそこにあった考えを静かに確かめるみたいに、白虎のぬいぐるみを抱き直した。


「……はい」

 声は静かだった。

「できると思います」

 悠真は顔を上げる。

 ノワールは、まっすぐこちらを見ていた。


「兄さんとなら」

 一拍置いてから、続ける。

「逃げたいと、思いました」


 その一言で、胸がひどく痛む。

 うれしいとかじゃない。

 そんなふうに言わせてしまったことが痛い。

 逃げたいと思わせるほど、今が苦しいのだとわかるからだ。


「俺も」

 悠真は、少し笑おうとして失敗した。

「逃げてもいいって、思った」

 正しいとか間違ってるとか、そういう問題じゃなかった。

 ただ、二人とも一度はそう思ったのだ。


 ここを出て、もう戻らないこと。

 誰にも見つからない場所へ行くこと。

 ノワールを、もう「晃一」と呼ばせないで済むところへ連れていくこと。


 それは、たしかに選択肢としてあった。


 旧神代家の壊れた静けさが、二人のあいだへ落ちる。

 でも、その沈黙の中に、もう一人分の不在があることを、どちらも忘れられなかった。


 ブラン。


 その名前を、どちらが先に口にしたのかはわからない。


「でも」

「でも」


 重なって、二人とも少しだけ息を止める。

 それから、悠真が先に言った。


「ブランを置いていくのは、違う」

 言葉にすると、はっきりした。

 逃げてもいいと思った。

 でも、ブランを置いていくことだけは、どうしても違う。


 ノワールも、小さく頷く。

「はい」

 その返事には迷いがなかった。

「嫌です」

 白虎のぬいぐるみを抱く指に、少しだけ力が入る。

「私は、ブランを置いていきたくありません」

 その言い方に、ついていく側の響きはなかった。

 自分で決めている声だった。


「兄さんと逃げたいと思いました」

 ノワールは、静かに続ける。

「でも、ブランがいない場所へ行くのは、嫌です」

 悠真は何も言えない。

 ノワールが、ここまで自分の言葉で、自分の嫌だを言うことの重さが、今さらみたいに胸へ来る。


「私が行きます」

 ノワールは言った。

「迎えに」

 すぐに、少しだけ言い直す。

「……一緒に、迎えに行きたいです」


 迎えに行く。

 取り戻す、ではなく。

 回収する、でもなく。

 その言葉が、この話の中ではっきり形を持った。


 ブランは、迎えに行く相手だ。

 機能でも、欠損した半身でもなく。

 共同体の一員で、置いていけない相手だ。


 悠真は、黒いぬいぐるみを胸へ押し当てるみたいに持ち直した。

「うん」

 喉が少し痛い。

「迎えに行こう」

 その言葉は、大げさな決意表明じゃなかった。

 でも、自分で言った瞬間、ようやく行く理由が一本に繋がった気がした。


 正しさのためじゃない。

 元に戻すためでもない。

 見捨てたくないからだ。


 ノワールが、ほんの少しだけ目を伏せる。

 そのあとで、壊れた家の中ではじめて、かすかな笑みみたいなものを見せた。

「はい、兄さん」


 悠真はその顔を見て、やっと一歩だけ近づいた。

 抱きしめはしない。

 まだできない。

 でも、ノワールの肩へ触れることはできた。

 装甲の感触はまだ少し冷たい。

 それでも、触れた先にちゃんとノワールがいるとわかった。


 ノワールも逃げなかった。

 ただ静かに、その手を受け取った。


 外では、夜が深くなっている。

 壊れた旧神代家は、もう誰かを守る家ではなかった。

 でもここで、二人は一度だけ、逃げることもできた。

 そのことを知ったうえで、選ばなかった。


 それが、今はたぶん大事だった。


 悠真は手を離し、玄関のほうを見る。

「行こう」

 ノワールも白虎のぬいぐるみを抱いたまま、頷く。


 二人は、それぞれのぬいぐるみを持って、壊れた家を出た。


 戻されるのではなく、

 自分たちの足で、迎えに行くために。


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