第36話 わかるって言ったじゃん
盤上パンタは、立ち尽くしていた。
砕けた変身機の残骸が、足元でまだ熱を持っている。
父は壁際でへたり込み、何かを喚いているのに、その声は妙に遠かった。
圭介は肩で息をしていて、今にも崩れそうな脚でどうにか立っている。
ノワールは、悠真のすぐそばで、壊れた武装をまだ半ば残したまま立っていた。
失敗したのだと、ようやく理解した。
父を自分の望む形へ変えることも。
唯一の理解者を失わずに済ませることも。
ノワールを壊したまま自分の側へ置くことも。
全部は両立しなかった。
悠真のやさしさに救われながら、
それでも裏切って、
それでも欲望のほうを選んだ。
その結果、手の中にはもう何も残っていなかった。
その空白が胸の真ん中へ落ちた瞬間だった。
どん、と、力ない衝撃が胸へ飛んできた。
盤上パンタの身体が、わずかに揺れる。
悠真だった。
拳だった。
でも殴るというより、ただそこへぶつけることしかできなかったみたいな拳だった。
力なんて、ほとんど入っていない。
ちゃんと踏み込んでもいない。
ただ、壊れそうな身体のまま、それでもどうしても触れなきゃ気が済まなくて、胸へ打ちつけたみたいな拳だった。
「……っ」
盤上パンタは避けなかった。
避ける気にもならなかった。
悠真は、そのまま盤上パンタの胸ぐらを掴みそうになって、でもうまく掴みきれず、ただ服を握るみたいに指を食い込ませた。
肩で息をしている。
目は真っ赤だった。
「……なんで」
声が、震えていた。
怒鳴りたいのに、泣きそうで、ちゃんと怒鳴りきれない声だった。
「なんでだよ……」
盤上パンタは、何も答えられない。
「わかるって」
悠真は言う。
「わかるって言ったじゃん」
胸元を握る手が、小さく震える。
「俺、わかるって、言ったのに」
その一言が、盤上パンタの胸へ、拳よりずっと深く入ってきた。
わかっていた。
悠真は、わかってくれた。
あの狂った願望を、ただ気持ち悪いと切り捨てずに、痛いと言いながらも、わかる側から受け止めてしまった。
だからこそ、いちばん傷つけた。
「……うん」
ようやくそれだけが出た。
ひどく掠れた声だった。
「うん、じゃないだろ」
悠真の声が、今度は少しだけ強くなる。
「わかってくれる人がほしかったんじゃないのかよ」
盤上パンタの唇が、わずかに動く。
「ほしかった」
「じゃあなんで」
「……」
「なんで、俺のことまで、ブランのことまで、ノワールのことまで」
そこから先、声が詰まる。
言葉にならない怒りと悲しみが、喉の奥でぶつかっているのが見えた。
盤上パンタは、その顔を真正面から見た。
逃げ場がなかった。
この目からは、もう。
「……欲しかったんだよ」
ようやく出た声は、驚くほど空っぽだった。
「何もかも」
少しだけ笑おうとして、失敗する。
「欲しかった」
自嘲にもならない。
ただ事実を確認するみたいな声だった。
「わかってくれる人も」
「肯定も」
「そのままでいていいって言われることも」
視線が、砕けた変身機の残骸へ落ちる。
「奇跡も」
「全部」
悠真は、その答えに、また顔を歪めた。
「そんなの」
かすれた声で言う。
「そんなので、奪っていい理由になるわけないだろ」
正論だった。
正しすぎるくらい正しい。
盤上パンタは、そこで初めて、少しだけ笑った。
今度はちゃんと、自分を嘲る笑いだった。
「ならないよ」
すぐに答える。
「そんなの、最初から」
悠真の手が、胸元で少し強くなる。
「だったら」
「でも」
盤上パンタは、悠真の言葉を遮った。
遮り方さえ、もう静かだった。
「それでも、自分のほうを選んだ」
その声には、もう熱も怒りもなかった。
あるのは、冷え切った事実だけだった。
「君を裏切ってでも」
「ノワールを壊してでも」
「ブランを傷つけてでも」
「共同体をぐちゃぐちゃにしてでも」
「自分の願いのほうを」
圭介が、息を呑む。
怒鳴りそうになって、でも怒鳴れない顔だった。
ノワールは、悠真の少し後ろで、じっと盤上パンタを見ていた。
赤金の目は不安定に明滅している。
壊れた武装も、まだ解けきっていない。
それでもその視線は、さっきまでみたいに命令へ繋がれてはいなかった。
悠真の拳が、もう一度胸へ当たる。
今度はもっと弱かった。
殴るというより、崩れ落ちる寸前の身体を、盤上パンタの服に預けてしまったみたいだった。
「……最低だ」
悠真が言う。
「うん」
「最悪だ」
「うん」
「ほんとに」
そこで、声がひっくり返る。
「ほんとに、最低だよ」
盤上パンタは、否定しなかった。
もう、何も否定できなかった。
父がまだ壁際で怯えている。
砕けた変身機の破片は、床の上で鈍く焦げている。
部屋は壊れていて、誰もまともな形では立っていられなくて、何ひとつ取り返せたわけじゃない。
なのに、悠真の次の言葉だけが、妙にまっすぐ落ちた。
「……勝手に」
盤上パンタが、ゆっくり顔を上げる。
「勝手に、俺たちのこと奇跡って呼ぶな」
その一言に、盤上パンタの目がわずかに見開かれた。
悠真は、泣いた顔のまま、でも逸らさなかった。
「ノワールも」
「ブランも」
「共同体も」
「父さんのことも」
息を吸う。
喉の奥が痛そうだった。
「そんな軽いもんじゃない」
圭介が、そこで小さく目を閉じた。
それはたぶん、堪えるみたいな閉じ方だった。
「痛くて、重くて、めちゃくちゃで」
悠真は言う。
「都合よくきれいな名前つけていいもんじゃない」
服を握っていた手が、少しだけ震える。
「俺たちが、ここまで来て、こうなって、それでも積み上げたものだ」
奇跡じゃない。
その否定は、価値がないと言うことじゃなかった。
むしろ逆だった。
痛くて、重くて、面倒で、逃げたくなるくらいしんどくて、それでも誰かの都合のいい夢として消費させたくない現実だと、そう言われていた。
盤上パンタは、そこでようやく理解する。
自分は最後の最後まで、あの共同体を、自分の飢えの名前で呼んでいたのだと。
見ていたつもりで、見切れていなかった。
わかってほしいと願いながら、自分の見たい形でしか相手を見ていなかった。
喉が、ひどく乾いた。
「……ごめん」
出たのは、それだけだった。
あまりにも足りない。
足りなすぎて、自分で言ってすぐわかる。
悠真の目が、少しだけ揺れる。
許す揺れではない。
それでも、その一言が空っぽではなかったと知ってしまう揺れだった。
「いらねえよ」
悠真は言った。
声はまだ掠れていた。
「そんな一言で済むわけないだろ」
その通りだった。
盤上パンタは、口を開いたまま、次の言葉を探した。
父のこと。
ノワールのこと。
ブランの腕のこと。
悠真のこと。
自分が見たものと、壊したものと、欲しかったもの。
言わなければいけないことは山ほどあるのに、どれも言葉の形にならない。
言葉にしようとすると、全部が遅すぎた。
ノワールが、ほんの少しだけ前へ出る。
まだ足取りは危うい。
それでも自分で立ち、自分で一歩を選んだ歩き方だった。
「……兄さん」
呼ばれて、悠真が振り向く。
ノワールは、そのまま何かを続けようとして、うまく続けられなかった。
まだ壊れている。
喉も、命令の痕も、痛みも残っている。
でも、その呼びかけだけで十分だった。
圭介が、ようやく息を吐く。
「帰ろうぜ」
その言葉は、裁きじゃなかった。
生活の側から、かろうじて出てきた声だった。
帰る場所は、壊れている。
共同体は元には戻らない。
ブランの腕は失われたままだ。
父も、盤上パンタも、何一つ解決していない。
それでも、帰るという言葉だけが、この場に残った。
盤上パンタは、その言葉に返事をしなかった。
できなかった。
帰れないのは自分のほうだと、もうわかってしまったからだ。
悠真は、最後に盤上パンタの服から手を離した。
その手はまだ震えていた。
勝ったから離した手じゃない。
もう掴んでいてもどうにもならないと知ったから、離すしかなかった手だった。
盤上パンタは、そこに立ったまま、ほんとうに何も言えなくなった。
欲しかった。
わかってほしかった。
そのままで肯定されたかった。
全部、本物だった。
でも、それでも自分のほうを選んだ。
その事実だけが、深く、深く、自分の足元へ沈んでいく。
もう奇跡とは呼べなかった。
呼ぶ資格が、自分にはないのだとわかった。
部屋の中には、壊れたものと、壊れたまま立っている者たちだけが残っていた。
それでもノワールは、悠真の服の裾をもう一度だけ小さく掴む。
圭介は壁へ寄りかかりながら、どうにか立っている。
父の荒い息は、まだ部屋の隅で続いている。
何ひとつ終わっていない。
だからこそ、盤上パンタだけが、そこで完全に言葉を失った。




