表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
35/56

第35話 設計図の外

 最初に返ってきたのは、ほんのわずかな力だった。


 悠真の背へ回された腕が、震えながらもたしかに自分を抱きしめ返してくる。


 壊れかけた機構の軋む音が、すぐ耳元でする。武装はまだ解けきっていない。熱も痛みも、命令の残滓も、ぜんぶまだそこにある。それでも、その抱擁だけは命令ではなかった。


 悠真は息を呑む。

 苦しいほど、わかってしまう。


 ノワールが、自分で返してくれている。


「……ノワール」


 呼ぶと、ノワールの喉が震えた。

 返事の代わりに、抱く力がもう少しだけ強くなる。

 その不器用な力の入り方が、かえって痛かった。


 盤上パンタが、ひゅ、と浅く息を吸った。


 狭い部屋の隅で、父が怯えたまま座り込んでいる。

 壁際では圭介が膝をつき、肩で息をしながらこちらを見ていた。

 その全部を視界へ入れたまま、盤上パンタはただ、悠真に抱き返しているノワールを見ていた。


 さっきまで壊せたはずのもの。

 命令でもっと深く沈められたはずのもの。

 それが今、壊れたまま、傷ついたまま、そのままで抱きしめ返している。


 その光景が、盤上パンタから次の言葉を奪った。


「……なんで」


 かすれた声だった。

 問いかけた相手は誰でもなかったのかもしれない。

 ノワールか、悠真か、自分自身か。


 なんでも変身機を握る手に力が入る。

 もう一度流し込めばいい。

 命令を深く、もっと深く。

 そのはずなのに、指先が動かない。


 見てしまったからだ。


 自分が欲しかったものを。


 変えられることじゃない。

 好きな形へ塗り替えることじゃない。

 壊れていても、そのままで抱きしめ返せること。

 壊れていても、そのままで抱きしめてもらえること。


 それを、唯一の理解者の腕の中で、ノワールがやってしまっている。


 盤上パンタの唇が、わずかに笑う。

 笑ったのに、目はまったく笑っていない。


「……ああ」


 ようやく落ちたみたいに、声がこぼれる。


「俺が欲しかったの、これか」


 その認識は遅すぎた。

 遅すぎて、それでもなお正確だった。


 だから止まれなかった。


 ここで手を離してしまったら、もう自分には何も残らない。

 唯一の理解者を裏切って、共同体を壊して、ノワールを壊して、父のところまで来た。

 そこまで来てしまった自分へ、何も返せなくなる。


 盤上パンタは、ふらつく足取りで父のほうへ向かった。


 悠真が顔を上げる。

「待て」


 声は出た。

 けれど一歩が遅れる。


 なんでも変身機が、父の前で起動した。


 銀色の円盤が軽く回り始める。

 虹色のリングが薄暗い部屋の空気を撫でる。その光を見た瞬間、悠真の身体が強張った。


 あれは、罪の形だった。

 父を壊したものだ。

 それでも同時に、ノワールとブランへ繋がってしまう最後の残骸でもある。


 止めなければならない。

 わかっているのに、その一拍がどうしてもまっすぐには踏み出せない。


「盤上パンタ!」

 圭介が叫ぶ。

 声は掠れていた。

「帰れよ! それ以上やったら、もうほんとに帰れねえぞ!」


 盤上パンタは振り向かない。

 ただ父を見たまま、静かな声で言う。


「父さんを、父さんが望んだ俺の力で」

 虹色の光が、その横顔を濡らす。

「父さんが望まなかった、俺の好きな形へ変える」

 父の顔から血の気が引く。

「今度は俺が、父さんを肯定してあげる」


「やめろ!」

 悠真が踏み出す。

 圭介も壁を掴んで立ち上がろうとする。


 でも、そのどちらも、ほんの少し遅い。


 回る光が、父の足元へ落ちる。

 部屋の空気が変わる。

 起動前の静電気みたいな震えが、床を這う。


 そのときだった。


 悠真へ抱きついていたノワールの腕が、ぴくりと揺れる。


 武装がまだ残る右腕。

 砲口の光が、弱く明滅する。


 悠真ははっとしてノワールを見る。

 止めようとした。

 けれどその一瞬、自分の中にも同じ迷いが走った。


 変身機。


 兄の届かなさの形。

 兄の罪の形。

 それでも、私が始まってしまった瞬間の形。


 ノワールの視界の中で、銀色の円盤が回る。

 あの夜の眩しさ。

 裂ける音。

 最初の痛み。

 兄さんの泣きそうな顔。

 差し出された手。

 名前を呼ばれた声。

 台所の湯気。

 ブランの笑い声。

 ジャケットの重み。


 全部が一度に胸の中でぶつかる。


 これがなければ、私はいない。

 これがあったから、兄さんは壊れた。

 これが残れば、また誰かが壊れる。


 撃てない、と思う。

 撃ちたくない、とも思う。

 由来を捨てたくない。

 兄さんの願いごと消したいわけじゃない。


 でも。


 私は、それだけじゃない。


 設計図だけで終わりたくない。


 ノワールの砲口が、父でも盤上パンタでもなく、変身機だけをまっすぐ捉えた。


「ノワール――」


 悠真の声は、止める声になりきらない。


 次の瞬間、短い閃光が走った。


 轟音は狭い部屋に不釣り合いなほど大きかった。

 銀色の円盤が真ん中から砕ける。虹色のリングが歪み、光が破裂するみたいに散った。

 遅れて、焼けた樹脂の匂いが広がる。


 父が悲鳴を上げる。

 盤上パンタの手から、砕けた残骸が取り落とされる。

 床へ落ちた破片は、もう回らない。ただ、かすかな火花だけを痙攣みたいに散らしていた。


 静かだった。


 誰もすぐには動けない。


 盤上パンタが、壊れた変身機を見下ろしている。

 その顔には、怒りも絶望も、綺麗には出ていなかった。

 ただ、自分で選んだ深淵の底が、ようやく見えた人間の顔だった。


「……そうやって」

 乾いた声が落ちる。

「お前は、自分で選ぶのか」


 ノワールは答えなかった。

 答えられないまま、武装の残る腕をゆっくり下ろす。

 身体はまだ震えている。

 命令の痕も痛みも消えていない。

 それでも、さっきよりほんの少しだけ、自分の重さで立っていた。


 悠真は、その横顔を見る。

 壊れたままだ。

 綺麗には戻らない。

 でも今、自分の意志で選んだ。


 圭介が息を吐く。

 笑いそうで、泣きそうで、どちらにもなれない顔だった。


「……帰ろうぜ」

 その言葉は裁きじゃなかった。

 生活の側から、ようやく出てきた声だった。


 盤上パンタは返事をしない。

 父の前で立ち尽くしたまま、壊れた変身機の破片を見ている。


 奇跡は、起きなかった。

 誰も救われた形では終わらない。

 共同体は壊れたままだし、父は戻らないし、盤上パンタも止まれなかった場所まで来てしまっている。


 それでも。


 ノワールは、悠真の服をもう一度だけ掴む。

 今度は命令ではなく、縋るのでもなく、ここにいると確かめるみたいに。


 その小さな手つきだけが、この壊れた夜の中で、かろうじて次を指していた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ