第35話 設計図の外
最初に返ってきたのは、ほんのわずかな力だった。
悠真の背へ回された腕が、震えながらもたしかに自分を抱きしめ返してくる。
壊れかけた機構の軋む音が、すぐ耳元でする。武装はまだ解けきっていない。熱も痛みも、命令の残滓も、ぜんぶまだそこにある。それでも、その抱擁だけは命令ではなかった。
悠真は息を呑む。
苦しいほど、わかってしまう。
ノワールが、自分で返してくれている。
「……ノワール」
呼ぶと、ノワールの喉が震えた。
返事の代わりに、抱く力がもう少しだけ強くなる。
その不器用な力の入り方が、かえって痛かった。
盤上パンタが、ひゅ、と浅く息を吸った。
狭い部屋の隅で、父が怯えたまま座り込んでいる。
壁際では圭介が膝をつき、肩で息をしながらこちらを見ていた。
その全部を視界へ入れたまま、盤上パンタはただ、悠真に抱き返しているノワールを見ていた。
さっきまで壊せたはずのもの。
命令でもっと深く沈められたはずのもの。
それが今、壊れたまま、傷ついたまま、そのままで抱きしめ返している。
その光景が、盤上パンタから次の言葉を奪った。
「……なんで」
かすれた声だった。
問いかけた相手は誰でもなかったのかもしれない。
ノワールか、悠真か、自分自身か。
なんでも変身機を握る手に力が入る。
もう一度流し込めばいい。
命令を深く、もっと深く。
そのはずなのに、指先が動かない。
見てしまったからだ。
自分が欲しかったものを。
変えられることじゃない。
好きな形へ塗り替えることじゃない。
壊れていても、そのままで抱きしめ返せること。
壊れていても、そのままで抱きしめてもらえること。
それを、唯一の理解者の腕の中で、ノワールがやってしまっている。
盤上パンタの唇が、わずかに笑う。
笑ったのに、目はまったく笑っていない。
「……ああ」
ようやく落ちたみたいに、声がこぼれる。
「俺が欲しかったの、これか」
その認識は遅すぎた。
遅すぎて、それでもなお正確だった。
だから止まれなかった。
ここで手を離してしまったら、もう自分には何も残らない。
唯一の理解者を裏切って、共同体を壊して、ノワールを壊して、父のところまで来た。
そこまで来てしまった自分へ、何も返せなくなる。
盤上パンタは、ふらつく足取りで父のほうへ向かった。
悠真が顔を上げる。
「待て」
声は出た。
けれど一歩が遅れる。
なんでも変身機が、父の前で起動した。
銀色の円盤が軽く回り始める。
虹色のリングが薄暗い部屋の空気を撫でる。その光を見た瞬間、悠真の身体が強張った。
あれは、罪の形だった。
父を壊したものだ。
それでも同時に、ノワールとブランへ繋がってしまう最後の残骸でもある。
止めなければならない。
わかっているのに、その一拍がどうしてもまっすぐには踏み出せない。
「盤上パンタ!」
圭介が叫ぶ。
声は掠れていた。
「帰れよ! それ以上やったら、もうほんとに帰れねえぞ!」
盤上パンタは振り向かない。
ただ父を見たまま、静かな声で言う。
「父さんを、父さんが望んだ俺の力で」
虹色の光が、その横顔を濡らす。
「父さんが望まなかった、俺の好きな形へ変える」
父の顔から血の気が引く。
「今度は俺が、父さんを肯定してあげる」
「やめろ!」
悠真が踏み出す。
圭介も壁を掴んで立ち上がろうとする。
でも、そのどちらも、ほんの少し遅い。
回る光が、父の足元へ落ちる。
部屋の空気が変わる。
起動前の静電気みたいな震えが、床を這う。
そのときだった。
悠真へ抱きついていたノワールの腕が、ぴくりと揺れる。
武装がまだ残る右腕。
砲口の光が、弱く明滅する。
悠真ははっとしてノワールを見る。
止めようとした。
けれどその一瞬、自分の中にも同じ迷いが走った。
変身機。
兄の届かなさの形。
兄の罪の形。
それでも、私が始まってしまった瞬間の形。
ノワールの視界の中で、銀色の円盤が回る。
あの夜の眩しさ。
裂ける音。
最初の痛み。
兄さんの泣きそうな顔。
差し出された手。
名前を呼ばれた声。
台所の湯気。
ブランの笑い声。
ジャケットの重み。
全部が一度に胸の中でぶつかる。
これがなければ、私はいない。
これがあったから、兄さんは壊れた。
これが残れば、また誰かが壊れる。
撃てない、と思う。
撃ちたくない、とも思う。
由来を捨てたくない。
兄さんの願いごと消したいわけじゃない。
でも。
私は、それだけじゃない。
設計図だけで終わりたくない。
ノワールの砲口が、父でも盤上パンタでもなく、変身機だけをまっすぐ捉えた。
「ノワール――」
悠真の声は、止める声になりきらない。
次の瞬間、短い閃光が走った。
轟音は狭い部屋に不釣り合いなほど大きかった。
銀色の円盤が真ん中から砕ける。虹色のリングが歪み、光が破裂するみたいに散った。
遅れて、焼けた樹脂の匂いが広がる。
父が悲鳴を上げる。
盤上パンタの手から、砕けた残骸が取り落とされる。
床へ落ちた破片は、もう回らない。ただ、かすかな火花だけを痙攣みたいに散らしていた。
静かだった。
誰もすぐには動けない。
盤上パンタが、壊れた変身機を見下ろしている。
その顔には、怒りも絶望も、綺麗には出ていなかった。
ただ、自分で選んだ深淵の底が、ようやく見えた人間の顔だった。
「……そうやって」
乾いた声が落ちる。
「お前は、自分で選ぶのか」
ノワールは答えなかった。
答えられないまま、武装の残る腕をゆっくり下ろす。
身体はまだ震えている。
命令の痕も痛みも消えていない。
それでも、さっきよりほんの少しだけ、自分の重さで立っていた。
悠真は、その横顔を見る。
壊れたままだ。
綺麗には戻らない。
でも今、自分の意志で選んだ。
圭介が息を吐く。
笑いそうで、泣きそうで、どちらにもなれない顔だった。
「……帰ろうぜ」
その言葉は裁きじゃなかった。
生活の側から、ようやく出てきた声だった。
盤上パンタは返事をしない。
父の前で立ち尽くしたまま、壊れた変身機の破片を見ている。
奇跡は、起きなかった。
誰も救われた形では終わらない。
共同体は壊れたままだし、父は戻らないし、盤上パンタも止まれなかった場所まで来てしまっている。
それでも。
ノワールは、悠真の服をもう一度だけ掴む。
今度は命令ではなく、縋るのでもなく、ここにいると確かめるみたいに。
その小さな手つきだけが、この壊れた夜の中で、かろうじて次を指していた。




