第34話 触れる
膝が、先に落ちた。
圭介は荒い息を吐きながら、片膝を床につく。
床は安アパートらしい薄い板で、着地した瞬間にひどく安っぽい音がした。その軽さが腹立たしい。
こっちは息も腕ももう限界に近いのに、世界のほうは何ひとつ重大そうな顔をしない。
肩が熱い。
脇腹も痛い。
さっき掠めた一撃が、遅れてちゃんと効いてきていた。
目の前では、ノワールが武装を展開したまま立っている。
赤い光が明滅している。背面ユニットの駆動音が低く唸る。怖い。普通に怖い。昨日まで一緒に飯を食っていた相手の姿じゃない。
でも。
銃口が、わずかに震えていた。
狙いを定めるための揺れじゃない。
撃つ寸前の機械がする調整とも違う。
止めようとしている揺れだと、圭介にはわかった。
ほんの少しだけ、前へ出る命令と、出たくない何かがぶつかっている。
「……ノワール」
圭介は息を整える間もなく、その名前を呼ぶ。
喉が焼ける。
もうさっきみたいに大声は出ない。
それでも呼ぶ。
「いるんだろ」
赤い光が揺れる。
黒い身体が、ほんのかすかに止まる。
盤上パンタが舌打ちに近い息を漏らした。
「まだやるの」
穏やかな声だった。
でも、もう穏やかには見えない。きれいな顔の下で、焦りがひびみたいに広がっている。
「当たり前だろ」
圭介が吐くように言う。
「帰る場所の話してんだよ」
盤上パンタの眉が寄る。
「だから嫌いなんだよ、そういうの」
きれいに言ったつもりなのだろう。
でも、その言葉はもうほとんど剥き出しだった。
ノワールの腕が上がる。
命令が勝ちそうになる。
圭介は歯を食いしばって立ち上がろうとした。そこで、廊下の向こうから足音がした。
ひとつ。
止まる。
それから、もう一度。
悠真だった。
息が上がっている。
髪も服も乱れている。
頬には乾ききっていない涙の跡があった。
綺麗な顔じゃない。決まった顔でもない。怖がっていて、痛がっていて、それでもここまで来てしまった人の顔だった。
部屋へ入った瞬間、悠真の視線が二つへ割れる。
盤上パンタ。
ノワール。
ほんの一瞬だけ、迷う。
それは仕方なかった。ここまでの全部を壊した張本人と、今まさに壊されている相手が、同じ狭い部屋の中にいる。
でも、次の瞬間には決まった。
悠真はノワールを見た。
盤上パンタを裁きに来たわけじゃない。
怒鳴りに来たわけでもない。
見捨てないために来た。
その選び方だけは、一度もぶれなかった。
「ノワール」
その呼び方で、黒い身体が強く震える。
盤上パンタの顔が変わった。
「……そっちなんだ」
小さな声だった。
傷ついたみたいにも聞こえる。
でも悠真は、今そこへ行かなかった。
ノワールの武装が、赤く光る。
命令はもう、待ってくれない。
「排除」
機械じみた声が漏れる。
その瞬間、腕部ユニットが火を噴いた。
悠真は反射で身を引く。
遅い。
掠めた熱が頬を裂く。
痛みが遅れて走る。
足が止まりかける。
怖い。
とにかく怖い。
今の一撃が少しずれていたら、顔ごと持っていかれていた。そんなことは考えるまでもなくわかる。身体が逃げろと言う。今すぐ伏せろ、壁へ隠れろ、もう無理だと叫べと言う。
それでも、悠真は前を見た。
「おい!」
圭介が叫ぶ。
「銃口ぶれてる! まだ聞こえてる!」
その声が、悠真の背中を押す。
圭介は決着をつける側じゃない。もう自分で立つのもしんどいのに、それでもノワールがまだいることだけは、はっきり悠真へ渡してきた。
悠真は息を吸う。
もう一歩、出る。
「ノワール」
今度は、別の軌道が来る。
咄嗟に肩をひねる。
服が裂ける。
熱が腕の外側を掠める。たまらず息が詰まる。
それでも倒れない。
ノワールの視界の奥で、命令が何層にも重なる。
排除。
撃て。
近づけるな。
設計図どおりでいい。
でも、その向こうから別のものが押し返す。
兄さん。
兄さんが来た。
来ないでください。
来てほしい。
こわい。
触れたい。
撃つな。
撃て。
頭の中が裂ける。
盤上パンタが、変身機を握る手へ力を込めた。
「命令を優先して」
その声は、やさしいままだった。
やさしいままだから、余計に気持ちが悪い。
「ノワール」
悠真が言う。
「俺、来た」
その一言は、何の解決にもならない。
でも、今ここでは、それがいちばん嘘のない言葉だった。
また一歩。
赤い照準が胸へ乗る。
近い。
近すぎる。
悠真は全身をこわばらせる。
今すぐ来る。わかる。怖い。脚が止まる。
その寸前で、光がずれる。
脇の壁へ刺さる。
石膏が砕ける。
圭介が、床に手をついたまま笑うように息を吐いた。
「ほらな」
ノワールの腕が震える。
撃ちたいのではない。撃たされたくないのだと、もう誰の目にもわかり始めていた。
悠真は、ようやくそこへ辿り着く。
距離にして数歩。
なのに、とんでもなく遠かった。
目の前に立つノワールは、黒い武装を剥き出しにしたまま、息をするみたいに小さく震えている。赤いアイセンサーが、一定にならない。怖がっている時の顔でも、平静な時の顔でもない。壊されかけたまま、どちらにもなりきれない顔だった。
悠真は、そっと手を上げる。
特別なことはしない。
技でも、理屈でもない。
いつものように。
ずっとやってきたみたいに。
指先を、ノワールの首元の外装へ触れさせる。
びくり、と黒い身体が跳ねる。
その反応だけで、悠真は泣きそうになった。
まだ触れられる。
まだ、そこにいる。
「ノワール」
今度は、名前のあとに少しだけ息を置く。
「……お前、あの歌、好きだったよな」
盤上パンタの顔がわずかに強ばる。
悠真は見ない。
見るのはノワールだけだ。
「最初は、俺が好きだからとか、ブランが騒いでるからとか、そういうのもあったかもしれない」
触れたまま言う。
声は震えている。
頬の傷も痛い。
怖さも消えていない。
でも、言葉だけは間違えたくなかった。
「でも、お前、待ってた」
文化祭のステージ前。
イントロの前から、息を詰めていた横顔。
家の中で、無意識に拾っていた断片。
ブランが歌うたび、ぴくっと耳を向けていた気配。
「お前、自分で好きだったろ」
ノワールの喉の奥で、ひどく小さな音が鳴る。
拒絶にも、嗚咽にも似ていた。
悠真は、そこで初めて歌う。
「……はみだし、はみだし」
大声ではない。
上手くもない。
ただ、聞かせるためではなく返すために歌う。
「大正解」
その一節が、部屋の空気を変える。
魔法みたいには変わらない。
光が走るわけでも、奇跡みたいに全部が戻るわけでもない。
ただ、ノワールの中で、別の意味で使われていた回路へ、本来の手触りが差し戻される。
好きだった歌。
兄さんが好きだったからだけじゃない。
ブランが好きだからだけでもない。
自分でも、好きだと思ってしまった歌。
そのことを、間違えずに返される。
ノワールの視界の中で、歌詞がぶつかる。
きみは最初から大正解。
兵器でもいい、という意味じゃない。
壊していい、という意味じゃない。
命令へ都合よく組み替えられていい、という意味でもない。
どこにもない星の設計図。
だから上書きしていいのではない。
だから奪っていいのでもない。
自分だけの形だから、そのままでよかったはずだった。
頭の奥で、黒い命令がきしむ。
押し込まれた設計図がひび割れる。
排除。
回収。
従え。
違う。
その違うが、初めて、ノワール自身の声で鳴る。
「……やめ」
音になりきらない。
それでも、確かに命令ではない声だった。
盤上パンタの顔色が変わる。
「ノワール」
今度の呼び方には焦りが混ざる。
「聞かなくていい。こっちへ」
悠真は、その声へ被せるようにもう一度歌う。
「きみは、最初から」
掠れた声だ。
泣きそうで、情けなくて、全然うまくない。
でも、ノワールへ返すには十分だった。
「大正解」
ノワールの武装が、がく、とぶれる。
右腕が下がりかける。
背面ユニットの駆動音が乱れる。
赤い光が、一定のリズムを失って激しく明滅する。
圭介が、床から顔を上げる。
届いた、とわかる揺れだった。
悠真は、もう片方の手も伸ばす。
首元から肩へ。
いつも機械の身体に触れていた延長で、そのまま抱き寄せる。
固い。
熱い。
怖い。
でも、確かにノワールだった。
「大丈夫」
悠真が言う。
自分にも言い聞かせるみたいに。
「大丈夫じゃなくてもいい。戻れなくてもいい。でも、お前を置いていかない」
その言葉で、ノワールの身体がひどく強く震えた。
腕が、ゆっくり持ち上がる。
悠真は反射でこわばる。
まだ怖い。最後まで怖い。
でも、その手は攻撃には来なかった。
ぎこちなく、ひどく遅れて、悠真の服の背を掴む。
触れ返した。
その事実だけで、盤上パンタの表情から何かが抜ける。
「……なんで」
小さな声だった。
怒りとも、泣き声ともつかない。
だが悠真は答えない。
まだここで終わりではない。決定的な対話は、このあとでいい。
今は、ノワールのほうが先だった。
「にい」
ノワールの喉が、ひどく苦しそうに鳴る。
それでも、そこまで来る。
「……さん」
言い切るころには、もうほとんど泣き声だった。
悠真は、目を閉じる。
抱きしめる力を、少しだけ強くする。
完全には戻っていない。
武装も残っている。
命令もまだ死んでいない。
でも、届いた。
少なくとも、ここまでは届いた。
圭介が壁に背を預けたまま、大きく息を吐く。
膝はまだ笑っている。
負けたままでもある。
それでも、託すところまでは来た。
部屋の隅で、父が震えながら座り込んでいる。
盤上パンタは変身機を握ったまま、動けずにいた。
その瞳の中には、羨望も、焦りも、置いていかれた子どもみたいな痛みも、全部が混ざっている。
だが、まだ終わりではない。
狭い部屋の真ん中で、悠真はノワールへ触れたまま、次に来る言葉を待った。




