第33話 今度は、自分が
ラボの廊下は長い。
走り出してしまえば一瞬のはずなのに、今日は妙に長かった。
白い壁が続く。蛍光灯が続く。自動ドアが開いて閉じる。そのたび、神代家の壊れた食卓や、床に落ちた白い腕や、ノワールの悲鳴が一緒についてくる。
逃げたい、と何度も思った。
ここで端末を落としてしまえたら。
足がもつれて転べたら。
誰かに止められたら。
そうしたら、行かなくていい理由ができるかもしれないのに、と本気で思った。
でも、止めてくれる人はもういない。
ブランは送り出した。
圭介は先に走った。
九条は位置を渡した。
牧瀬は、壊れたまま行けと言った。
だから、自分で行くしかない。
外気が肺へ入る。
夜は冷たいのに、喉の奥だけずっと熱かった。
悠真は位置情報を開き直し、その光を握るみたいに端末を持つ。
ノワールを、前みたいに戻したいわけじゃない。
壊れていないことにしたいわけでもない。
あそこにいる、怖がっているノワールを、壊れたまま見捨てたくないだけだ。
それだけを、何度も自分へ言い聞かせる。
それだけを落とさないようにしながら、悠真は夜へ踏み出した。
*
古びたアパートの一室では、まだ空気が張りつめたままだった。
圭介は一歩も引かない。
引けない、というほうが近い。肩で息をして、額の汗が目に入り、腕はもう痺れはじめている。それでも視線だけはノワールから逸らさなかった。
ノワールの爪先が床を削る。
前へ出ろという命令が、身体を無理やり押している。
排除。回収。合流。
黒い言葉が骨の深いところまで入り込んでくる。
でも、その下で別のものがまだ踏みとどまっていた。
ジャケットの肩の重み。
割れた皿の音。
ブランの声。
兄さん。
圭介。
ぶつかり合うたびに、機体のどこかが悲鳴みたいな音を立てる。
「ノワール」
圭介の声は、さっきより少し低かった。
怒鳴り続けて擦り切れたのだろう。それでも呼ぶ。
「帰るぞ」
短い。
何度も同じことしか言わない。
でも、その短さが今は一番強かった。
盤上パンタが、静かな顔のまま変身機を握り直す。
ただ握り直しただけには見えなかった。親指がリングの縁をなぞり、起動前の接点を確かめるみたいに、ごく短く二度止まる。
使い慣れた所有者の手つきではない。仕組みを読んで、無理やり従わせる側の手つきだった。
「聞かなくていい」
囁くような声だった。
「もうすぐ終わるから」
終わる、という言い方に、圭介のこめかみがひくりと動く。
「ふざけんな」
吐き捨てるみたいに言う。
「こっちは終わらせるつもりで来てねえんだよ」
ノワールの武装が、また赤く光る。
圭介は身構える。次の瞬間、黒い身体が踏み込んだ。
速い。
真正面から来る。
圭介は咄嗟に身をひねった。掠めた爪が肩口の布を裂く。熱が遅れて走る。壁へ叩きつけられかけて、ぎりぎりで踏みとどまる。
痛い。
普通に痛い。
それでも、その一撃は喉も胸も外していた。
圭介は歯を食いしばる。
外したんじゃない。外されたんだと、わかってしまう。
「……いるんだろ」
息を詰まらせながら、また言う。
「まだ」
ノワールの赤い光が揺れた。
盤上パンタの顔が、そこで少しだけ硬くなる。
穏やかなままではいられなくなっている。理解したつもりで、手に入れたつもりで、設計図を押し込めば届くつもりでいたものが、生活の記憶ひとつでぶれはじめているからだ。
「命令を優先して」
その声はやわらかい。
やわらかいまま、深く入ってくる。
「奇跡は、もう目の前だよ」
奇跡。
その言葉に、圭介の顔が歪む。
ノワールの内部でも、その音はざらついて聞こえた。
欲しかった人間にはそう見えたのかもしれない。
でも、圭介にとっても、ノワールにとっても、あの家にあったものはそんな呼び方で上から包めるものではなかった。
「だから嫌いなんだよ」
圭介が低く言う。
「そうやってでかい言葉つけんの」
ノワールの腕が上がる。
命令が勝ちそうになる。
けれど狙いは定まりきらない。
赤い照準が圭介の胸元へ、喉へ、肩へ、何度もぶれては戻る。
その揺れを見ながら、圭介はもう一歩だけ前へ出た。
膝が笑う。
怖い。
でも、今ここで下がったら、たぶんこの揺れは切れる。
「ノワール」
返事はない。
それでも続ける。
「ブラン、待ってる」
その一言で、ノワールの喉から壊れた音が漏れた。
白い耳。
右肩の火花。
それでも、先に助けてくれと言った声。
ノワールを、たすけて。
命令が、その記憶へ黒く被さる。
排除。排除。排除。
うるさい。
うるさい。
でも、消えない。
盤上パンタが一歩前へ出る。
苛立ちが、とうとう隠しきれなくなっていた。
「もういい」
低く言う。
「そこまでだよ」
変身機のリングが鈍く光る。
歌詞の断片が、命令の顔をしてノワールの中へ落ちてくる。
きみは最初から大正解。
どこにもない星の設計図。
違う。
違うはずなのに、命令はその言葉の形をして入ってくる。
ノワールが踏み込んだ。
今度の一撃は、圭介も避けきれなかった。
脇腹を掠めた衝撃で息が抜ける。足がずれる。部屋の狭さが急に牙をむく。父親の小さな悲鳴が奥で上がる。
圭介は壁へ手をついた。
すぐには立て直せない。
それでも目だけはノワールへ向ける。
大丈夫じゃない。
全然、大丈夫じゃない。
でも、ここで終わるわけにもいかなかった。
*
アパートは、街の明かりから少し外れたところにあった。
位置情報が示す先へ辿り着いた時、悠真は少しだけ足を止めた。
古い外壁。白すぎる蛍光灯。剥がれた塗装。人の気配が薄い。父が、こういう場所で暮らしていたのかと、今さらみたいに胸の奥がざらつく。
でも、その感傷に沈んでいる時間はなかった。
上から、鈍い音がした。
何かが壁へぶつかる音。
続けて、聞き覚えのある声が遠くで怒鳴る。
圭介だ。
悠真は、もう迷わず階段へ向かった。
鉄の手すりが冷たい。足音がうるさい。心臓がやかましい。ひとつ上がるたび、逃げたい気持ちが身体のどこかから這い上がってくる。
怖い。
本当に怖い。
ここから先でノワールが自分を見ても、助けてくれる保証なんかどこにもない。むしろ撃たれるかもしれないし、間に合わないかもしれないし、何ひとつ綺麗には終わらない。
それでも上がる。
壊れていても、怖がっていても、そこにいるなら。
もう置いていかない。
廊下の奥、一室だけ扉が半端に開いていた。
その隙間から、赤い光が不規則に漏れている。
誰かの荒い呼吸。
圭介の声。
それから、低く、喉の奥を裂くようなノワールの音。
悠真は、そこで一度だけ息を呑んだ。
次の瞬間、扉へ手をかける。
部屋の中で、鈍い音がした。




