第32話 届く範囲
足音は乱暴だった。
階段も、廊下も、遠慮なく鳴らして近づいてくる。父の部屋の前で一度だけ止まり、次の瞬間、扉が強く開いた。
圭介だった。
盤上パンタより先に、ノワールが反応した。
命令が最優先で身体を引く。父と盤上パンタの前へ出る。爪の伸びた腕が持ち上がる。迎撃の構えだ。そうしながら、頭の奥では別の音が激しくぶつかる。
圭介。
家の匂い。
夜のリビング。
ブランの手。
「……ノワール」
圭介が、息を切らしたまま言う。
そこでまず盤上パンタの名前を呼ばない。
罵らない。
怒鳴らない。
最初に向き合う相手を、一度も間違えなかった。
「帰るぞ」
短い。
でも、その二文字の中に、食卓もソファも、割れた皿も、全部入っていた。
ノワールの喉から低い唸りが漏れる。
威嚇ではない。
苦鳴に近い音だった。
盤上パンタが静かに言う。
「邪魔しないで」
穏やかな声だ。
その穏やかさが、余計に圭介を苛立たせる。
「してんのはそっちだろ」
圭介は視線を一瞬たりともノワールから外さない。
「返せよ」
ノワールの爪先が床を削る。
攻撃命令が、骨の深いところで前へ出ろと押してくる。
「ノワール」
圭介がもう一度呼ぶ。
「お前、覚えてるだろ」
その声が、黒い身体の奥へ落ちる。
盤上パンタの眉がわずかに寄る。
「何を」
低く、盤上パンタが言う。
「無駄だよ」
「うるせえ」
圭介は振り向きもせず怒鳴った。
「共同体って言葉、あん時ちゃんと拾っただろ」
ノワールの腕が、ぴくりと揺れる。
「コップの位置まで揃えて、あの家の中を回してた」
父が部屋の奥で息を呑む。
盤上パンタの表情から、わずかに余裕が削れる。
「たい焼き、熱量が未知数とか言ってたくせに」
圭介は息を吐きながら言葉を継いだ。
「ちゃんと二口目いっただろ。文化祭だって、行く前から表見て、人が増えたら引くって自分で決めてた」
ノワールの視界がぶれる。
共同体という音。
揃えたコップ。
たい焼きの湯気。
紙に引かれた導線。
人混みのざわめき。
「しおりも」
圭介の声が、さらに近くなる。
「ブランに『ノワールもいる』って言われて、ポケットにしまってたろ」
ノワールを、たすけて。
頭の奥で、その声がもう一度響く。
命令とぶつかる。
身体がきしむ。
「ブラン、右腕なくなってんのに、お前を先に助けてくれって言った」
圭介は止まらない。
「九条も、泣きながら手ぇ動かしてた。飯、まだ片づいてねぇ。ジャケットも、お前が途中で投げたまんまだ」
台所。
包丁の音。
干しかけの布。
肩へ落ちる重み。
共同体の、どうでもいいのに大事なものばかりが戻ってくる。
「ぬいぐるみも」
そこで圭介の喉が一瞬詰まる。
でも止まらない。
「まだ、あいつの隣に戻してねぇ」
ノワールの右腕が、きし、と音を立てて下がりかけた。
盤上パンタの目が細くなる。
「ノワール」
その呼び方だけは、少しやわらかかった。
「聞かなくていい」
囁くみたいに続ける。
「設計図どおりでいい」
設計図。
その一言へ、歌が重なる。
きみのかたちは、きみだけの。
どこにもない星の、設計図。
違う。
それは、そのままでいいと言う歌だった。
都合よく組み替えろという意味じゃない。
でも命令は、その言葉の顔をして中へ入ってくる。
圭介が、一歩踏み出した。
息は荒い。
肩も上下している。
それでも、今度の声は妙にはっきりしていた。
「俺にとってはな」
盤上パンタを射抜くみたいに、でもノワールへ届かせるために言う。
「奇跡でも何でもねえんだよ」
その一言で、部屋の空気が変わった。
盤上パンタの目が細くなる。
ノワールのアイセンサーが激しく揺れる。
「お前らは、ただそこにいたんだよ」
圭介は吐き出すように続ける。
「家で飯食って、共同体とかめんどくせえ言葉拾って、たい焼き食って、文化祭の表見て、しおりポケットにしまって」
言葉はぶつ切りだ。
でも、そのぶつ切りの全部が生活だった。
「共同体とか、ロジックとか、管理とか、めんどくせえ言い方してたけど」
圭介の声が割れる。
「結局ずっと、お前はそこにいたんだよ」
ノワールの喉の奥で、壊れた音が鳴る。
命令が押してくる。
排除。
回収。
合流。
でも、その下で別のものが踏みとどまる。
食卓。
ブラン。
ジャケット。
兄さん。
圭介。
「奇跡なんかじゃねえ」
圭介が叫ぶ。
「日常だ」
その言葉は、盤上パンタの胸へ刺さるようでもあり、ノワールの奥底へ落ちていくようでもあった。
ただそこにあった日常。
大げさな名前なんか、あとからつく。
その前に、飯を食って、帰りを待って、くだらないことで言い合う生活があった。
それが共同体だった。
「戻れよ」
圭介は最後に叫ぶ。
「お前、ノワールだろ」
その瞬間。
ノワールのアイセンサーが、激しく明滅した。
赤。
黒。
赤。
黒。
頭の中で何かがひび割れる。
遡る記憶。
ローテーブル。
九条のメモ。
ブランの笑い声。
悠真の「似合ってる」。
たい焼きの紙袋。
文化祭のざわめき。
表の余白。
ポケットの中のしおり。
ブランの「ノワールもいる」。
圭介の軽口。
――お兄ちゃん。
呼びたい。
呼ばなきゃいけない。
でも黒い命令が、そこを何度も塗り潰す。
排除。
回収。
合流。
「ノワール!」
圭介が、もう一度叫ぶ。
黒い身体が、ぐらりと揺れた。
盤上パンタの顔から、ついに余裕が消える。
「……やめろ」
低く言う。
今度はノワールへ向けて。
「その記憶は要らない」
あまりにも本音だった。
圭介は歯を食いしばる。
こいつは本気で、ノワールからその日常を剥ぎ取ろうとしている。
「黙れ!」
圭介が怒鳴る。
「お前にとっては奇跡かもしんねえけどな!」
呼吸が乱れる。
肺が焼ける。
「こっちにとっては、もう生活なんだよ!」
その声に押されるみたいに、ノワールの攻撃軌道がぶれた。
圭介へ向かうはずだった爪が、壁側へ逸れる。
石膏が砕け、時計が落ちる。
致命を避けた。
本人も気づかないくらい小さな抵抗が、まだ残っている。
盤上パンタは、そこで初めて、はっきりと苛立ちを顔へ出した。
「……ほんとに」
笑みが消える。
「邪魔だな、お前」
変身機を持つ手に、力が入る。
命令を、もう一段深く押し込もうとする気配。
*
ラボの処置室は、白すぎた。
光が強い。
機械音が近い。
消毒液の匂いまで、今は胸を刺すみたいだった。
悠真は扉の前で一度だけ足を止めた。
止めたというより、止まってしまった。
中にいるのはブランだ。
右腕のないブラン。
自分のせいで傷ついたブラン。
その事実だけで、足の裏が床へ貼りつく。
でも、次の瞬間にはもう開けていた。
「待て」
牧瀬の声が飛ぶ。
処置台の向こうから振り返る。
白衣の袖は少し汚れ、額には汗がにじみ、疲労と焦りで目の下まで暗い。それでも声だけは反射的に鋭かった。
「今はまだ」
そこで止まる。
悠真の顔を見たからだった。
悠真は何か言おうとして、言えなかった。
唇だけが動く。
喉が閉じる。
泣きそうなのではない。もう泣いている。処置室へ入ってきた時点で、顔じゅうぐしゃぐしゃだった。
牧瀬は、ほんの一瞬だけ何も言わなかった。
止めるべきだと思っている。
ここへ通せば、処置の邪魔になるかもしれない。それでも、この顔で扉の外へ返したところで、たぶん何も守れない。
同じ喪失の内側に立ったことがある人の沈黙だった。
「……短くしろ」
それだけ言って、半歩だけ身体をずらす。
完全に認めたわけではない。
だが、通した。
九条が処置台の横にいた。
端末を握っている。姿勢は保っている。いつもどおり、整えて、計って、次にやるべきことを見ている人の顔だ。
でも、泣いた痕がまだ乾いていない。
目が合った瞬間、悠真はそれだけでまた駄目になりそうだった。
ブランは、ひどく静かだった。
眠っているようにも見える。だが眠りではない。
右肩の断面は保護材で覆われ、細いケーブルが何本も胸と首元へ繋がっている。耳も尾も、力なく沈んでいた。いつもなら呼べばすぐ返るのに、今は返らない。そのことが、かえって現実だった。
「……ブラン」
名前を呼んだ途端、声が崩れた。
「ごめん」
駄目だった。
ひとつ出たら止まらない。
「ごめん、ごめん……俺、俺のせいで」
喉が痛い。
「俺のせいで、ごめん」
処置台の縁へ手をつく。
膝が笑う。
きれいに立っていられない。
「俺が」
息が切れる。
「俺が、あんなの……持ってて、ごめん。あんなの、まだ、父さんに繋がってるみたいで、手放せなくて……だから、だから」
言葉にした瞬間、胃の底がひっくり返るみたいだった。
ずっと理屈ではわかっていた。
自分は被害者だけでは止まれない。
父を失った側であると同時に、父を壊した側でもある。
でも、それが今ようやく、理屈ではなく痛みとして前へ出てきた。
「俺のせいで、ごめん」
また同じ言葉になる。
ほかに出てこない。
それでも、それしか出てこないこと自体が、今の自分の正体だった。
処置台の上で、白い耳がかすかに動いた。
「……ブラン」
声というより、息に近い音だった。
悠真が顔を上げる。
ブランは、ゆっくり目を開けた。
焦点は甘い。
悠真をちゃんと見ているのかもわからない。
それでも、口元だけがほんの少しだけ動いた。
「おにい、ちゃん」
その呼び方で、悠真の中の何かがまた崩れる。
「ごめん」
すぐ言ってしまう。
「ごめん、俺」
「だめ」
ブランの声は細かった。
細いのに、そこで止める力だけはあった。
「……ごめん、じゃなくて」
息が続かない。
途中で目を閉じる。
九条が一歩だけ動きかけ、牧瀬が手で制した。まだ喋らせすぎるな、と顔に出ていた。だが止めない。止めることと、奪うことは違うと知っている顔だった。
ブランは、次の息で、ひどく小さく歌った。
「……はみだし」
「……はみだし」
「……だいせいかい」
あの歌だった。
神代家の中へ何度も流れて、文化祭で一緒に聴いて、それから呪いみたいに反転した歌。
でも今、ブランの口から出たそれは、違った。
派手でもなく、楽しくもなく、ただ子守唄みたいに弱い。
それでも、ちゃんと呪いから外れていた。
「うた」
ブランが言う。
「へんなのに、とられたまま……やだ」
途切れ途切れだった。
でも言いたいことはわかった。
あの歌は、あいつのものではない。呪いのためにあるものでもない。そのことを、ブランは今ここで言い返している。
「ノワール」
白い睫毛がふるえる。
「こわい、の」
悠真の喉が詰まる。
「うん」
「ひとり、やだ」
その言葉は泣き言ではなかった。
見てしまったからこその事実だった。ノワールがどれだけ怖がっていたか。命令に押し潰されながら、それでも共同体を傷つけたくなくて、最後まで逸らしていたこと。
ブランは、自分の痛みの中にいながら、まだ片割れを見ていた。
「だから」
また息が切れる。
声がひっかかる。
右肩のあたりへ、九条の手がそっと添えられる。
支えるための手だった。言葉を奪わないための手でもあった。
ブランは、ほんの少しだけ笑おうとした。
うまく笑えない。
でも、笑おうとしたことだけはわかった。
「かっこいいとこ、見せて……?」
悠真は、しばらく意味を飲み込めなかった。
それは慰めではなかった。
泣かせるための綺麗な台詞でもなかった。
ブランは今、送り出している。
守られるだけの側ではなく、共同体の一員として、自分の言葉で悠真を前へ押している。
そのことが、苦しかった。
苦しいのに、目を逸らせなかった。
「俺、ノワールを……」
取り戻す。
そこまで言いかけて、止まる。
違う、と自分でわかった。
壊れた家を元へ戻したいわけじゃない。
割れた皿が元どおりになって、食卓が無事で、みんなでまた笑えるようになってほしい。その願いがないとは言えない。言えないけれど、それを先に置いたら、また同じになる。
ノワールを、自分に都合のいい幸福の部品へ戻そうとすることになる。
そうじゃない。
ノワールが壊れていても。
怖がっていても。
もう前みたいに戻れなくても。
それでも、あそこにいるノワール本人を見捨てたくない。
「……見捨てない」
声は小さかった。
でも今の悠真にとって、それは決意というより、やっと名前のついた本音だった。
「俺、あいつを、見捨てない」
九条が、わずかに目を閉じる。
牧瀬は処置の手を止めないまま、数秒だけ黙っていた。
それから、低く言う。
「行くなら、綺麗に終わると思うな」
その言い方は厳しい。
でも、邪魔をするためではなかった。
「壊れてる。お前も、あいつも、もう壊れてる。そのままで行け」
悠真は、何も言えなかった。
その一言は、許しではない。激励でもない。ただ、同じ喪失の中にいる大人が、嘘のない条件を渡してきただけだった。
「……はい」
かすれた声で返す。
ブランが、もう一度だけ息をする。
目を閉じかけたまま、ほんの少し唇を動かした。
「……だい、せいかい」
最後まで歌にはならない。
でも十分だった。
悠真は、処置台の縁へ触れていた手を離す。
まだ脚は重い。
怖い。
逃げたい気持ちも消えていない。
それでも立つ。
被害者だけの場所から、少し降りる。
自分が壊した側でもあると知ったまま、それでも行く。
扉の前で、九条が短く言った。
「三崎くんが繋いでいます」
「まだ、届く範囲です」
励ましではない。
現状報告だった。
だからこそ信じられた。
悠真は頷く。
泣いたままの顔で、ひどく不格好なまま、処置室を出た。




