第31話 肯定してあげる
父の部屋は、昔と同じ匂いがした。
古い煙草と、安い整髪料と、閉め切った空気。
子どもの頃はそれが大人の匂いだと思っていた。今は、どこにも行けなくなった部屋の匂いにしか思えない。
盤上パンタは靴を脱がなかった。
玄関から数歩入ったところで立ち止まり、狭い室内を見回す。テレビはつけっぱなし、流しには洗っていない食器、テーブルの上には郵便物の束。変わっていない。何もかも、中途半端に止まったままだ。
父は、部屋の奥で青ざめていた。
急な来訪に驚いているのか、目の前に立つ黒い異形に怯えているのか、たぶんその両方だ。
「な、なんだよ、それ」
盤上パンタは振り返らない。
父が見ているのが自分ではなく、ノワールのほうだとわかっていたからだ。
「久しぶり、父さん」
穏やかに言う。
穏やかすぎる声に、父の顔色が余計に悪くなる。
「お前」
父はそこで、本名を呼びかけかけて飲み込んだ。
その口の迷い方だけで、盤上パンタは少し笑いそうになった。
ああ、そうだ。父はいつも、自分がいちばん都合のいい形の息子だけを呼んでいた。
「期待してたでしょ」
盤上パンタが言う。
「頭がよくて、なんでもそつなくできて、将来ちゃんと使える息子」
父はすぐには答えない。
責められる予感だけで、もう身構えている。
「誇ってたよね。俺の点数とか、賞とか、外での評判とか」
部屋の隅に置かれたままのトロフィーを見る。
埃をかぶっている。
「でも、俺が何を好きかは、見なかった」
「……そんなこと」
「見てないよ」
穏やかに遮る。
「見てたら、笑わないもん」
かわいいものが好きだった。
耳も、しっぽも、歌も、きらきらした服も、変な形のぬいぐるみも、好きだった。
救われたものがそこにあった。
自分がやっと息をできる形が、そこにあった。
でも父は、それを趣味としても、逃げ場としても、好きの中心としても、認めなかった。
「お前のそういうのは、気の迷いだって言ったよね」
盤上パンタは微笑んだ。
「今だけだ、まともに戻れ、男なんだから、くだらない」
父の顔がひきつる。
言ったのだろう。
何度も。
たぶん本人は、矯正とか教育とか、そのくらいの気分だった。
「父さんは、俺の力が好きだった」
盤上パンタは言う。
「でも、俺がその力を何に使いたいかは、嫌いだった」
そこでやっと、父が絞り出すように言う。
「そんなの、親なら当たり前だろ」
「うん」
盤上パンタはあっさり頷く。
「だから今日は、その当たり前を返しに来た」
背後でノワールが微かにきしむ。
気配だけでわかる。
命令の糸に引かれながら、まだ完全には沈みきっていない。呼吸のように細い抵抗が、黒い身体の中に残っている。
その姿が、盤上パンタには痛いほど眩しかった。
見てしまったのだ。
神代家で。
白夜の端っこには、失った父の記憶があった。
その隣には、父を壊した機械があった。
しかも、その壊れた先の幸福が、いま共同体として生きていた。
失ったもの。
壊したもの。
今ある幸福。
悠真はその全部を、矛盾したまま抱えていた。
呼ばれれば返事をして、飯を食って、帰る場所があって、誰かに名前で呼ばれて、壊れたものごと生活の中へ置いてもらえていた。
盤上パンタには、それが奇跡に見えた。
黒金の奇跡。
白銀の奇跡。
悠真という鍵。
この手の中の変身機。
やっと、全部がつながったと思った。
やっと届くと思った。
自分が欲しかったものへ、自分の力で。
「見ちゃったんだよ」
父へ向けているのに、少しだけ別の誰かにも向けているみたいな声になる。
「ちゃんと壊れてるのに、ちゃんと生きてる家」
父は意味がわからない顔をした。
わからなくていい、と盤上パンタは思う。
「俺には、そういうのなかった」
だから欲しくなった。
だから羨ましかった。
だから奪うしかないと思ってしまった。
父は、じり、と後ずさった。
やっと危険の正体を理解し始めたらしい。
「何する気だ」
「肯定する」
盤上パンタはポケットから変身機を取り出した。
小さな機械だ。
小さいのに、世界を曲げるには十分な形をしている。
「父さんを、父さんが望んだ俺の力で」
ゆっくり言う。
「父さんが望まなかった俺の好きな形へ変える」
父の顔から血の気が引いた。
「ふざけるな」
「ふざけてないよ」
「やめろ」
「やめない」
盤上パンタは笑わなかった。
笑えなかった。
ここは遊びじゃない。ずっと欲しかった復讐と、ずっと欲しかった肯定が、同じ形で目の前にある。
「俺、昔、何回も頼んだよ」
父の目が揺れる。
「わかってほしかった。やめてほしかった。こっちを見てほしかった」
声は穏やかなのに、その奥で何かがずっと軋んでいる。
「でも父さんは、一度だって、俺がほしい形では肯定してくれなかった」
父は壁を背にしたまま、震えていた。
逃げ場はない。
目の前にいるのは自分の息子なのに、もう昔知っていた息子ではない。
その隣には、黒金の怪物がいる。
ノワールは、まだノワールだったのかもしれない。
その輪郭は、もうほとんど塗り潰されかけている。
でも、塗り潰しきれていない。
奥のほうでまだ、怖がっている。
その壊れきらなささえ、盤上パンタには眩しい。
「今度は俺が」
機械を持つ指先に、少しだけ力が入る。
「父さんを肯定してあげる」
ノワールが低く唸る。
命令に従って警戒を強めているのに、その音の奥には、別の痛みも混ざっていた。
怖がっている。
まだ、ちゃんと怖がっている。
そのことが、盤上パンタには甘かった。
壊れきっていないものを、壊れる寸前のまま抱えていられる奇跡が、目の前にある気がした。
いや。
奇跡だと呼んでしまいたかっただけなのかもしれない。
機械を父へ向ける。
その瞬間、外の階段を駆け上がる足音がした。




