第30話 追う
位置情報は途切れ途切れだった。
九条から送られてきた座標は、飛び飛びで、雑で、信用しきれない。それでも圭介はそれを辿るしかなかった。大通りを走り、細い道へ曲がり、信号待ちのあいだもスマホの画面を睨む。怒りはある。殴りたい気持ちもある。でも重心はそこじゃない。
ノワールを連れて帰る。
頭の中で、ブランの声が何度も繰り返される。
ノワールを、たすけて。
右腕を失った直後の、あんな声で頼まれて、立ち止まっていられるわけがなかった。
位置は東へ寄っていく。
古い住宅地。
再開発から置いていかれたみたいな一帯。
圭介は息を整える暇もなく曲がり角を折る。途中で何度か盤上パンタの顔が浮かんだ。笑っていた顔、羨ましいと言った顔、ごめんと呟いたかもしれない顔。どれも腹立たしい。だがそのどれより先に、あの夜のノワールの悲鳴が来る。
あいつは兵器じゃない。
怖がっていた。
助けを待っていた。
そこを見失うと、間に合わない。
*
寒い。
飛ぶたびに、背中の継ぎ目がずれる。
命令はまだ中にある。
壊せ。戻るな。前へ。従え。そういう硬い音の列が、思考の隙間に差し込まれつづけている。
でも全部は埋まらない。
兄さんの手の熱。
ブランの泣き声。
ジャケットの重み。
文化祭の照明。
食卓の匂い。
九条の短い指示。
圭介の雑な笑い方。
押し流される。
でも消えきらない。
だから余計につらい。
盤上パンタは、時々、私の首元へ触れそうな距離で囁く。
「もう少し」
やさしい声だ。
そのやさしさのまま、命令を深くするから気持ちが悪い。
歌まで混ざる。
きみは最初から大正解。
どこにもない星の設計図。
知っている言葉だ。
好きだったはずの言葉だ。
兄さんが笑って、ブランが変なところだけ真似して、私が家事をしながら無意識に拾っていた言葉だ。
なのに今は違う。
きみは最初から大正解。
だから壊れていてもいい。
だから組み替わっていい。
だから兵器になってもいい。
どこにもない星の設計図。
だから上書きしていい。
だからいちばん都合のいい形に直していい。
だから私の記憶も感情も経験も、設計図の外へ追いやっていい。
違う。
そういう意味じゃない。
そういう歌じゃなかった。
思うたびに、頭の奥へ針が刺さる。
*
ラボの処置室は明るすぎた。
白い身体が台の上にある。
右肩の断面は保護され、火花は止まり、緊急の固定も終わっている。それでも、失ったものは戻っていない。九条は台の横に立ったまま、端末を握る手に力を入れていた。視線は冷静だ。声も冷静だ。だが、それだけでは届かない現実の前で、その冷静さはひどく薄い膜みたいに見えた。
「接続の再建は」
「後」
牧瀬が言う。
「今は落とさないことを優先する」
白い身体の胸元へセンサーを追加しながら、もう一度呼ぶ。
「晃一」
返事はない。
九条のまぶたが、わずかに動く。
「ブランです」
口に出したのは、それだけだった。
責める響きはない。
だが訂正ではある。
牧瀬は手を止めなかった。
「わかってる」
そう返す声は低い。
低いが、疲労と焦りが混ざっている。
「わかってる上で言ってる」
その言い方に、九条は返す言葉をなくした。
彼は丁寧だった。
乱暴なところはひとつもない。
切れた線材を雑に扱わず、耳も尾も、今ある身体を少しも軽んじられないみたいに触れる。
なのに、その視線の奥にはずっと、失った一人の男がいる。
今ここで救おうとしているものと、取り戻したいものが、分けられないまま一緒にある。
それが、九条には痛かった。
処置室の外、壁際の椅子に悠真が座っている。
連れてこられたわけではない。
気づけばここまで来ていたのだろう。
でも、自分から何かをしに来た顔ではなかった。
扉越しに聞こえる言葉を、全部聞いている。
晃一。
絶対に救う。
落とさない。
再建。
そういう言葉のたびに、悠真の指先が強ばる。
行かなければ、という感覚だけが、まだ動けない身体の底へ沈んでいく。
*
位置情報が急に遅くなった。
圭介は立ち止まり、画面を見下ろす。
移動速度が落ちている。高低差もなくなった。
「着いたか」
呟いて、顔を上げる。
並ぶ古いアパート群のひとつ。
外壁はくすみ、共用階段の手すりは錆びている。誰かが暮らしている匂いはあるのに、時間だけが止まっているみたいな建物だった。
画面の反応は、その二階で止まっていた。
圭介は息を整え、階段へ足をかける。
怒りより先に、ブランの声が背中を押す。
ノワールを、たすけて。
扉の向こうには、まだ助けを待っているやつがいる。




